唯一無二には程遠く 10
次にハーツが目を覚ました時には、もうすべてが終わっていた。
ガタゴトガタゴト。
振動する狭い箱。トラックの荷台にハーツは自らの臓器と共に積まれていた。横には、疲れ切った顔でコンテナの壁に背を預けて眠るブラッドがいる。傷だらけで、死んだように白い顔をして動かない。荷台から助手席に座る水色の斑髪が見える。
「リブ?」
「ああ、起きたか。まだ寝てていいぞ。診療所までもうちょっとあるからよ」
「診療所って、イア先生の?」
「そうだよ。ブラッドに頼まれた」
「ネイルと、ブレインは?」
「両方死体は回収したぜ。後は何とかしておくよ」
「えっと、どうしてリブが?」
「……けじめだよ。お前に人を殴れるくらいの元気が戻ったら、ゆっくり話すさ。今は休んどけ」
そう言われて、ハーツは自分がまだいくらでも眠れそうなくらい疲労していることに気付いた。思考もまだ纏まらない。
「――うん」
素直に目を閉じる。真っ暗闇の中、揺れる荷台の音に混じって、ブラッドの心臓の音が聞こえてくる。
ジ――ッ、カッション、ジ――ッ、カッション――
「ねえ、リブ。知ってる?」
「ん?」
「幸福な王子は、最後に鉛の心臓だけになって、天国に召し上げられたんだ。彼の金の肌も、宝石の瞳も、そこへ至る理由の一つにも成り得なかった――案外、一番尊いものは、誰にも必要とされないものなのかもしれないね」
ハーツは自分の胸をぎゅっと押さえて、息を吸う。自分のものではない心臓が、つぎはぎだらけの体の隅々まで血液を送ってくれる。どうしてだろう、胸がちりちりと痛む。
「ネクターは誰にでも臓器を与えることができ、ネクターは誰の臓器でも受け入れることができる。だけど、僕に与えられた人の臓器は、この心臓只一つだけだった」
ちらりとリブが振り返り、ハーツを見て微かに眉を顰めた。リブは再び前に向き直ると、彼の顔を見て言えなかった言葉を敢えて口にする。
「――なあハーツ、あんまり夢を見るな。人工も、天然もそんなにものは違わねえよ」
「うん。わかってる……わかってるんだ……でも、それでも」
贅沢品であった自分の身体をすみずみまで貪られたからこそ。そしてそれを取り返そうと足掻いているからこそ。暗い怨嗟と怒りに満ちた揺り籠の中で脳を泳がせながら、ハーツは切実な祈りにも似た思いを吐露する。
「僕もそうあれたらよかったって……嫉妬するくらい、悔しく思うときもあるんだ」
二週間後。その日に偶々観たのは、なんてことは無い悲恋物の映画だった。
戦争の最中恋に落ちた敵国同士の二人が、手を取り合って逃避行の末、展開から察するに最後には天国で幸せになりましょうと心中するようだった。
戦時下という設定なのに殆ど戦争の描写の無い一大スペクタクル。たった一丁のリボルバーが終わらせる安っぽい悲劇。モノクロの映像で取り除かれる現実感。罅だらけの骨と千切れまくった筋肉の療養に一切の運動を禁じられてなかったら、絶対に見る事はなかっただろう。
「っつまんね――……」
ブラッドは小声で呟き、半眼でスクリーンを睨む。救いはここの映画館のポップコーンメーカーがここらで一番性能がいいくらいか。塩の適度に効いたポップコーンの食感に思わず集中してしまいそうになりながらも、震える手で恋人の男が銃口を女に向けるクライマックスシーンを視界に入れる。
「悲しい映画だね」
美しすぎるエコーの掛かった銃声音。こんな楽器のような音が鳴るのなら、さぞ戦場も楽しいオーケストラ会場となりえるだろう。残念ながら、実際のあの音は内臓を揺さ振り嘔吐さえしかねない、文字通り爆音でしかないのだが。
「可哀相ってか?」
「んん、悲しいんだ」
もう一発の乾いた銃声。女に折り重なるように倒れる男。
横から小さな手がポップコーンを摘む。暗いシアターに黒髪を沈ませて、月色の瞳だけは僅かな光を反射させて、ハーツは真剣な表情で流れるエンドロールを注視している。
「ちょっと泣いちゃった」
こちらを向いたハーツの目は真っ赤だった。相当に我慢していたのだろう。恋愛も知らない子供が、かわいいもんだなとブラッドは微かに笑うと、ハーツが目を丸くする。
「え?ブラッド……?」
「なんだよ」
狼狽するハーツに首を傾げる。その拍子に襟元にぽたりと何かが垂れた。
「げっ、なんだ?」
驚いて見ると雨粒を受けたような染みができている。天井を見上げるが特に漏水している訳でも無い。その時、上を向いていた俺の顔にハーツの左手が伸ばされた。白い指が頬に触れて何かを弾く。そこで初めて、自分の右頬が濡れていることに気付いた。
「あ――――」
もう像を結ぶことのないお飾りの眼球から、液体がどんどん浸みだしてくる。左目は乾いたままなのに。なんて不良品だ。信じられない。気づいてしまうともう堪らない。胸が締め付けられるように苦しい、何を馬鹿な、ブリキの心臓の癖に。これがファントムペイン?ふざけるな!シャツの胸元をぐっと掴む。止まらない、何の意味も無い。思わず嗚咽が零れそうになるのを、俯いて大きく口を開閉させてなんとか耐えよようとする。頬に触れていたハーツの左手が、ブラッドの背中を優しく叩いた。
「すごく悲しい映画だったんだ。エンドロールの間くらい泣いたっていいんじゃないかな」
その声を聞いて、堰を切ったように、ブラッドが泣き出した。
周りの観客の顰蹙を買うほどに、大きな声で大の大人が泣いている。
向けられる針のように鋭い視線も軽く流し、ハーツただ大きな体を丸めて泣き続けるブラッドの背中に身体を預けた。耳を当てると、機械仕掛けの鼓動が聞こえてくる。こんな恥も外聞も無い姿には似つかわしくない、憎らしい位に規則正しいリズム。対するハーツの心臓も、持ち主の心ここに知らずというように穏やかに鼓動を打っている。
本当に、心と体の傷が皆一致していたらわかりやすいのに。そうハーツは思う。
人間の心は複雑だ。玩具の臓器で簡単に騙されてしまう身体なんかより、多分ずっと。
観客もまばらになった頃、右目だけを真っ赤に腫らせたブラッドがむくりと起き上がった。恥ずかしさを押し殺した仏頂面で、何事も無いように帰るぞ、と背中を向けて歩き出す。
「学校は、今日はいかなくて良かったのか?」
「もう休学届は受理されているから。一日くらいは自由にしてもいいかなって」
ハーツはついさっきの出来事には全く触れず、ガーゼと包帯にまみれたブラッドの後をついていく。夕焼けの中、じんわりと汗が額に滲む。
これからどんどん暑くなる。その太陽の光を、青く抜けるような空を、しばらくまた見られなくなる事に少し寂しさを覚えながら、ハーツは長く伸びる黒い影を追って家路についた。
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