真宗高田派と応真派と真智派の選択
わしは、本願寺の勢力を衰えさせるべく、真宗高田派と接触することにした。
しかし、真宗高田派は応真派と真智派に分かれており、どちらと接触するか難しいところだ。
そもそも、真宗高田派の始まりは、下野国高田専修寺にある。
嘉禄元年(1225年)、親鸞が「高田に本寺を建立」「善光寺に来るべし」と如来の夢告を受け、弟子2人と共に善光寺に赴く。
そして、善光寺から本尊である一光三尊仏の写しを貰い受け、真岡城主の大内氏の懇願により建てられた下野国高田の寺院に安置した。
これが真宗高田派と本寺高田専修寺・高田門徒の始まりである。
嘉禄2年(1226年)、朝廷から高田の寺院に「専修阿弥陀寺」の名と勅願寺に指定するとの綸旨を賜り、寺の名称を専修寺に改めることとなる。
その後、親鸞の布教活動は遊行から専修寺中心に変わった。
親鸞は建立してから京都に戻るまでの約7年間を、下野国高田専修寺で過ごしたとされている。
親鸞の高弟である真仏が高田門徒の中心人物であったたため、親鸞が帰洛してからは、真仏が高田専修寺の第2世となり、引き続き高田門徒を率いて布教活動などを行っていた。
その後、真慧と言う法主が現れる。寛正5年(1464年)、第10世となり、後に高田派中興の祖と呼ばれることとなる人物だ。
真慧は、布教と仏事に「野仏」と「野袈裟」を使用し、関東地方だけでなく東海地方、北陸地方にまで門徒を増やしていった。
この頃の真宗高田派は、浄土真宗内でも佛光寺派に次ぐ、第二の勢力を誇っている。
真慧は、特に越前国や加賀国で積極的に布教を行っていたが、当時は真宗高田派の流れを汲む、三門徒の勢力が強かった。
三門徒とは、真宗高田派の弟子が越前国で布教を行い、そこで弟子を増やし、在地の孫弟子が中心となって出来上がった高田派の流れを汲む一派であった。
専照寺(真宗三門徒派 本山)、誠照寺(真宗誠照寺派 本山)、證誠寺(真宗山元派 本山)の三山が中心となっていったため、三門徒と呼ばれることとなった。
しかし、真慧の布教により、三門徒から真宗高田派へ宗旨替えをする者や時宗からも宗旨替えをする者も現れ、真宗高田派の勢いを増すこととなる。
真慧は、門徒や末寺を増やしていったのだが、真慧の友人であり本願寺派第8世でもあった蓮如の布教活動によって、本願寺派に宗旨替えしてしまう門徒や末寺が現れ出してしまう。
本願寺派は、天台宗の青蓮院末寺となって衰微していたのだが、蓮如によって徐々に威勢が上が始めていた。
しかし、寛正6年(1465年)、天台宗の延暦寺は、以前から対立していた蓮如を「仏敵」とし、1月に延暦寺西塔の衆徒を以て、大谷本願寺を襲って破却してしまう。3月には、再び本願寺を破却する。
だが、延暦寺は高田派と本願寺派との違いがあまり理解できなかったため、真宗高田派を本願寺派と同一視して敵視してきた。
そのため、7月に真慧は比叡山に登り、真宗高田派は本願寺派とは全く別であることを陳述する。
真慧は、比叡山の理解を得ようと7日間にわたって、親鸞の教えである浄土真宗の教義を講義した。
比叡山の僧侶たちは感動し、真慧は親鸞聖人の再来ではないのかとの噂まで出だしたと言う。
こうして、高田派こそ浄土真宗の正統として認められ、延暦寺から慈覚大師が、一刀三礼で彫り上げた阿弥陀如来立像を譲られたらしい。
しかし、真宗高田派も延暦寺の威勢には勝てず、高田専修寺も延暦寺東塔の末寺となってしまったそうだ。
また、真慧は伊勢国の門徒の懇請によって、伊勢一身田に無量寿院を建立した。真宗高田派の西国での布教の重要拠点となる。
その後、真慧は本願寺が真宗高田派の末寺と門徒を引き抜いた件について、蓮如に抗議し、本願寺派との関係を断った。
文明5年(1473年)、加賀で守護の富樫氏にて家督争いが起こる。
真宗高田派は富樫幸千代に付き、本願寺派は富樫政親に付くこととなり、合戦が行われた。
文明6年(1474年)、本願寺派の支援を得た富樫政親が勝利する。
真宗高田派が支援した幸千代は、加賀国から追放され、真宗高田派は加賀国にて逼塞を余儀なくされた。
同時期、本願寺は蓮如が越前国に吉崎御坊を建立し、本格的に越前国と加賀国に布教している。
そのため、真宗高田派や三門徒の末寺・門徒の多くが本願寺派に宗旨替えを行い、真宗高田派の勢いは衰えていった。
それでも、真宗高田派の影響力は残り、文明10年(1478年)3月には、後土御門天皇から、高田専修寺を皇室の祈願所とするとの綸旨が下付され、真慧は「上人号」を勅許されている。
長享元年(1487年)10月、法橋だった真慧に法印が叙された。
長享2年(1488年)6月、加賀国で本願寺派が一向一揆を起こして守護の富樫政親と合戦を行う。
真宗高田派は、この時は富樫政親に味方し、再び本願寺門徒と戦った。
しかし、富樫政親は敗れて高尾城にて自害し、本願寺派が加賀国を占領する。
そのため、加賀国では真宗高田派から本願寺派に宗旨替えする者が続出し、多くの真宗高田派の門徒たちは、加賀国から出て行くこととなった。
その際、富樫政親の妻が我が子を連れ、真慧の下へ逃れることとなる。
真慧は、富樫政親の妻を内室とし、その連れ子こそが、後の応真であった。
永正3年(1506年)7月、加賀国の本願寺門徒が、越前へ攻め込んできたため、真宗高田派の門徒や三門徒は、朝倉貞景に味方する。
九頭竜川の戦いでは、朝倉軍が勝ち、越前国にあった本願寺派の有力寺院である和田本覚寺と藤島超勝寺は、越前国から追放されて加賀国に逃れた。
その後、越前国では、本願寺派は禁教となり、残された本願寺派の門徒は大半が真宗高田派に宗旨替えを行った。
そのため、真宗高田派は越前国での勢いを取り戻すことになる。
しかし、真宗高田派は相続争いを起こし、応真派と真智派に分かれて争うこととなった。
永正7年(1510年)6月、伊勢国一身田無量寿院にいた真慧は、真宗高田派の本山である下野高田専修寺の住持職を応真に譲ろうとする。
高田専修寺の住持は、真宗高田派の法主を意味していた。
しかし、応真は辞退したため、常盤井宮家出身で、後柏原天皇の猶子であった真智を養子とし、真智に跡を継がせることにする。
永正9年(1512年)10月、第10世の真慧が亡くなると、翌11月に後柏原天皇は、真智に対して高田専修寺の住持職を承認した。
真智が高田専修寺の住持を相続したと思われたところ、そのことに反発し、真智の高田専修寺の住持を認めない僧たちが続出する。
彼らは真智に対抗するため、応真を擁立し、ここに応真と真智との間で相続争いが起こったのであった。
永正10年(1513年)2月、後柏原天皇は、応真派の工作によって、応真が真宗高田派の正統だと承認する綸旨を出すこととなる。
しかし、真智派の反撃は早く、12月に後柏原天皇は一転して応真への綸旨を棄破した。
再び、真智の高田専修寺住持職を承認することとなったのである。
また、真智に末代紫衣を着し、宮中に参内して宝祚延長を祈ることも命じた。
真智は後柏原天皇の猶子であったため、有利な立場だったのだ。
真智は、三河国の桑子明眼寺、菅生満性寺などの有力寺院の支援を受け、ますます応真との対決姿勢を強めていった。
しかし、応真派の巻き返しもあり、永正17年(1520年)9月、室町幕府は、応真の高田専修寺住持職を承認し、永正18年(1521年)6月には、後柏原天皇も応真に対して真宗高田派の相続を承認することとなる。
そして、大永2年(1522年)、一身田専修寺とも呼ばれる様になってきた一身田無量寿院を応真が継ぐ代わりに、応真は真智の弟子となることで和解した。
こうして、応真が第11世となり、相続争いは一応の決着をみる。
しかし、真智は三河の桑子明眼寺・菅生満性寺の他、越前四ヶ寺と呼ばれる大野専西寺・風尾勝鬘寺・松木専光寺・兵庫西光寺などの大坊主たちを味方に付けていた。
それに対して、応真は伊勢の小坊主たちが主な味方であったため、伊勢での立場は優位であったたものの、真宗高田派全体として見れば応真の立場はいまだ優位ではなかったのだ。
応真は、加賀国守護であった富樫政親の子であり、応真派は伊勢国と下野国などの関東に影響力を持っていた。
それに対して、真智は常磐井宮家の出身で、後柏原天皇の猶子である。真智派は越前国と三河国に影響力を持っている。
そもそも、応真と接触したところで、富樫との縁が出来ても、今すぐ加賀国をどうにか出来るわけでも無いしな。関東に出るまでも時間がかかる。
伊勢国ににしても、真宗高田派の影響力がある地域は北畠家の領域に近く、揉めることは間違いない。当家が応真派と接触したのが北畠家にバレたら、北畠家との関係が益々拗れそうだ。
反対に、真智と接触すると、常磐井宮家の出身と言うことで、当主の常磐井宮恒直親王と縁が出来る。と言うより、常磐井宮恒直親王を通じて真智に接触することになるだろうな。
常磐井宮恒直親王は大宰帥に任官しているので、縁を得られれば、九州への大義名分に使えるかもしれない。
それに、今や伏見宮家と常磐井宮家しか残っておらず、常磐井宮家も断絶寸前だ。
わしは摂家出身のため、富樫より常磐井宮家の方が親しみを持てる。
また、常磐井宮家の方が中央への影響力も高い。
真智の本拠地が越前国のため、朝倉に擁されているものの、朝倉と揉めた時に仲介ぐらいには使えるだろう。
三河国にも影響力があり、織田弾正忠が三河国を攻める際には、真智派が力になってくれるかもしれないな。
結論としては、真智一択であった。京にいる実父の近衛稙家と九條稙通卿を通じて、常磐井宮恒直親王と接触することにしよう。
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