唯一無二には程遠く 09
ブレインの側に、ネイルがそっと歩み寄る。体の線を強調したゲージニットにスーツスカートというまるで秘書のような服装だ。
「スパイナル卿の御身は、既に病巣でボロボロ。もう心臓ぐらいしかまともに動いている所は無いの……お可哀想でしょう……だから、逆にネクターの頭蓋の中にスパイナル卿の脳を入れ込むことで、元の元気な状態に戻っていただきたいと考えているの。ねえ、王子様、君の脳はちゃんとガラスケースに入れて永久保管するわ」
ブラッドが何とか上体を起こす。心臓が内部でがたがたと揺れているのを感じる。身体が重い、赤い瞳が壇上を左右し、ネイルの姿を捕える。
「ネイル……お前が全て仕組んだのか。俺から、奪うために」
「なかなかいいシナリオが決まらなくて六年もかかちゃったわ。どう、絶望できそう?」
「もう……やめろ………………!!」
「そんなこと言わないで」
指先が痺れてまともに物が握れないブラッドは、腕と足で強引にマシンガンを固定して壇上の二人を狙う。ブレインの口が大きく弧を描く。その両手が脇に並ぶガラスケースを指さした。
「壊すのか?お前のかわいい子供の、大事なパーツを」
その声にブラッドが躊躇した、ネイルが高らかに笑う。
「馬鹿ねえ。可笑しくて堪らないわ。あれだけ戦争で人を殺しておいて、仲間をスパイと言って殺しておいて、私の大事な人を殺しておいて――ほんっとうにおっかしぃわ」
マシンガンを構えたまま固まったブラッドに向かって、流れるような仕草でスーツの裏から銃を取り出しネイルが引き金を引いた。空気の抜けるような音を立てて飛んだ弾がブラッドの腕に当たる。それは尾に羽根がついており、注射器のような形をしていた。
麻酔弾。ブラッドはそれを引き抜いたが、まだ手の痺れが残っており普段より数秒動作が遅れた。ひときわ大きく機械の心臓が体の中で軋んだ。それが致命的だったのか、ブラッドの瞼がすぐに閉じかかる。
「大丈夫、起きたら全部終わってるわ」
憐れな子羊を見守る聖母のような声でネイルが囁く。完全に脱力し、床に崩れそうになってブラッドの身体を、ハーツが支えた。
「わたし、これでやっとブラッドの事を本当に許せる気がするの」
ネイルが机の上に小銃をことりと音を立てて置いた。最初にハーツを気絶させた時に奪ったものだ。壇上の二人は、武器を奪われ、庇護者を失った子供を前に勝利を確信し残酷な笑みを浮かべる。ハーツは覆い被さってくる大きな体を支えたまま、ハッキリとした声で、沈黙を破った。
「――許すだなんて、簡単に言わないで」
ネイルの顔を肩越しに、月の瞳が、まあるい瞳が、射貫くように見つめていた。
「そんな中途半端な覚悟で、許すだなんて言わないで」
静かな声が、刃となって彼女の白い喉に突きつけられる。
「身体と心の傷が、僕みたいに皆一致していたら、こんなに簡単なことも無いのにね――ねえ、ブラッドが右目を換えないで不自由に生きる意味を、貴女は理解しているんでしょ?」
こくりとネイルの喉が鳴る。
「わかっていて、貴女はまだブラッドを追い詰めるんでしょう?」
動かないブラッドを床に寝かせると、ハーツは立ち上がった。
「貴女の許しなんて、路傍の石よりも価値が無い」
黒髪の間から、ハーツの瞳がネイルの後ろ暗い心を追い詰めるように細められる。
「なんだよ、もう駄目だって、そんな目をしてくれよ」
ブレインがつまらなさそうに唇を尖らせる。ハーツが大きく構えを取る。右手を前に、左手を後ろに。両足を大きく前後に開き、上半身を捻って相手に垂直に相対した。親指を握りこむように拳を作る。まだ全快とはとても言えないが、動くことはできそうだった。
「僕は……僕は!」
ブレインはその構えに眉根を寄せる。
「おいネイル、あいつ銃だけじゃねえの?」
「まさか、体術なんて非効率なもの、ブラッドが教え込むとは思えないわ」
ハーツは笑った。殺したくないという主義を貫いて、体術に傾倒してよかった。銃と違ってガラスケースを悪戯に破壊することもない。自分の戦い方で、思いっきり戦える。
「もう―――誰にも、この身体に触れさせない!!」
ハーツは体勢を低くし、多少よろめきながらも壇上に向かって駆け出した。
「ひゅーぅ。助けを待つだけの王子様じゃ無い訳ね」
「なによ――絶望って結構遠いのね」
ネイルが手に持っていた麻酔銃を持ち上げた。だが引き金に指を掛けたところでハーツの動きが一気に俊敏になり、ネイルの手の中の銃を右の爪先で蹴り上げた。
「ぎゃっ!」
イアの指がありえない方向に曲がっている。ハーツはそのまま残った足を軸にして右足を旋回させ、車いすに座るブレインの顔に膝を叩きつけた。
「……なんだよ、痺れてるふりしてただけかよ」
「換装に比べたら、あんなのなんでもないよ」
ハーツは内心で驚く、枯れ木のような腕で、ブレインはハーツの強烈な蹴りを止めていた。微かにその手が痙攣しているのが触れたところから伝わるが、反応速度は十分だ。
「こんな憐れな姿じゃあ、戦えないと思ったか?」
嗤いながらブレインはハーツの腕を弾き、車椅子の手すりを両手で掴むと腕の力だけで身体を持ち上げ、振り子の要領でハーツの身体を足で蹴り飛ばした。たたらを踏み後ろに倒れそうになるハーツの太腿をブレインが両腕で掴む。車椅子に座っていることでブレインの攻撃の位置は自然と低くなり、相手の重心を崩すような攻撃がし易くなっていた。
体勢を崩したハーツの胸倉を掴み、そのまま執務机に押し倒す。圧し掛かってきたブレインの爛々と光る金の瞳が、睫毛が触れ合うほどの距離まで近づいた。
「諦めて差し出せ。俺はスパイナル家の為にまだ働かなければいけないんだ。もっともっと金と人を掻き集めて、次代の戦争に備える。馬鹿どもがのほほんと平和ボケしてる間にな」
その言葉を聞いて、ハーツの脳裏に閃くものがあった。自分はまだ、彼に差し出していないものがある。
「兄さん、伝えたいことがあるんだ」
「あ?」
「ペルデレの特殊刑務所に収監されていた、母さんからの言葉だ」
ぴくり、とブレインの手が震えた。余裕のある道化師のような振る舞いから一転仮面が剥がれ落ち、首を傾げて「どうしてお前が、誰も知らない母さんの行方を知っている?」と幽鬼のような虚ろな表情で問いかけてきた。
「同じ刑務所に収監されていた人から話を聞いたんだ。僕等と同じ長い烏の濡れ羽色の髪に、金の瞳。民の行く末よりも国の行く末を案じていた、七大貴族の当主と過ごしたと」
ブレインの瞳が惑うように揺れていた。ネイルがブレインの肩を掴み、甲高い声で話し続けようとするハーツを遮る。
「ブレイン、さっさとこの子を連れて行くわよ!貴方があの子の全てを奪う――ブラッドがここまで積み上げたすべてが失われることで、私の復讐は完成するの!!」
枝を折るような間抜けな音が響いた。ネイルの別の指が、またあらぬ方向を指していた。痛みに叫びそうになるネイルを、ブレインが目だけを動かして黙らせる。
「煩いよ」
冷たく引き絞られる金の瞳。その虚ろの底にある絶望に、ネイルが顔を青ざめさせた。
「母さんの遺した言葉の意味、やっとわかったよ。いまだ囚われ続けている兄さんを見て。兄さんは、母さんが捕まった後も、一人でずっと頑張っていたんだね」
ブレインの顔が歪んだ。母の遺志を継いで、闇に手を染めて国の為に金を稼いでいるつもりだった。それがいつ必要か、何に必要かなど、考えたくも無かった。目的と手段が入れ替わっていることに気付かないふりをしていた。
そこへ、さらに自分が生き永らえたいというエゴまで紛れ込ませていることも。
「もう、やめなさい」
その時のハーツの表情は、いっそ穏やかですらあった。
今まさに自分の全ての尊厳が奪われる危機の前で、彼は兄を心から憐れに思っていた。
ブレインは魂の抜けた表情で、ハーツを見下ろしていた。ブレインの胸を押すと、あっけないほどに簡単に彼は身体を退ける。
だが、その向こうに、般若もかくやという顔のネイルが麻酔弾を掴んで立っていた。
「このっ!!」
ネイルは手の中の麻酔弾を直接ハーツの胸に突き刺す。
「あんたは、こいつの身体になるの、幸福な王子!こいつがそのがらんどうの眼でブラッドに笑いかけた時、わたしは、わたしはぁぁ……!!」
注射器型の弾から、薬がハーツの身体に流れ込む。ハーツは一気に意識が沼底に引きずり込まれていくのを感じながら、最後の力で執務机の上に取り上げられていた小銃を手で掴み、壇上から放り投げた。銃は床を回転しながら遠くまで滑っていく。
銃は堅い鉄のブーツにぶつかって止まり、そして、大きな黒いグローブに包まれた手に拾い上げられた。
「ネイル、お前の地獄は、俺と同じ、その頭の中にあったんだな」
ブラッドが腑抜けた王の座す壇上を睨みつけている。服の胸元が大きくはだけて、金属のプレートが露わになっていた。
「眠っていたはずでしょう……!!」
ネイルが信じられないものを見る目で、銃を構えるその姿を見つめる。
「いや?ちょっと死んではいたみたいだが」
ブラッドはあの時、止まっていたが、眠っていなかった。度重なる戦闘による衝撃で心臓の発条が伸びて駆動が停止し血流が止まり、薬が身体に回ることなく仮死状態になっていたのだ。
「だから、僕に――任せておいて、良かったでしょ……?」
そう言ってハーツは深い眠りに落ちる。ことりと落ちた首にかかっていた鈍色の鍵が、光をゆるりと弾く。彼はブレインに話しかけて注意を反らしながら、向かい合うブラッドのコートの陰に隠れて発条を巻き直していたのだ。
ネイルは唯一把握していなかった。ブラッドの心臓が機械式に替わっていたことを。
その心が、もう別の人のものになってしまっていることを。
ブラッドが真っ直ぐ銃を構えた。いくら利き目を失ったとはいえ、スナイパーだった自分がこの距離でこの小さな銃を使いこなせぬ道理はない。パームから渡され、ずっと使い続けてきたこの銃だけは。
「心配するな。これから行く所も怖いとこじゃない、夢見るように辿り着いたそこは、きっとその頭の中にある此処と大差ないさ」
片目で見つめる、彼女もやっぱり綺麗だった。
ブラッドが小銃の引き金を引く。銃弾がネイルの心臓に叩き込まれる。真っ赤な花を胸の上に咲かせて、彼女はゆっくりと壇上に倒れた。不思議なことに、彼女の口からは苦痛の叫びも、怨嗟の念も、悲嘆にくれる想いも、発せられることはなかった。深い沈黙と共に、彼女は床に転がると、物言わぬ死体となる。
それは長い長い演技をやっと終えた、名女優のように穏やかで満足げな表情にも似ていた。
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