終章

終章

葬儀から数日後。

水穂さんの使っていた四畳半が少しずつ空っぽになっていく。結局、不用品回収社に出してしまうのは、可哀そうすぎるという事になって、使ったもので、また使えそうなものはすぐにだれかの手に渡るようにしたのである。

使っていた着物はすべて杉三が、和裁の材料として引き取り、箪笥や机などは、ジョチやチャガタイが引き取った。肝心のピアノはどうすればいいのか悩んだが、鍵盤の一部に付着した血痕が取れないので、どこかのホールに寄付するという分けにも行かず、とりあえず、影浦医院に展示しておくことになった。

水穂さんの持ち物がすべて撤去された後、青柳先生は、この部屋を取り壊そうと言った。製鉄所の利用者は、基本的にこの四畳半は使わないので、空き部屋にしておくのも、なんだか持ったいないという理由からだった。その代わり、中庭を増築して、より庭を綺麗にしようと提案された。そうなると、庭がかなり広くなり、動物が庭を走り回るのには、持ってこいの場所という事になる。ただ、青柳先生は実際に増築はしないといった。そのとき、青柳先生は口にしなかったが、何かある決意を秘めているように感じられた。

葬儀が終わって暫くの間、蘭は誰とも口を利かなかった。杉三たちが、形見分けのために集まったときにも、来なかった。杉ちゃんに、来いよと言われても来なかった。それで自動的に、水穂のものは、蘭の下には一切届かなかったことになるが、蘭は、そのほうが、精神安定のために、まだいいと思った。もし、彼の使っていたものがまだあったら、また泣き出してしまうかもしれなかった。かえって何もない方がいい。思い出して泣いたりしたら、仕事に支障が出てしまう。蘭の施術を求めてやってくる客は途切れてしまったわけではない。でも、客たちは、先生どうしたんですか、なんだか今までより覇気がなくなりましたね、と言って、失礼な心配をしてくれていた。アリスが、答えてやりなさいよ、なんて、言ってくれるけれど、蘭は生返事をするだけで、ほとんどしゃべらない日が続いた。

ある日のことである。

蘭の家のインターフォンが、鳴った。

「すみません、彫たつ先生、いらっしゃいますでしょうか?」

蘭はぼんやり、黙ったまま居間のテレビを呆然と眺めていたが、

「蘭!お客さんよ。ほらあ、出てやりなさいよ。ボケっとしてないで。」

アリスがそういっている。しかし、蘭は、出る気はなれず、

「後にしてくれ。今日は確か、予約は入ってないはずだ。間違ってきたんだよ。その人。」

とだけ言った。

「何言ってるの。出てやらないと、相手に失礼よ。予約している人ではなくても、せっかく会いに来てくれたんだから、せめて挨拶ぐらいしてやらないと。」

「お前が出てくれ。」

蘭は、面倒臭そうに言った。アリスはしかたないわね、と言いながらも玄関へいって、はい、どちらさまでしょうか、と言って二言三言言葉を交わした。そして、すぐに、戻ってきて、

「あたしではなくて、蘭と話がしたいって。ほら、出てやって。」

と、蘭に言った。

「全くうるさいな。一体誰なんだよ。」

「諸星正美さんという女性の方。多分先生に名前を言えば通じるっていうから。」

「諸星正美?」

蘭は、一向に働いてくれない頭で、一生懸命考えて、やっとその女性の顔を思い出した。確か、腕に昇り鯉を彫ってあげた、あの仕事をしていない女性である。

「でも、僕に彼女が何の用があるんだろう?たしかもう、昇り鯉は、完成しているはずだ。それに機械で彫ったわけじゃないから、すぐに色が薄くなることはないと思うし、、、。それとも絵柄を変えてほしいとでも?」

「そんなのは、本人と話してみればわかるじゃない。早く出てやりなさい。待ってるわよ。」

蘭は首をふりふり玄関先に行く。待ったくと思いながら、玄関のドアを開けた。

「こんにちは。」

蘭は、ガチャンとドアを開けると、例の女性、諸星正美さんが、静かな顔をして立っていた。その隣には、二匹のグレイハウンドがいて、その足元には、一匹は灰色、二匹は黒、合計三匹の子犬が座っていた。

「あ、、、。」

思わず声を上げてしまう蘭。

そこにいるのは、水穂の愛犬であるたまと、正美の愛犬である、サリーちゃんだった。

「子犬が産まれました。赤ちゃんが生まれたんです。水穂さんの愛犬である、たま君と、サリーちゃ

んの間に。」

「そ、そうですか、、、。」

蘭は、思わず涙をだしてしまった。

なんだか、水穂の身内が子供を産んでくれたのと同じくらい感激してしまったのだった。

「赤ちゃん、、、。」

「ごめんなさいね。すぐに見せてあげたかったんですけど、この子たちが自分で歩けるようになるまでは、待ってあげたほうがいいと思って。まだ、よろよろして、ちゃんと歩けないんですよ。この子たち、散歩させるには、まだ訓練が必要なんです。ハウンドは、比較的、成長のスピードが遅いらしくて、なかなか歩くのも遅いらしいんです。」

「そうですか、、、。」

蘭は、さらに涙を出してしまう。

「そうですか、、、。水穂に見せてやりたかった、、、。」

蘭は、男泣きに泣いた。

「もう蘭さん、泣かないでください。それはしかたないことじゃないですか。いくら後悔したって、仕方ありませんよ。水穂さんは、きっとどこかで見てるんじゃないですか。そう考えれば、それでいいじゃないですか。」

「そうは言ったってな!もう、謝ろうと思っても、どこにもいないんだぞ。それどころか僕は、女の人を五人も巻き込んで、、、。」

「何を言っているんですか。きっと彼女たちも、一生懸命生きてますよ。私は、その人たちと関連があった訳じゃないですけど、きっとどこかでやっているんじゃないですか。少なくとも、私は、水穂さんと出会えたことによって、人生が変わりました。」

正美は、そう静かに語りだした。

「変わったって、何でしょう?」

蘭もそう聞き返す。なにが変わったのか、聞いてみたかった。

「ええ、私、今までは、生きているのなんてもう嫌で嫌でどうしようもなかったんですよ。もう、家にもどこにも居場所がなくて。絶えずリストカットばっかりしていて。そのときに、蘭さんのところに行って、それを消してもらいましたけど、それだけではやっぱり、解決はしなくて。それではダメだって、何回も思いました。何か習ってみようとか、そういうことを思っても、家族や環境に邪魔されて、何も出来なくなってしまうんです。今までは、それで、仕方ない、そうやって生きていくしかない、と私は、泣きながら生きていましたけど。」

「そうですか。僕は、その傷ついた人を、水穂の刺客として送り込んだんだな。」

蘭は、大きなため息をついた。

「いいえ、かえってそのほうがよかったと思います。水穂さんのおかげで、たま君と知り合いましたし。サリーちゃんにも赤ちゃんが生まれました。あの人に出会わなければ、あたしはきっと自殺していたんでしょうね。赤ちゃん産んだときは大変だったんですよ。サリーちゃん。三匹目の子が逆子で、

獣医さんに帝王切開までしてもらって。」

そうか、やっぱり出産というものは命懸けの行事なんだなと、蘭は改めて思った。

「それで、私もやっとやくめが出来たんです。サリーちゃんの世話をして、ずっと付き添って、この子達の世話もして。この子達も体が弱くて。ミルクの栄養価とか、獣医さんに指導してもらって。このたちが、やっと歩けるようになるほど大きくなって、サリーちゃんより、私のほうがほっとしている感じ何ですよ。」

「そうですか、、、。」

蘭は、またため息をつく。

「もうちょっとしたら、子犬を譲ってくれという人がいますので、引き渡すつもりなんです。それまで、しっかり育てなくちゃ。この子達を次の方に引き渡す時まで、責任もって、育てないといけないわ。でも、それで、あたしは、この子達のおかげで、自分に自信が持てました。自分だけではなにもできないと思っていたのが、この子達を一生懸命世話するという事ができたんですから。だから私、決めたんです。もう、家を出て、この子達と一緒に暮らしてもいいなって。」

「とすると、どうやって暮らしていくんですか?」

「ええ、もうちょっと経営について勉強したら、近くの空き家でも借りて、犬の世話をして、グレイハウンドを販売して暮らそうと思うんです。この子達の一匹を残して、誰かお嫁さんをもらって、子犬を産ませて。グレイハウンドって、日本での、飼育頭数が、ワーストだと聞きましたから、それも逆手にとって、飼いやすいってアピールしたら、もっと興味をもってくれる人が、一杯出てくるんじゃないかなと。」

「ほ、本当に、飼いやすいんですか?」

「ええ、とてもおとなしくて、静かですよ。そうかと思えば、はにかみ屋で、甘えん坊で。見かけも武骨ではなく可愛いし。日本では、柴犬が一番いいって言う先入観があるけれど、決してそんなことはないんですよ。西洋のワンちゃんは、強いというより、癒し系です。」

「そうなんですか、、、。」

蘭は、なんだか、自分のしたことが、善なのか悪なのか、はっきりわからなくなってしまった。僕はただ、水穂によくなってもらいたくて、刺客を送り込んだつもりだったが、それが、彼女たちを、救ったことになってしまったのだ。

「そうなんですか、ばっかり言わないで、蘭さんももっと、自分がやってることに自信を持ったらいかがですか?私のリストカットの跡だって、消してくれたじゃないですか。きっとそれに、すくわれた人も、大勢いると思いますよ。だから、人間、自分は社会に居られるって感じるのは、やっぱりなにかしていることじゃないかしら。あたしも長年それがなくて悩んでいたけれど、今やっと見つかりいましたから、一生懸命やろうと思います!」

そうなんだ、、、。

蘭は、自分がしていたことを、責める必要は全くないのだという事を初めて知った。

とにかく、顔を手で覆って泣き続けた、、、。


そして、それから数日後。

「そうですか。」

ジョチは静かに言った。

向かい合って、食堂のテーブルに座っていた、懍はしずかに首を縦に振る。

「すなわち、製鉄所をたたむんですね、青柳先生。」

「ええ。」

懍はしっかりと頷いた。

「でも、製鉄所を閉鎖してどうするんです?売り土地にでも出すんですか?」

「ええ、売り土地に出すというか、お願いがございましてね、曾我さん。こんなことをお願いして、僕はなんて無責任なのだろうかとお思いになるのかもしれませんが、、、。」

「何でしょう。できることなら聞きますよ。」

懍の発言にジョチは相槌を打つ。

「実はですね。ここを買収していただけないでしょうか。それで、あなたのネットワークの一部に加えてもらいたいんです。あなたが日ごろか買収して、若くして人のために尽くそうとしている会社の中に加えていただきたい。」

「そうですか。でも、僕は経営者の顔が見える場所でないと、買収はしない性分なんですよ。」

意外なことを言われて、ジョチは静かに言った。

「これまで買収してきたのは、年齢はいろいろですが、経営者がしっかりと、会社を維持しようとしているところでした。しかし、今回は、経営者が、退こうとしているわけですから、そうなると例外ということになってしまいます。」

「そうですか。しかし僕も、これでは、安心して中国に行くことはできませんね。ここの利用者になる人は、きっともっと増えていくでしょうから。僕は、曾我さんに経営者になってもらって、退こうと思ったんですから。もう、僕も、80を当に超えてますし。高齢であれば、今の時代の世情だって、理解できないですからね。更生業務は、世情をしっかりしていないと、できないんですよ。それに、利用者は、これから先、ちょっとしたことで、非常に過激になっていきますしね。そのためには、体力勝負という事もあるんですよ。元号も変わりますし、ちょうど潮時だなあと思いまして。」

「まあねえ、青柳先生の言う理屈は理解できます。それは分かりますよ。ですが、先生。お願いがございまして。」

「何でしょうか?」

懍はちょっと笑って、そう聞いた。

「ええ、先生は、中国の無文字社会の部族の下に行くんでしたよね。まだ、しっかり文明化されていない少数民族に、文字や、計算などを教えに行くとか。」

「そうなんです。彼らは、現在も原始時代とほぼ変わらない生活であり、長い間外部民族と接触を拒んで生活してきたそうです。まあ、中国政府はどうしても、彼らを国民としたいんでしょうね。それで、僕たちに、教えてやってくれというんでしょう。ほかの、同伴していく教授たちも、やる気満々ですし、僕が、断るわけにもいかなくて。そこには、電気も水もないそうで、まずは電気を通してやる事から始めて。」

改めて懍は苦笑いする。

「じゃあですね、お願いです。未開の部族の村に電気を通すのは、かまわないのですが、便利すぎて、社会まで腐敗をさせないようにしてください。日本のような、若い人が住みにくくて、自殺を図るようなことはないように。」

ジョチは、そうお願いした。懍もそれをお願いされることはしっかりわかっていたらしく、

「わかりました。二度あることは三度あるということは二度とないように心がけます。すでに、この日本は失敗例として、見事に挙げられていますからな。」

と、にこやかに笑った。

「じゃあ、頑張ってください。青柳先生。先生はまだまだ、活躍できますね。そういう、未開の部族を相手に、教えたり、交流したりするなんて、僕たちはとてもできませんよ。」

「いえいえ曾我さん。ここにいる、利用者の若者たちも、ものは豊かであるけれど、心は未開の部族と同じようなものだ。スマートフォンとかそういう物で、見ていないのに、見ているようになってしまうと、こころはどんどん貧しくなり、ちょっとでもちがったりすれば、徹底的にたたきつぶしてしまう。それをさせないようにするには豊かな心を持たせてやるしかありません。きっと、若い人はこれから、どんどん心が貧しくなっていくでしょうから、それを食い止めるように、務めてください。」

二人のリーダーたちは、にこやかに笑った。このお願いが通用してくれれば、平和何て簡単にできるものなのだが、、、。それは、たぶん無理な話で、これからも傷ついたひとは、大幅に増えるだろう。


何年かたった。大石寺で修行させてもらい、本格的に僧侶として由紀子は活動させてもらおうと心に決めていた。病院から出た後、駅員としての人生にピリオドを打ち、いわゆる出家をして、仏門に入る。そして心から愛する人と一緒に、ずっといよう。トラーさんも今頃フランスで祈りをささげているだろう。あたしたちにできることは、みんながつらい思いをしないように、祈ることだ。由紀子はそうおもった。

大石寺の敷地内にある塔頭寺院の住職になった由紀子は、毎日本尊さんに向かって祈りを捧げる生活をした。核戦争とか、人種差別がなくならないように、毎回毎回祈り続けた。それによって自分の心も、昇華していくような気がした。

もう一つ、やっておかなければならないことがあった。由紀子は、住職として着任するとすぐに、本堂が主催する、納骨堂にある遺骨を譲り受けて、自身の寺の敷地内に小さな墓石を立てて、そこへ彼を葬った。覚えたばかりのお経を唱えながら、自身で彼の遺骨を納骨し、最後に墓石の蓋を閉めると、

「水穂さん。」

と、語り掛けた。

「やっと二人きりになりましたね。これからはずっと一緒にいてください。」

遺影も残してくれなかったし、戒名も何もつけてもらうことはできなかったが、由紀子は彼のことを決して忘れないと決めた。もし、トラーのいうことが、本当であるのなら、せめて、これだけはしてやりたい。だって、水穂さんには、私がいたのだから、私と同じ世界に住んでもよいはずだ。由紀子はそう思ってこれからも生きていくことにした。

「庵主様。」

寺を掃除している女中が、そういっている。

「今日は、小学校で講演がありますので、そろそろお仕度をお願いできますでしょうか。」

そう言えば、大石寺の大僧正が、子どもたちに命の尊さを伝えるため、僧侶による講演活動や、カウンセリングなどを積極的に行うようにと言っていた。由紀子も新人僧侶として、小学校や学童保育に赴いて講演をしている。もう、もので人を救うことはできないとはっきりわかってしまった現在、人を救うのは仏法だと、由紀子の先輩の僧侶たちは言っているが、まさにその通りだと思う。それに、早くから仏法的な考え方をもっていれば、自分が生きているのではなく、生かされているという事を知って、おごるという事がなくなる。現代に一番足りないのは其れだと言われている。

そういうことを由紀子は伝えていかなければならない。それは、大事な仕事である。

そして同時に、女性として、愛するという事の大切さを、伝えていきたいと思っている。

「じゃあ、水穂さん、行ってくるわ。」

由紀子は、寺の敷地内に設置された墓石に向かって、そっと語り掛け、講演に向かうために鞄をとった。今は、駅員帽ではなく、尼僧として頭巾をかぶっている。そうなった私を、水穂さんは、どう見ているだろうか。

Worthy is the Lamp that was slain,

and hath redeemed us to God by his Blood,

to receive Powor and Riches ,and Wisdom,

and Strength and Honour,and Glory,and Blessing.

Blessing,and Honour,Glory and Power,

be unto Him that sitteth upon the Throne,

and unto the Lamp,forever and ever.

訳:屠られ、その血によって、私たちの罪を被ってくださった子羊は、力、富、知恵、威力、誉、栄光、そして賛美を受けるのにふさわしい方です。

賛美、誉、栄光、そして権力が、王座に座っていらっしゃる方と、子羊とに、代々限りなくありますように。

(ヘンデル作曲、メサイアの終曲、歌詞より)

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本篇最終、星影のワルツ 増田朋美 @masubuchi4996

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