一向一揆の暴走と細川との争い

 本願寺にとって仏敵であり、法華宗の庇護者であった三好元長を自害に追い込んでも、一向一揆の蜂起は収まらなかった。

 一向一揆で蜂起した門徒たちは、法華宗以外の仏教宗派も追放すべきだと言い始め、次第に本願寺証如や顕証寺蓮淳による命令も聞かなくなってしまったのである。

 本願寺の統制が効かなくなった一向一揆勢は暴走し始めたのだった。



 一向一揆勢の暴走は、大和国から始まった。

 7月10日、本願寺の門徒であった奈良の富商の橘屋主殿、蔵屋兵衛、雁金屋民部が、大和国の守護である興福寺と大和国内で戦国大名化しつつあった筒井順興と越智利基を攻め滅ぼさんと、一万の一向一揆が蜂起し、興福寺に攻め込んだのだ。

 その際に、興福寺の菩提院方の恵心院と阿弥陀院が焼かれてしまっている。

 同月17日、本願寺蓮如が幼少時に修行して本願寺にも縁のある大乗院にも攻め込んだが、興福寺方に押し戻された。

 しかし、この時の襲撃で、興福寺は主要伽藍、一乗院、大乗院、院家十七坊を残して、美麗第一と称された東北院、子院、院家、数百にものぼる僧坊が炎上する。

 一向一揆勢は、春日大社にも攻め込み、宝蔵と五箇屋を破壊し、略奪を行った。それだけに止まらず、猿沢池の鯉や春日大社の鹿も悉く食い尽くされたそうだ。

 同月23日、更に一向一揆勢は南下し、越智利基が籠る高取城を攻めるが、8月8日に筒井・越智連合軍と十市遠治の援軍によって、一向一揆勢は吉野に撤退した。



 この一向一揆勢の暴走に対して、細川六郎は三好元長の排除を狙っただけであったが、思いもよらぬ悪影響を招いた結果に驚くとともに、一向一揆を脅威と見なした。

 細川六郎は細川京兆家当主として、畿内の支配を脅かす存在となった本願寺との決別を決意し、一向一揆を鎮圧せんとする。

 一方、細川六郎の変心を知った顕証寺蓮淳も、これまでの一向一揆の行動を事実上追認し、細川六郎への攻撃を命じ、細川六郎と本願寺は全面対決することとなった。


 細川六郎だけでなく、京の民衆も一向一揆に脅威を抱き始めたころ、「一向宗が京に乱入し、法華宗を攻撃する」という噂が流れる。

 細川六郎方の摂津国人の茨木長隆の画策もあり、京と山城国の法華宗徒たちは、一向一揆に対抗すべく武装し、7月28日に柳本賢治の家臣であった山村正次に率いられて法華一揆として蜂起した。

 この法華一揆は、法華宗徒たちにとっては、堺で自害した法華宗の庇護者であった三好元長の仇打ちと言う意味合いもあったそうだ。

 蜂起した法華一揆と細川六郎と手を結び、本願寺と一向一揆勢と戦うこととなる。

 そして、本願寺を嫌う近江守護の六角定頼も本願寺打倒と好機と見て呼応し、細川六郎と手を組むこととなった。


 天文に改元後の8月2日、細川六郎方の木沢長政に対し、一向一揆衆が攻め寄せたが、木沢軍は逆に本願寺の寺や堺の道場を攻め、放火した。

 同月5日、和泉国、河内国、摂津国、大和国の四ヶ国の一向一揆勢が蜂起し、細川六郎のいる堺北庄へ攻め寄せたため、木沢長政の軍勢が迎え撃ち、撃退に成功する。

 同月7日、京に集結した法華一揆は、京にある本願寺の寺院を次々に攻撃した。

 同月8日、細川六郎の軍勢も堺から出撃し、大坂御坊に攻め寄せたところ、迎え撃った一向一揆を撃破する。



 こうして、畿内の本願寺勢力の寺は次々に焼き討ちされ、本願寺は細川六郎に追い詰められていくのであった。

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