三十六計殺すにしかずと 06

 ブラッドは汚れた衣服もそのままに、一軒の酒場の前に立っていた。錆びた青銅の扉の上に、赤くペイントされた鉄の猫の看板が掛かっている。丸まった猫の背に這う店名は“赤い猫”。

 ブラッドは呼吸を整えてドアノブに手を掛ける。扉を開けると甲高く軋んだ音がした。店内にはバーカウンターと椅子の無いテーブルが立ち並ぶフロアで構成されていた。客が一斉にブラッドを見る。着替えてこなくてよかったとブラッドは薄く笑う。酒を囲むのは胡乱な客ばかりで、とても真っ当な店とは思えない。

「お客さん、酒かい?それとも仕事探しかい?」

 屈強な身体をしたマスターが声をかけてくる。顔の半分を占める火傷の痕と愛嬌のある顔のアンバランスさで人柄が読めない。

「人探しだ」

「そりゃあ高くつくよ」

「惚れた女なんだ。まけてくれないか」

「そうさなぁ……」

 シェイカーを振りながら思案するマスターの前に紙幣を数枚乗せる。

「そうさなぁ……」

 ちらりと紙幣に目を落として更にとぼけるマスターにブラッドは屈託のない笑顔を向けた。唐突な笑顔にマスターが栗鼠のように丸い目をきょとんと瞬かせた。

「マスター。それ、BMH弾だろ?きっつかったよな。俺も食らったよ」

 ネクタイを解きシャツの襟を開いて右の肩口を見せる。鎖骨の下から肩を這いあがるように、覗き込む顔にあるのと同じ火傷跡があった。

「あれ、キミも?」

 BMH弾は大戦末期に投入された最終兵器で、主に使われたのはディスコリアだった。殆ど試作品の状態で用いられたために事故が多く、敵よりも味方を殺した兵器として有名だ。

「弾打ってさ、その尾っぽからションベンみたいに液体火薬が漏れるとかありえないよね!ボクはこの通り頭から被っちゃってさぁ」

 みるみるマスターの態度が軟化していく。ディスコリアは最悪の戦場だった。要となる港があったとはいえ、後は外交で終戦まで漕ぎつけられる状態になっても国は狂ったように戦力を投下して戦局を無駄に長引かせた。だからこそディスコリアの地を踏んだ兵士同士の同族意識は強い。

「あ、もしかして先月末に電話待ちをしてた女の子がお相手?」

「!!ああきっとそいつだ!白金の髪で、唇の厚い――目印に二つ黒子がある」

「あ、ここだよね。電話してる横顔がすごい綺麗だったから覚えてるよー」

 バーテンダーが右の目尻に指を這わせる。ブラッドはその仕草に目を見張り、表情を一瞬固まらせたが、すぐにまた人好きのする笑顔を貼り付ける。

「――――ありがとう。この街を少し探してみるよ。恩に着る」

 数枚紙幣を上乗せして、ふらふらとブラッドは店を出る。

「ネイル……どうして、今になって……」

 夜の闇が右の眼球を舐め、ひり付くように痛みだす。これはただの記憶の反芻だ。ブラッドの右目はもう何も映さないことを除けば完治している。痛みは記憶だ。記憶は苦しみばかりだ。だから痛みは反射的にブラッドの心を苦しみで搔き乱す。この目を刳り貫けばそれから逃れられるのだろうか。それとも幻肢痛がブラッドを嘲笑うかのように追いかけてくるのだろうか。こうして思い出したくないのに浮かぶ、記憶の泡沫のように。


 田舎っぽいとばかり思っていたネイルの分厚い唇が、赤く染められるとこんなに煽情的に見えるのだと、二十年以上経って知るとはブラッドは思ってもいなかった。

ディスコリアから帰ってきて初めて会うネイルは郷里で見かけた時の野暮ったい化粧でも、戦場で見ていた素のままの顔でも無く、きっちりと隙のない化粧が施された完全な女の姿になっていた。

 郷里が焼け落ち地図上から名前が消えたと聞いたのは帰国後だった。帰る場所も無く首都の宿を転々としている時に、生存者捜索のための掲示板にネイルのメモがあったのを見つけた。待ち合わせたのはカフェのテラス席で、ピンヒールにジャケットを羽織った彼女の佇まいは戦場にいるときよりも、よほど戦闘態勢を取っているように見えた。

「貴方のしたことは正しかった。だってあの人は赤い猫だったんだもの」

 彼女はそう言って目を伏せた。彼女の背後にある石造りの家屋は半分以上崩れ落ち、戦争の傷が至る所に残っていて、この店もやっと営業を再開したところだという。この青空カフェに、今はブラッドとネイルしか客はいなかった。

「……すまない」

 ブラッドはその端正な顔をテーブルに擦り付ける。溢れ出しそうな感情の色が、何なのかは堪えている自分自身にもわからない。だがどうせ白とか黒とか、愚にもつかない極端な色をしているに違いない。そんなものは表に出さないに限る。

「ねえ、顔をあげて」 

 ネイルが、寂しげに笑っていた。恐る恐る顔を上げる。彼女の口の端の歪みを、ブラッドは泣き出す寸前の兆候だと察した。

「わたし」

 だがその唇の歪みは、そのまま悪魔の笑みを作り出す。ブラッドが不審げに眉を寄せたのと、彼女が動いたのは同時だった。

「貴方を許すわ」

 笑ってネイルがテーブルの下に隠していた手を、まるでさよならするように振り上げた。そこに何かが握られていたのを判別する間も無く、焼け付くような痛みがブラッドの右眼を襲った。

「ぐっ、がああぁぁぁぁl――!!」

 右目を抑え、ブラッドは叫ぶ。椅子から転がり落ち、蹲り痛みに耐える丸まった大きな背中を、ネイルは恍惚とした瞳で見下ろした。

「貴方のしたことを、私は許すわ。だからまず、貴方の大事な右眼を奪うの」

 もう狙撃手としては役に立たないわね、と髪を掻きあげて壮絶な笑みを浮かべるネイル。ブラッドは残った左目で、その美しい顔を見上げた。彼女の鴇色の瞳が陽光を受けてきらきらと光を零す。それが涙だったら、多分自分はそのまま土下座していたかもしれない。だけど彼女の顔には愉悦と快感だけが浮かんでいて、ブラッドはその顔を食い入るように見つめることしかできなかった。

「大丈夫、皮膚も目も綺麗なままよ。ちょっと血がたくさん出て、見えなくなるだけ。貴方の顔、嫌いじゃないから」

 ひりひりと疼く目から恐る恐る手を離す。視界が、広がらない。手は血と涙が混ざった液体で袖まで濡れている。

自分は泣いているのかもしれない。また友人を、一人無くしてしまったと。

「貴方を許すわブラッド。本当よ。だからわたしがすることを、貴方もずっと許してね」

 絹のように流れる白金の髪を透いて、赤い唇がぱっくりと開いた傷口のように弧を描いた。


「俺だって壊れたのに、あいつが壊れないわけないよな――そうブラッドは言っていたわ。私はね、その時ああ、この人はきっと死ぬつもりなんだろうなって思っていたの」

 ハーツのカルテを鍵付の引き出しにしまいながら、イアは膝を握りしめるハーツを見やる。

「だけど、あいつはハーツ君を連れてやって来た。そしてここに人工臓器が無いとわかるや、躊躇いなく君に自らの心臓を捧げた」

 きゅっとさらにハーツの手に力が籠められる。イアは目を細める。

「怒っていいのよ?重たいって。迷惑だって」

 目をぎゅっと閉じて、耐えるように、推し測るようにゆっくりと深く深呼吸する。我慢するなよ、そう言って頭を撫でたブラッドの顔を思い出す。

「……だけどそこに、愛はあるから。僕に、それを払い除ける理由はありません」

 ふっと息をついてイアが笑った。

「なんでブラッドが三十までって言ってるかわかる?」

「え?キリがいいからじゃないんですか?」

「お馬鹿っ!ハーツ君、ブラッドが三十歳の時には何歳になるの?」

「二十……」

 イアはハーツの両肩を掴み、鼻先まで顔を近づける。

「二十歳っていったらもう大人よ。だれかに庇護されなければならない義務が、無くなるの。一人で、生きていけるのよ」

 ゆっくりと、ハーツはその言葉の意味を噛み砕く。イアは堰を切ったようにそのまま言葉を続ける。

「そもそも、他人を構って二十代後半を過ごすのって大変な事なのよ。仕事も恋愛も、結婚も、そういうの全部適当にとっちらかして、ブラッドはハーツ君の保護者足ろうとしてたわ。そりゃあ見てて足りない所の方が多いなって思う事もあったけど…………青春を戦場で過ごして、戻ってきたと思ったら子育てして、私から言わせれば、ハーツ君もブラッドも似た者同士。自分以外にばっかり身を窶して、最後に斃れたら、神さまがその命を美しいものだとでも言って拾い上げてくれるとでも思ってるのかしら?あ、何笑ってるのよ!人命に尽くすべき医師がここまで言ってるのよ!わかってるの!?」

 気付けばハーツは腹を抑えて笑っている。堪えきれないと、くつくつと声を漏らして。

「イア先生。どうせなら三人で住む?」

 ハーツの言葉にイアは口をあんぐりと開け、それから真っ赤になって怒鳴った。

「大人をからかうんじゃありません!!」


 ハーツが家に着くと、暗いリビングには既にブラッドが戻ってきていた。ハーツが物音を立てても、破れたソファに座り込んで、うなだれたまま微動だにしない。

「もう帰ってたんだ。今日は疲れたもんね」

「あ……」

 電灯をつけるとやっと気付いたのかブラッドが顔をあげた。ほんの数時間しか経っていないのに、憔悴しきった様子で目は虚ろだ。これはいけない兆候だ。ハーツはその様子に気付かないふりをして、努めて明るくふるまう。

「何も食べないと寝つけなさそうだし、パンが残ってるから、ホットサンドでも作ろうか」

 キッチンに立って自分の片手が不自由なことを思いだす。何とかなるだろうかと、冷蔵庫を開けようとした時、真後ろにブラッドの気配を感じた。

「ハーちゃん」

「どうしたの?」

 ハーツの小さな肩を、ブラッドの手が遠慮の無い力で掴んだ。形の良い額が自身の心臓が納められたハーツの背中に押し当てられる。

「頼むよ……頼むから……」

「うん、なあに」

肩が砕けてしまいそうな痛みを飼い慣らしながら、ハーツはあくまで穏やかな表情でブラッドに接する。

「お前だけは、裏切らないでくれ」

「うん」

「俺の事を、ずっと信じてくれ」

「うん」

 何度も吐かれる願い。何度も吐かれる受容。

 裏切られても、裏切らないで。信じてもらえなくても、信じていて。

 予定調和の、贅沢な嘆願。

「うん」「うん」「うん」

 その全てを、少年は承諾する。子供の頃から何度も繰り返した遣り取り。

 今ならわかる。疑う事と裏切ることばかりを求められたブラッドの、壊れてしまった心の輪郭が。その形を辿って、次はハーツがブラッドを救う事をできるだろうか。解体された躰と共に失った心の形を、もう一度ブラッドが組み立ててくれたように。

 その内手に込められていた力は無くなり、ただ縋られるだけの状態になって少年は柔らかく笑う。

「じゃあ、ご飯つくるの、手伝ってくれる?」

「――パンを切るくらいなら」

 やっと元の調子に戻ったブラッドが、バツが悪そうにそう返した。長い腕がハーツの顔の横を通り、冷蔵庫からハムとチーズを取り出す。

「あ、野菜も出して」

「いらねーよ。女子かお前は」

 ブラッドは慣れない手つきでパンにナイフを入れている。その間にハーツは片手でコーヒーを淹れた。トースターから焦げたチーズの豊潤な香りが漂ってきて、二人のお腹が同時に鳴った。ソファに並んで座ってホットサンドを齧りながらハーツは考える。ブラッドをちらりと窺うと、同じように目が合った。

「……情報を整理してもいい?」

「どうぞ」

「今日、フレンテが狙ったのは、ブラッドだったよね。それで、その原因になった、ブラッドのディスコリア帰りの情報は、別の人間から手に入れた情報だった」

 そこまで言ってブラッドの様子を窺う。いつも通りの眠そうな垂れ目には特に忌避感は無い。二人の間で駆け引きをしていてもしょうがない、ハーツは続ける。

「その情報は、赤い猫っていう店に出入りしていた、女から得たものだった」

「ああ、合ってる。ネイルっていう、古い馴染みだ。俺のことが大嫌いでさ――厄介な奴に見つかっちまったよ。家も定期的に替えてたし、仕事も足がつきにくいツテで探してたんだけどな」

 淡々と、ブラッドは告げた。もはや隠す気も感じられない。だがそれよりも、ハーツはブラッドが大きな見落としをしていることに気になった。

「ねえブラッド、そのネイルが、僕を“幸福な王子”って呼んでたんだよね――?」

 それはすなわち、ネイルがハーツの身体の秘密を知っているという事。ブラッドは自分の失念に頭を押さえる。

「くっそ……最悪だ。このままじゃ、ハーちゃんが殺される……」

「早計じゃない?」

「あいつは危険だ。本気で俺が苦しむ全てを実行する権利があると思ってる。ハーちゃんのことも、髪の毛一筋まで解体して――いや、もしくは首だけ残して生命維持させて、ばら撒いた身体を拾い集めて来いって犬に芸をさせるみたいにわくわくした顔で命じてくるかもしれない」

 コーヒーカップに口をつけて、悲愴な顔で沈むブラッドに向かって、ハーツは湿布塗れの手をあげた。

「あのさ、どうして今になってって思わない?」

「どうして?」

「だって僕は六年もブラッドと暮らしてたんだよ。その間、全身を換装したり、怪盗五臓六腑として派手に動いたりもしてた。だけど現れたのは今なんだ。時期的に原因は一つしかないと思う」

「ハーちゃんのリリオ・デルへの入学……!」

「実際は一年前から籍はあったんだけどね。逆に通学するようになってこうなったってことは、やっぱり僕が他の生徒と接するようになったことがきっかけになってるんだと思う」

「臓器探しが裏目に出たか」

「それにしたって、僕がネクターだってネイルが知る理由にはならないんだけどね。どっちにしろあまりもう長くリリオ・デルにはいられない。だから、僕も隠していた手を打つよ」

「何を言ってるんだ?」

「ごめんね、学校が楽しくて。僕にだって、エゴぐらいあるんだよ、ブラッド」

「お前、まさか――――」

「うん。僕の臓器が移植された生徒を見つけた」

 ブラッドが気色ばむ。だがそれを遮って、金の目が赤い瞳を射抜く。

「次のお茶会で接触する。それを着火点に場を荒らせば、きっとまだ見えていない敵の形が浮かび上がってくるはずだ」

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