三十六計殺すにしかずと 05

 夜間診療は高くつくわよ。イアはそう言って二人を院内に入れた。血は流しているもののオペが必要な状態でもない。イアは地下まで降りることはせず一階の通常診療用の部屋に二人を案内した。出血が認められるブラッドのほうから手当てを始める。

 珍しくきっちりとチャコールグレーのスーツにを着込んでいるが、羽織っているコートと共に砂埃に汚れて、所々破れてしまっている。腕の怪我の方は軽傷で、肋骨の方が状態が悪い。罅が入っているようだが、ギプスをつける訳にいかないので防弾チョッキを脱がせ鎮静用のパッドと患部に貼ってやる。

「いでで、いででで!」

「動くんじゃないの!」

 すっかり日の沈んだ窓の外には何も面白いものなどないはずだが、怒りのオーラを滲ませつつ的確にブラッドの治療を進めるイアとなるべく視線を合わせないように、ハーツは夜の空を眺めて待っていた。

 銃弾が掠めた傷も消毒し、救急用の浸潤パッドを貼ってやると、呆れたことにブラッドはまだ治療前のハーツを置いてそそくさと逃げ出した。

「えっ!?ブラッド!」

「がんばれー怒ってもらえるのも子供の特権だ……」

「それ権利じゃなくて、義務じゃないの……ってえぇ!?」

 さわやかな笑顔一つ残して青年が消えた後、残っているのは手を腫らした子供と不機嫌な医者だけ。ハーツは恐縮しきった顔でイアに変色した手を差し出す。

「ん?なにこれ?」

 案の定、怪我の状態を見てイアは眉を上げた。

「えっと、ちょっと打っちゃって……湿布でもいただけたら――いたたたたっ!!」

イアは袖をめくり手首に残っていた手錠の擦過痕をあっさりと露わにする。

「なるほど、拘束されて――と。何?そういう不健全プレイ?」

「……それは」

 イアの咎めるような視線にハーツは言葉に詰まる。

「ちょっとトラブルに巻き込まれてしまって……」

「……ハーツ君の身体の関係?」

「それが……違うんですよ、驚いた事に」

 イアは僅かに瞳を揺らす。珍しいことに、ハーツが本当に狼狽していた。頭の良さが仇となって、大抵のことを呑み込んでから驚いたり悲しんだりする少年なのだなとイアは印象を持っていた。よっぽど彼にとっても想定外の事が起こったらしい。

 手の怪我は外観に対して酷くはなかった。関節に痛みがあるようだが湿布を貼って安静にしておけば大丈夫だろう。

「ねえ、イア先生。ブラッドの右目の治療をしたのは、イア先生ですか?」

 治療が終わると案の定ハーツは話を切り出してきた。

「――ええ、そうよ」

「やっぱり……その時のこと、何でもいいので教えてもらえませんか?」

「本人から聞いた方が良いように思うのだけど」

「僕は、ブラッドからあの目は戦争で失ったって言われてました。でもイア先生に治療してもらったのなら、その怪我は帰還後に負ったってことですよね?」

 ハーツについていたその嘘自体、初めて聞く話だ。イアはブラッドの何を考えているのかわからない顔を思い出す。

「あのバカ……そういう大事なことはちゃんと共有しておきなさいよ」

「イア先生!大事なことかもしれないんです。今日、ブラッドが襲われました」

「戦闘屋(バトラー)なんて仕事していたら、恨みなんてタダで買えるわ」

「――それを仕向けた人は、ブラッドの事を、右目を失った兵士と言っていました。今のブラッドを見て右目が見えていないとわかる人はそういない。それを知っているということが、僕にはすごく引っ掛かるんです」

 ハーツが必死で訴えかけてくる。その視線の真っ直ぐさに、結果イアは折れた。

「……私もすべては知らないわ。だけどあの目の治療をしたときに、少し話を聞くことができた。動揺していたんでしょうね、私に話しているというより、溢れた感情を吐露しているように見えたわ」

 椅子を回転させ、イアは夜空を見上げる。命を刈り取る鎌のように細く鋭い三日月。そんな不吉な想像を巡らせるのは、これからこんな話をするからだろうか。

「ブラッドがディスコリアで赤猫――スパイ狩りをしていたことは聞いた?」

「はい。赤い猫って、スパイの隠語なんですよね」

「ええ、そうらしいわ。ディスコリアでブラッドは、軍や民兵の中に潜むスパイを摘発するように命じられていた。ディスコリアは戦況を左右する港を有していた大陸にあって、戦争末期には膠着状態の戦場を何とか制しようと諜報戦も激しかったそうよ。そこで、成績が優秀で人当たりもいい、何よりも劣悪な環境で精神の健常を保っていたあいつに、白羽の矢が立った。あれであいつ、昔はもっと真面目だったみたいよ。闇医者で診た元兵士がたまたまブラッドの事を知っていて、話してたわ。場の空気を明るくしてくれて、冗談も愚痴も言える。しかも強い。最高の戦友だったって」

「確かに、今とは少し違うみたいだ」

「ブラッドは任務に誠実に尽くした。何人ものスパイを見つけ出し、ひっそりと処理する――仲間に決して彼は正体を明かすことなく、その活動を続けた」

 右目の治療中、聞いてもいないのにブラッドはディスコリアでの事を滔々と話していた。まるで神父に懺悔する憐れな子羊のように、油断しきったスパイの脇腹にナイフを差し込んだ感触や、その死体を見つからないよう川に流したことを。すべてのスパイを殺した時の事を、ブラッドは克明に覚えているようだった。まるで昨日の事のように。

 あれは赤い猫だった、だからしょうがなかったんだ。そう何度もブラッドは呟いていた。イアはなんの言葉もかけられなかった。人を癒すことと人を救うことは違う。イアは自分に人を救う才能が絶望的に欠けていると自覚していた。

「そんな任務に就いていて、本来なら心を許せる人間なんてできるはずがない。だけど、たった一人だけ、ブラッドは隙を見せてしまった。それがどんな人かわかる?」

「……同郷の友人」

「ほんっとうに頭が良いのねハーツ君は。恋人って答えると思ったのに!その通り、過去を共有している友人が偶然ディスコリアに配置されていた。オペレーターの女士官だったそうよ。そして、残念ながらその女には、軍の中に恋人がいた――ブラッドは初めて情に流されて、そのスパイを逃がそうとしてしまったの」


 その日の戦場は敵兵の潜伏場所だと情報を受けた集落だった。いつもの密林での精神を削るようなゲリラ戦とは違い、ブラッドは両手に抱えた機関銃を撃ちまくりながら、敵だらけのエリアを駆けずり回る。腕力と反射神経を存分に生かして暴れるブラッドの周りは、白煙すらも血に染まっていく。

「こんだけやっときゃあ……」

 ブラッドは片手は銃の連射を続けながら、もう片方の銃のマガジンを口で器用に交換する。周りは敵も味方も折り重なって酷い有様だ。まあ、やったのは自分だが。

「だけどこのシチュエーションが必要なんだ」

 敵味方の区別さえ付かない乱戦状態の白兵戦。今なら、たった一人の味方兵が消えたところでなんの疑いも掛からない。

「ネイルのためにも、パームを逃がしてやんねえと……」

 その時、戦争に従事してから初めてブラッドは殲滅と勝利以外の目的を持って行動していた。友人のため。仲間のため。三人で笑ってポーカーをしていた自由時間を良い思い出のままにしておくため。そんなささやかな願いを胸に、ブラッドは敵国のスパイであるパームを逃がそうと画策していた。

 二人に生きていて欲しいと、ブラッドは心から思っていた。たとえ、二人が離れ離れになったとしても。

「ブラッド!」

 振り返ればパームが二丁の自動小銃を携えて駆け寄ってくるところだった。ヘルメットをかぶり今は小麦色の羊毛のような髪は見えていない。深い森を思わせる緑の眼の奥に、別の思惑があると気付いたのはつい最近になってからだった。

「パーム……!」

「すまない……お前にこんなことまでさせちまって……」

「気にするな。どうせ有耶無耶になる事だ。俺の手は元々汚れきってる」

 周りの惨状に顔を歪ませて謝ってくるパームを制してブラッドは自嘲気味に笑った。例え独房にぶち込まれたって、直ぐに戦力不足で光の元に引き摺り出されるだけだと、戦場に出るようになってから嫌というほど利用されているブラッドにはわかり切っていた。

「本当にいいのか?俺を逃がして」

「何度も聞くな。確認する時間が合ったらとっとと自軍に帰れ」

 むせ返るほどの血と砂が作り出した煙に紛れて逃げるなら今のうちだ。ブラッドが敵陣の方角を親指で指す。

「どうせこの戦争はもうすぐ終わる。お前もわかっている通り辛くも我が国の勝ちだ。今更スパイの一匹逃がしたとて大勢は変わらねえよ」

「ありがとう……本当にありがとう……!!」

「うっせーなあ。戦争が終わったら酒でも送ってくれ。そんでチャラだ」

 高いやつな。ブラッドが笑うと、パームも目を細めて、故郷にいい酒蔵がある、と返す。

「一つだけ、頼みがある」

 パームは愛用の双銃の片割れを差し出した。

「ネイルを、よろしく頼む」

 たった一言。受け取ったその手の小銃は、肩にかかる機関銃などよりよほど重く感じられた。

「……わかった。戦争が終わるまでは俺が面倒見てやるよ。後はてめえで何とかしな」

「ああ。きっと迎えにいく、どんな手を使っても」

「隠密が得意なんだろ?今度こそ上手くやれよ」

「まかせろ」

 最後にブラッドにパームは敬礼した。ブラッドは小銃を持ったまま手を軽く振ってそれに答える。

「じゃあな」

 踵を返すと、敬礼を止めぬパームに背を向けてブラッドは基地に戻るべく歩き出した。

 一歩、二歩、三歩、四歩。

 気配。

「!?」

 ブラッドは身体を地面に倒れこませながら、空中で上半身を回転させて背後を見た。

 スローモーションのように視界に映り込む、銃を構えるパームの姿。

まさかそんな。右手に握ったままだった自動小銃で、不安定な姿勢のままパームの頭にポイントし、トリガーを引く。

 パンッ

 たった一発の銃声が、戦場に嫌に響いた。もろに反動を身体で受けたブラッドは肩から地面に落ちる。

「っつ……!!」

 痛みを無視して直ぐに地面から起き上がる。

そこには、倒れてぴくりとも動かないパームの姿があった。

「パーム…………?」

 裏切られた。最後の最期で。

 混乱する思考と行動を切り離して、身体は四つん這いの姿勢でパームへと近づいていく。

 緑の目を見開いて、パームは事切れていた。

「なあ、なんでだよ?」

 俺が、お前の国にとって脅威だったからか?

 それともスパイだと知られた相手は、やっぱり必ず殺さないといけなかったのか?

「なあ……教えてくれよ……!」

 ブラッドの悲痛な叫びが戦場に響き渡った。

 血煙が彼等の姿を覆い隠し――――その数日後に、戦争は終結した。

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