本願寺勢力の分裂
冬になり、本願寺や畿内の情勢は変化をしていた。
細川・六角・法華一揆連合軍は、山科本願寺を陥落させ、本願寺法主である証如や顕正寺蓮淳、実従などの首級を挙げたことで、士気は大いに高まり、その勢いで大坂御坊へ攻め込んだ。
大坂御坊方は法主の死によって本願寺正統が断絶したことや、大坂御坊内に一門の者がいなったため、士気も低く、包囲軍の猛攻に堪えられず、敢えなく陥落することとなった。
特に、法華一揆勢の勢いは凄まじく、大坂御坊の建物や周囲の町並みに火を放ち、山科本願寺同様に灰燼に帰してしまう。
また、連合軍は大坂御坊近郊の渡辺津にも攻め込み、略奪や放火をし壊滅させた。これは、細川京兆家の拠点である堺の意向があったとされている。
大坂御坊陥落後、細川・六角・法華一揆連合軍は分かれることとなった。
六角軍は自領の南近江へ本願寺勢力を掃討しに戻る。
法華一揆勢は二手に分かれ、一方は京・山科国へ戻り、本願寺勢力の掃討をし、もう一方は細川軍の援軍として摂津国・河内国・和泉国に残ることとなった。
細川軍は法華一揆勢とともに、摂津国・和泉国の本願寺勢力を掃討すべく出陣する。
細川方の木沢長政は、河内国の本願寺勢力を掃討することとなった。
これらの本願寺勢力の掃討に対して、法主と実質的指導者であった顕正寺蓮淳を失ったことで、畿内の本願寺勢力は、誰が本願寺の指導者になるかで揉めることとなり、組織的抵抗をすることが叶わなかったため、各個撃破されることとなる。
奇しくも、顕正寺蓮淳が畿内を取り纏めており、生き残った一門もまた顕正寺蓮淳の粛清から逃れられた小粒の者ばかりであったため、一丸となって対処することが出来なかった。
各個撃破された本願寺一門の生き残りは、雑賀御坊へ逃れることとなる。
顕正寺蓮淳の長男である実淳、蓮如の四男蓮芸の長男実誓と次男賢勝が雑賀御坊に逃れるものの、顕正寺蓮淳の強引なやり方に不満を持っていたため、次第に対立する様になった。
北陸においては、母方の畠山氏が治める能登に逃れていた実悟が、畠山氏の協力を得て、加賀国へと侵入する。
かつての支持者たちと連携するとともに、自身を破門した本願寺証如と顕正寺蓮淳が討たれたのは、本当は両名が仏敵だったからだと訴えた。
加賀国内では、顕正寺蓮淳の強引なやり方に不満を持っていた者が多く、本願寺証如や顕正寺蓮淳が亡くなったこともあり、超勝寺や本覚寺から離反する者が相次ぐ。
加賀国は再び超勝寺派と実悟派に二分されるかと思われたが、そこに蓮悟や顕誓などが戻り、加賀国は更に混迷極めることとなる。
越中国は、顕誓の兄で安養寺御坊住持の実玄と瑞泉寺が治めており、大一揆に与したため、本願寺の直接統治とはなってはいなかったが、越後長尾氏との抗争の最中であるため、日和見していた。
伊勢国・尾張国・三河国の門徒たちを束ねる願証寺実恵は、父である顕正寺蓮淳が討たれるも、静観の構えを見せていた。
三河国の三河三ヶ寺である本證寺、上宮寺、勝鬘寺、実如の四男である実円が治める三河本宗寺も静観の構えを見せるとともに、三河国の門徒たちの引き締め行う。
しかし、本願寺証如に最も近い血縁は実円であり、本證寺もまた蓮如の子孫であるなど、三河国もまた不穏な気配を漂わせていた。
大和国の飯貝本善寺の住持である実孝は、蓮如の十二男であるが、兄弟の中でも不遇であり、大和国吉野の門徒たちを指導していたものの、三河国本宗寺住持の実円の勢力の大和進出に悩まされる。
しかし、一向一揆勢が奈良へ侵攻し、暴れまわってたことで、興福寺や大和国人たちに目の敵にされ、本願寺証如と顕正寺蓮淳の死により、汲みやすしと興福寺と大和国人たちの攻撃を受けることとなっていた。
六角軍は堅田の称徳寺を攻め落とし、住持であった実誓は落ち延びることとなる。
父方の叔父たちを頼ろうとしたものの、細川方に攻められており、頼ることが出来なかったため、祖母の出身家である畠山氏を頼ることにした。
河内国・紀伊国守護畠山氏もまた、実誓を擁立することで本願寺勢力を味方に付け、細川京兆家に対抗しようとしたのである。
こうして、本願寺勢力は分裂することとなったのであった。
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