三留野包囲と和睦の使者

 我々は、妻籠城一帯で防御陣地を構築しつつ、木曽谷に斥候を放っていた。

 木曽氏方からは、三留野にいる木曽氏の一族が斥候を放っている様で、敵方の兵がしばしば見受けられる。

 しかし、三留野の兵だけでは、当家に対抗出来ないので、木曽福島にいる木曽氏の本家に使者を出した様だ。


 引き続き防御陣地を構築して木曽氏の軍勢が到着するのを待つ。

 木曽谷なんて貧しい土地なので、直接統治したいとは思わないので、敵の軍勢を破って、講和に持ち込みたいのだ。

 要衝である妻籠城までは、当家の物にするけどな。

 妻籠城は徳川家康の軍勢も退けているし、木曽谷側と馬籠側のどちらにとっても重要な場所だ。


 忍衆から、約三百の木曽氏の軍勢が木曽福島を出発したとの報せが届く。思ったより少ないが、木曽谷の耕作地の少なさを考えれば、守備兵を残して何とかかき集めた人数なのだろう。

 木曽氏の軍勢は、約一日で妻籠の向かいの三留野に到着した様だ。

 到着した翌日には、木曽氏の使者がやってきた。

 内容は、馬籠遠山氏と木曽氏を攻めたことへの非難と、馬籠城と妻籠城の返還である。

 勿論、受け入れられる訳無いので、拒否するとともに、反対に木曽氏に当家へ従属する様に伝えた。

 「当家は、木曽谷を攻め取るべく約五千の軍勢を用意している。従属するなら、妻籠城を除く木曽谷の所領を安堵する」と言ったのだが、使者は従属など受け入れられないと焦って帰っていった。

 約五千は東美濃を攻めた時の人数なので、今はそんなにいない。

 東美濃各地や馬籠城に守備兵を振り分けたので、かき集めて約三千と言ったところだろうか。


 平井宮内卿から、木曽氏の軍勢が思ったより少ないので、三留野の木曽氏の屋敷を包囲すべきとの進言もあり、我々は防御陣地から出て、三留野へと進軍した。

 三留野に到着すると、木曽氏の兵たちは三留野の屋敷に籠城している様で、三留野の民たちも逃げられる者は屋敷に逃げた様だ。

 三留野の集落で逃げずに残ったのは、老人ばかりであった。

 三留野は木曽谷でも開けているので、妻籠城の管轄地として所領にしても良いかもしれないと思い、三留野を囲みつつ、木曽福島方向に防御陣地を構築させることにした。


 三留野を囲んだ翌日、前に現れた使者とは別の使者が、木曽福島からやってきた。

 前にやって来た使者とは違い、その態度はかなり下手に出ている。屋敷を除いた三留野を約二千ぐらいの兵で占拠しているのだから、当然だろう。

 その使者の話では、和睦をしたいとのことであった。

 木曽氏からは、妻籠城と俘虜にした木曽一族・家臣の返還を求めるとのことである。

 わしは使者に対して、俘虜の返還には応じるものの、和睦の条件として木曽氏の臣従、馬籠城と妻籠城は当家が領有、当家から木曽氏へ木曽路奉行を派遣、木曽家当主の木曽義在の嫡男である木曽義康の当家への出仕、当家への最恵待遇を提示した。

 木曽氏の使者は、とても難しそうな顔をして、何とか条件の緩和を申し出るものの、木曽氏へ持ち帰り協議せよと使者を木曽福島へと帰らせる。


 かなり厳しい対応であるとは思うが、木曽氏の臣従は彼我の戦力差から当然であろう。

 木曽路の入口である馬籠城と妻籠城は要衝であるので確保しておきたい。

 木曽路奉行は、木曽氏の統治権を脅かすものでは無く、木曽路の交通を円滑にすべく、管理や運営を木曽氏に助言・監督する出先機関として設置したいのだ。

 木曽義康の出仕は、本人や家臣たちを文官として働かせることで、当家の行政機構など学ばせ、行政文書の制式など、将来的には木曽氏が当家に行政機構を合わせられる様に学んでもらうのが目的である。

 最恵待遇は、当家や東天竺屋の関銭を免除するなどしてもらいたい。越後の長尾家や甲斐の武田家と交易する際に、木曽路を利用しているからな。



 木曽氏当主の木曽義在から、どの様な返事が来るか、引き続き三留野の木曽氏屋敷を囲みつつ、待つこととしよう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る