エピローグ
エピローグ 01
ブラッドは、眠るハーツを見下ろしていた。珍しい。溜まっていた宿題をこなしていた途中で睡魔に負けてしまったようで、一階のリビングテーブルに突っ伏したまま幸せそうに寝息を立てている。
脇にはマグカップが置かれており、大事に取って置き少しずつ飲んでいるココアが入っていた。ハーツが甘いココアを入れるときは相当参っている合図で、広げられた宿題はそれに見合った難問のようだった。テキストの要所要所に、ハーツの文字ではないコメントが水色の文字で走り書きされている。
“ここは代入する前に式の形を変えた方が分かりやすい”
“この定理は暗記しておくこと”
“グラフを書いて大よそのアタリをつけてから解いたほうがいい”
あれからさらに半年休学しているのだから、流石に授業についていくのも大変なのだろう。自分が使っている毛布を肩にかけてやりながら、窓のカーテンを閉めた。もう冬の足音がそこまで迫っている。
ブレインとイアとの対決の結果手に入れた大量のハーツのネクター臓器。ハーツは散々悩んだ末に、結局すぐそれらを自らの身体に戻すことを決めた。一つ二つならイアの病院に保管しておくこともできたが如何せん数が多く、他者に奪われるリスクも鑑みれば、取れる手段も限られたからだ。幸い前回の換装と還稙よりも交換する部位は少なかったので、一つの部位につき一か月かけて戻していくことで身体に納めることができた。
だが結果的に復学半年も経たずにまた休学を余儀なくされ、ハーツはベッドの上で二度の考査試験を受けている。多分にクラスメイトが教師に根回しをしてくれていたことと、リブが気を利かせて授業で使っていたテキストを融通し、勉強の面倒を見てくれてくれているおかげで、何とかは留年は免れたらしかった。
つい最近になってハーツは復学し、楽しそうに毎日学校に通っている。週末は久々のお茶会で、念願のイザームの家に招待されたと笑っていた。ラングス姉妹はまだ学校には出てきていないが、ハーツたちは折を見ては彼女達を見舞いに行っているという事だった。
「まじめだなあ」
ハーツをリリオ・デルに入れたのは、国内で随一の金持ち学校にもし潜り込ませられれば、ハーツのネクター臓器を移植した子供が見つかるだろうという打算からだった。正直受かるとも思っていなかったが、ハーツは持ち前の真面目さと勤勉さで試験に合格し、驚くべきことに奨学金まで勝ち取った。今はハーツの将来のためにも、受験させて良かったとブラッドは思っている。
「ごめんな」
ブラッドはハーツの小さな頭を撫でる。絶え間ない還植で身体への負荷が大きくなっているのか、ハーツの身体はここ数年ほとんど成長していない。成長期を迎えた年下のリブの方がたった三ヶ月で、頭一つ以上ハーツより大きくなっている。
「でも、ハーちゃんが大人になるまでに、身体を元に戻さないといけねえからな」
そういってブラッドはハーツを抱き上げる。ぎしぎしと階段を軋ませて二階に上がり、ベッドに寝かせて布団をかけた。全く気付くことなく眠り続けるハーツを確認してから階下に戻る。冷蔵庫から瓶ビールを取り出して一気に煽った。ソファに沈み込むように座り、天井を見上げる。数時間後にはまた仕事だ。最近は麻薬の取引現場の摘発の手伝いや、要人の警護など、比較的まっとうな仕事も増えてきた。ハーツが日の当たる所に出て行こうとしている以上、ブラッドも割りが良いからと汚い仕事ばかりしていることもできない。
ジ――ッ、カッション、ジ――ッ、カッション。
静かな夜にじっとしていると、自分の心臓の駆動音しか聞こえなくなることがある。
ブラッドはその音が好きだった。自分の心臓が此処に無いと確認することができるから。
イアからは再三その錆びついた機械式の心臓を今の高分子製の人工臓器に変えろと言われているけれど、頑なにそれをブラッドは拒んでいる。
これは感情の問題だ。そうブラッドは思っている。
いつの世も感情は論理と倫理を超える、バカみたいな戦争が十回も起こっていることからも明らかだ。
気付けば、目の前に赤く長い蛇が現れていた。右の眼窩から飛び出した頭がゆらゆらと揺れ、しゅーっと息を吐いてブラッドの左目を覗き込んでいる。もう見慣れた幻覚だ。
また無様な決断をしたな。無様で、迷惑で、酷い判断だった。
お前はいつも大切な所で間違える。引き金を引く。
零れたミルクは戻らない。幾度繰り返せば、それに気が付くのだ?
「――――もうさ、いいんだよそういうの」
そう、これは感情の問題なのだ。
ブラッドは右手で蛇の胴を掴んでいた。幻の筈なのに感触があるのが空恐ろしい。
「自己嫌悪に自殺願望。喪失と罪悪感を理由に自分を苛め抜くのは楽しいか?楽になるための理由を積み上げて、いつかその時が来たら言い訳にしようと安心してるのか?愛する者を二人も手にかけて、こうやってのうのうと生きているように」
愛を囁くように蛇に話しかけながら、力を込めて腕を引くと、ずるり、ずるりと蛇の胴が眼窩から引き摺り出されていく。
「わかってんだよ、もう遅いってことも――ここまで来たらさ」
苦しげに蛇が腕に巻き付き牙を突き立てるが、ブラッドは動じない。
「いつか最後に赦されるよう、今は頑張るだけだろ」
腕を思いっきり伸ばせば、ついに眼窩から抜け出た蛇の尾が視界に見えた。泳ぐように宙をうねったそれは、直ぐに溶けるように消えていった。
あの日、水族館のようにハーツの臓器がガラスの中で揺蕩うホールで。
その喜劇には、続きがあった。
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