三十六計殺すにしかずと 03

 ハーツがいない。それに気づいたブラッドはこれ以上ないほどに取り乱していた。

「おい、俺の主人を知らないか?烏色の髪に金の眼の痩せた子供だ」

 帰り支度を始めた周囲の黒服たちに手当たり次第聞いて回るが、皆首を振る。

「あの金眼の子供?どうだったかな――」

「トイレでも行ってるんじゃないのか?」

 埒が明かない。本来ならマナー違反だが、構わずブラッドは子供達にもハーツの行方を尋ねていく。子供たちは狼狽するブラッドの様子に気圧されつつも、やはり知らないと首を振った。皆イザームとゴーラのチェスの観戦に熱中していて、細かな人の動きまで覚えていないと言う。

「くっそ……」

 青い顔をしてコートを引っ掴むとブラッドは部屋を出て屋敷の中を探し回る。ハーツは人を困らせるような事をするタイプではない。この前の喧嘩からまだ多少の確執はあるが、だからと言ってふてくされて隠れてしまうような子供ではないのだ。

 地図の並ぶ廊下を突っ切る。見慣れたそれは先の大戦で大活躍したものだ。酸味の強い唾が口の中に溜まる。堪らず吐き捨てそうになるが、ここはあの戦場じゃなく人様の豪奢な屋敷だとすんでのところで思い出して飲み込んだ。

 いくつもの廊下を曲がり、屋敷の奥へと進んでいく。不思議と誰とも会うことながい。館を繋ぐ渡り廊下まで差し掛かり、ブラッドは複数の人影にびくりと足を止めた。

「――なんだよ」

 鈍く夕日の光を弾く甲冑が廊下の左右にずらりと並んでいた。時代錯誤な飾り物だと思ったが、通り過ぎる時にそれらの甲冑に無数の傷が入っているのを見て考えを改めた。茜色に染まる甲冑は、まさにその時代に身に着けられ血を浴びながら戦場を駆け回ったあの頃を忘れさせまいとするかのよう佇んでいる。元々は騎士だったのが、それを今日には軍人として生き続けている一族。骨の髄まで戦いの遺伝子で構成されたサラブレッド。心がざわめく。この屋敷は苦手だ、瀟洒な雰囲気の裏に戦いの影がちらつき、ブラッドの心をひっかいてくる。そういえば、今日のホストの顔をちゃんと見ていなかったな、と今更ながらにブラッドは気付く。遠い将来、俺の上官になるかもしれない。ぼんやりとそんなことを思いながら部屋を一つずつ改めていく。

 やがて見つけた部屋は、古今東西のチェスボードが並ぶ遊戯室だった。部屋は電気も落とされまったく人の気配がしない。それでもどこかにいないかと、ブラッドが整然と駒の並べられたチェス盤の間を歩き回る。

 その時、手が一枚のチェス盤に触れた。目を落とすと、この盤だけ駒の並びが違っている。どの盤もいつでも試合が始められるように白と黒の駒が並べられている中、その盤だけは、白いキングを囲むように黒い駒がぐるりと周囲を囲んでいる。

誰かが悪戯でもしたのか。だが盤面の一点を見て、ブラッドは表情を失くした。黒い駒の輪の少しはずれたところに、白い騎士の駒が一つ置かれている。そしてその駒を重石に、一枚のメモがはさまれており、そこには几帳面な筆記体でこう書かれていた。

“幸福な王子は預かった。天国への入り口はこの下に”

 ブラッドの震える手が白いキングを握りしめた。眩暈がした。こいつは、ハーツの秘密を知っている。自らの身を分け与え、すべてを救おうとする傲慢な神の如き躰のことを。

 そしてハーツは言っていた。フレンテは近い将来人工臓器移植を予定していると。

「最悪だ……墓穴を掘っちまった」

 早く見つけなければ、ブラッドは目の前の机を蹴飛ばす。チェスの駒が音を立てて床に転がった先に、四角い床の継ぎ目があった。隠し扉だ。戸を引き上げ、急な階段を明かりもつけずに駆け降りる。羽織ったコートの裏のそこかしこに吊り下げられた武器の重み。ライフルや機関銃は流石に持ってきていないが、これでも戦える。

 階段の先には分かれ道があり右向きの赤い矢印が描かれている。どちらも緩くカーブしており、先が見通せない。素直に従い右に曲がる。左手側に扉が見えた。朱色の文字で走り書きがある。Welcome! 文字の下には、白いキングが釘で打ち付けられていた。

 瞬間的に湧き上がる怒りを、芯から冷えていく思考で抑えつける。

 戦場で必要なものは矛盾に満ちている。冷静と情熱、渇望と余裕。相反するものを要所要所で発揮することを求められ、一度でも違ったものを差し出せばその先には死が咢を大きく開いて待っている。つまりは優秀な戦士は運が良いだけなのかもしれない。ブラッドは銃を片手に、扉を盾にして隙間から中を覗き見た。

 中は、円形の闘技場になっていた。相当古い造りで、コンクリートではなく石積みの壁でできている。床は土がむき出しになっており、そこに真新しい小さなトーチカや遮蔽物になる壁が配置されているのが、なんだかアートのようで滑稽だった。ブラッドの覗く真向かいに、もう一つ扉がある。さっきの道の分岐で左に曲がればあちらから闘技場を覗くことになったのだろう。

「入ってください。いきなり撃ったりなんてしませんから」

 聞こえたのは、まだ若い声だった。銃を下ろさないまま、闘技場の中にブラッドは慎重に入っていく。二人の人間がいた。ハーツと同い年頃の子供と、体格のいい男だ。二人共軍服姿で、男の方に見覚えがあった。

「お前……」

 見覚えがあった。ラングス姉妹のお茶会で話した中にいた、屈強な身体をした黒服の男だ。

「ハーちゃんはどこだ?」

 躊躇いなく銃口を子供の方に向ける。主人を殺せば部下は戦う意義を失う。

「はじめまして。僕がこの屋敷の嫡男のフレンテ・サヴマです。お会いできて光栄です。この屋敷の地下にこんな場所があって驚いてらっしゃいますか?作られたのは三百年以上前で、その頃は腕に覚えのある闘士達の闘技場として栄えていたそうですよ」

 銃口を向けられて尚落ち着いた様子でお辞儀したフレンテが、手を中空に差し延ばす。その指先を追って、ブラッドの真っ赤な虹彩が引き絞られる。

「ハーちゃん!!」

 闘技場を見下ろすガラス張りの豪華な来賓席。そこにハーツがロープで縛りつけられいるのが見えた。腹には四角い箱が括りつけられている。目が合う、ハーツが何か叫んでいるがその声はガラスによって完全に遮られ全く聞こえない。

「ハーちゃん、すぐ助けるから!」

 同業者の男は、つまらなさそうに首をごきりと鳴らした。

「落ち着け、今暴れたらあの子供に括りつけた爆弾を爆発させる」

「トバリも僕も、起動スイッチを持っています。勢い余って撃てば、彼は死にますよ」

「は……?」

 意味が解らない。ブラッドは想定外の言葉に頭が真っ白になった。あいつの身体は金塊に匹敵する価値がある。それを、わざわざ吹き飛ばす?

「お前等、何が目的だ?」

 言いながら既にブラッドの冷静な部分が気付いていた。ハーツが目的ではない。だったら残るは決まっているではないか。フレンテが真っ直ぐブラッドを見つめて言い放った。

「ブラッド・ウェンドウィルソン。貴方は、赤猫狩りの一員ですね?」

 グリップを握る手が震える。簡単にあの日がブラッドに我を忘れさせる。

 探さないと。殺さないと。赤い猫を。

 探して捕えて責めて苦しませて、殺してばらして詰めて贈らないと。

 臙脂色の瞳が目一杯まで開かれ、手はぶるぶると痙攣する。それでも銃を取り落すことはない。

 冷静に、情熱を持って任務に当たれ。真実を渇望しろ。

 赤い猫は余裕のある優れた兵士に擦り寄ってくる。

 銃を手放すな。引き金は考える前に引け。

 それは死に直結する要因となるからだ。きっと。

 そうブラッドは信じていた。

 黙り込むブラッドに痺れを切らしたのか、トバリが言葉を続ける。

「お前の記録が重要機密扱いで軍に残っていた。一一七番隊所属、戦争末期にディスコリアに送られ、泥沼のゲリラ戦の中で兵士としての才能を開花させた。そして戦争下の悪環境下でも精神面のコントロール能力が低下しなかったため、途中からゲリラ戦と並行して赤い猫――敵国から送り込まれたスパイ――の捜査、処理という特殊任務を与えられたのだろう?ディスコリアでの二年間での赤猫狩りの摘発数は五件、継続していたゲリラ戦でも高い殲滅数を維持したまま、終戦まで生き抜いたと記録されている」

「ディスコリアからの帰還兵の精神疾患発症率は七割を超える。そんな中、過酷な任務を完遂して精神を正常なまま維持している貴方は驚くべき存在です」

「どうだかな……診断なんてあてにならねえもんだぜ……」

 ブラッドの声が擦れる。帰国後に国の精神病院で二三の質問の後に下された“正常”のカテゴライズ。帰国して早々右目を失明し血の滲んだ包帯を頭に巻き付けていたブラッドを、医者は笑って褒めた。あなたは運がよく、心が頑健だと。密林でのキャンプの夜に、じりじりと燃えるたき火越しに赤猫狩りにスカウトしてきたあの日の上官のように。

「それが、どうしてハーツの護衛なんて?親子や兄弟には見えませんが」

「放っておいてくれないか?俺はしがない保護者でしかない」

「それは、貴方がまともな職についていたらの話でしょう。今は戦闘屋(バトラー)をしているとか」

「まともな職に就けない駄目な大人がこの国には溢れてるのさ、お坊ちゃん。それによ」

「「平和なんて、戦争への準備期間でしかない」」

 はっとして顔を上げると、フレンテが壁に掛けられていた銃剣を取り上げ、ぎゅっと握ったグリップを見下ろしていた。

「やっぱり貴方は僕の想像通りの人だ」

 フレンテが顔を上げる。ブラッドを貫くその視線には、強い意思と共に危うさがあった。

「貴殿と一戦を交えたい」

「は?馬鹿を言うな」

「そう言うと思ったから、彼を用意したんです」

 フレンテは懐から掌の納まるほどの小さな機械を取り出してハーツに向けた。ボタンに指がかかる。

「どうです、これで本気になれそうでしょう?」

 叫び続けるハーツの腹に括られた爆弾が暴れるたびに揺れて、ブラッドは冷や汗が出る。大人しくしてろと怒鳴るが、聞こえていないから無駄だ。

「それとも、逆に爆破させてハーツの命の残り時間で戦った方が緊迫感が増しますか?」

「……やめろ」

「僕は本気だ。貴方が適当なことをすれば、トバリにも爆破を指示する」

 ブラッドは大きく息を吐く。本来は相手の用意した舞台で戦うなどまずやってはいけないことだ。だから相手を引きずり出して自分のテリトリーで戦わせざるを得なくしたフレンテは、まず一手目を成功させていると言えた。

 だがその代償は、重い。剣呑な光を湛えた赤い目が、周囲の障害物の配置と、敵と認識した二人の装備を舐めまわすように観察する。

「勝利条件は」

「相手を戦闘不能にすること」

「――わかった。そのかわり約束しろ。俺が勝ったら俺のことは一切忘れろ。資料があるならすべて燃やせ。そして今後俺とハーちゃんの事は一切詮索するな」

「承知した」

「悪いが、私はフレンテ坊ちゃんを支援させてもらう」

「勝手にしろ、結果は変わらねえ」

 闘技場の両サイドに立って睨み合う中、戦いの開始を告げるブザーが鳴り響いた。ブラッドの目の前には壁が二つ。木製のつい立と、コンクリートで塗り固められた強固なもの。迷わずコンクリートの壁の後ろに滑り込むと同時に銃弾が壁を叩いた。

 実弾だと音で分かる。本気なのか――ブラッドが無意識のうちに殺意のボルテージを上げる。銃弾が止んだ。壁から顔を少し出してフレンテの姿を目で探す。彼は銃剣を構え真っ直ぐにこちらへ突っ込んできていた。

「馬鹿か?」

 ブラッドはコートの裏に吊っていたスタングレネードを引き抜くと投げつけた。壁に背をぴったりとつけ、耳を塞ぎ目を閉じる。大きく弧を描きドームの真ん中で炸裂したそれは、光と爆音を轟かせ、だが一切の炎を撒き散らすことなく数秒間ドームの全体を照らす。

「どうだ?」

 通常なら一時的な見当識の乱れを起こしてまともに立つこともできないはずだ。壁越しに覗くがフレンテとトバリの姿は見えない。ブラッドは点在する遮蔽物に身を隠しながら敵の姿を探す。木箱を積み上げられた障害物に近づくと、その周囲の土の何箇所もが掘り返されたように色が変わっていた。嫌な予感がして、手近にあった大きめの石を離れた場所から投げつける。地面に石が触れ、跳ねると同時に地面が爆発した。

「地雷まで……」

 地下で地雷を爆発させるなんて正気の沙汰ではない。高く真上に土を噴き上げたところをみると指向性が高く威力は低いものなのだろうが、それにしてもだ。

「ここが崩れりゃどっちも死ぬぞ」

 あいつらは何かがおかしい。さっさと終わらせようと地雷を避け迂回したところを、待ち伏せされていたのだろう、タイミングよく銃弾が飛んできた。舌打ちしながら地面を転がり別の壁の裏に隠れる。弾が掠った左の二の腕から血が滲んだ。

 スタングレネードが爆発してからまだ三分と経っていない。無力化できていないことは明らかだ。相手が読み勝ちしてゴーグルや耳栓を装備していたのか?いくつもの可能性を考えながらもそれを凌駕する勝ちの手を探す。射線上から相手の位置を割り出したかったが、見えにくい右側からだったので位置を掴み切れなかった。右手には三つの遮蔽物がある。そのどれかに、フレンテとトバリのどちらか、もしくは両方が潜んでいることになる。だが撃ってきた奴も馬鹿ではない。普通に考えればどちらか一人が隠れ、分散して別の場所からブラッドの動きを補足しようとしているはずだ。

相手に有利な場所での二対一、流石に厳しい。それでも進むしかない。三つのうち一番近い遮蔽物の裏に飛び込む。動くと同時に銃弾が飛んできた。今度は胴にまともに弾が当たったが、シャツの中に防弾チョッキを着ていたので出血はない。痛みと衝撃を噛み殺すが、思わず声が漏れた。

「ぐっ……」

 遮蔽物の裏には誰もいない。痛みに乱れる呼吸を整え、土嚢が積まれただけの頼りない盾越しに周囲を見渡す。今の銃撃の方角からやはりフレンテとトバリが別々に動いていることが分かった。だが、こうやって可能性を試している内にすでに二回もブラッドは被弾している。じり貧になっているのは否めない。

「コケにしやがって……」

 自分の火力不足が恨めしい、手元にあるのは自動小銃が三丁とスタングレネードの予備。最近は片目が見えない不利をカバーするために大口径のマシンガンで薙ぎ払うような頭の悪い戦い方ばかりしていたのだ。手榴弾もあるが、このおんぼろの地下闘技場で使うのは憚られた。

「ブラッド。感じます。貴方がじわじわと追い詰められ、苛立っているのを。隙あらば一瞬で相手を撃ち殺さなければという切迫した緊張感を」

 不意に、フレンテの弾むような声が闘技場内に響いた。

「あなたのその焦燥と、殺意に濡れた思考。不利だとわかっていて尚、最善を尽くすために動き続ける体。すごいです。本当に。これが、戦争の地獄を知っている人間なんですね」

 最悪なことに、小さな闘技場の石の壁に反響して、話している人間の位置が特定できない。ブラッドは胸糞悪いスピーチを聞き流しながらその貴重な時間で痛み止めを飲み込む。

「軍人一家の跡取りにとって、一番の不幸はなんだと思いますか?簡単ですよね、武勲を立てられないことですよ。大きな戦争が終わり、国は疲弊ししばらくは戦う意思も持てないでしょう。そんな倦んだ時代を生きる俺の身にもなってください」

 大きな手、広い肩、有り余る体力、真面目な性格。その全てが、彼が立派な軍人になることを約束していた。だが時代だけが、彼を裏切った。

そしてあろうことか、彼から内臓を切り取り、さらに戦場から遠ざけようとしている。

「――倦んだ時代か、なるほど良い言葉だな」

 同調しつつ、積まれた土嚢から顔を半分出して反応を伺う。

「そうでしょう!!だからこそ、俺は戦いを望むんです。より実戦に近い、命をかけた戦いを!!」

 興奮した声が帰ってきたが、位置把握の手掛かりになる物音はしない。どうしたものか、思案するように宙を泳いでいたブラッドの目線がある一点で止まり、瞳が僅かに見開かれた。その口元は驚きと怒りと笑いがないまぜになったような、大よそ戦場で浮かべるものではない表情を描いていた。

「いいぜ、そこまでされたら乗らない訳にもいかねえ」

 誰にともなく呟いて、ブラッドは虎の子のスタングレネードを取り出した。ピンを引き抜き土嚢の陰から再び放り上げる。そのままブラッドは耳を塞ぐこともせずに、両手を土嚢の上から突き出し、二丁拳銃をフルオートで撃ち切った。凄まじい閃光と轟音がその姿をかき消す。それが収まると、土嚢に寄りかかるようにダウンしたブラッドが、薄れる光の中から浮かび上がった。

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