三好元長死す

 畿内に忍ばせていた鵜飼孫六が兼山に戻ってきて、堺公方方崩壊したとのを報告を持ってきた。


 堺公方方は、仇敵である細川高国を討滅したが、細川高国を討つと言う目標を達成したことで、堺公方方では、その後の方針を巡り、不協和音が生じだす。

 堺公方方は、現将軍である足利義晴から将軍職を剥奪し、堺公方方たちが擁している足利義維を新しい将軍に就任させ、細川六郎(晴元)の堺公方は公認される目前であった。

 しかし、細川六郎が幕臣の松井宗信の勧めによって、義晴との和睦を推し進めようとしたらしい。

 堺公方の放棄にも等しい細川六郎の決断に、三好元長は河内国の畠山義堯(六郎の義兄弟)と共に反対したが、聞き容れてもらえなかったばかりか、かえって大きな溝をつくってしまうこととなった。

 三好元長のこれまでの功績から、細川六郎に三好元長の存在は危険視されてしまう。

 しかも、細川六郎の配下として、三好元長に代わってその地位を狙う木沢長政、三好元長の失脚を謀る従叔父の三好政長たちの動きもあり、三好元長と細川六郎の溝は一段と深まった。


 三好元長は、今年の1月22日に、かつての政敵である柳本賢治の子である柳本甚次を、籠っていた三条城に阿波軍を率いて攻め滅ぼしてしまった。

 細川元長は、細川六郎の怒りを恐れて出家し、阿波守護である細川持隆(六郎の従弟)にを介して、細川六郎との関係修復の執り成してもらうが、成功すること無く、細川六郎との関係は一段と悪化する。


 木沢長政の存在で立場を悪くしていった三好元長は、木沢長政の主筋で、木沢長政の下克上を警戒していた畠山義堯と結託することとなった。

 細川六郎と通じた木沢長政は、河内を巡る主権争いから、守護の畠山義堯から守護職を奪い、守護代から守護になろうと企てる。

 それが発覚したため、畠山義堯は上意討ちを決意し、三好元長は支援する体で、享禄4年(1531年)8月に木沢長政の居城である飯盛山城を攻囲していた。

 しかし、木沢長政を擁護しようとする細川六郎からの撤兵要請もあり、三好元長は一度は兵を退く。

 その後、木沢長政の野心を危ぶむ畠山義堯は、今年の5月に、再び飯盛山城を攻囲した。

 三好元長も遅れて支援に加わり、細川六郎が再び木沢長政を擁護する姿勢を見せるものの、三好元長は飯盛山城を包囲し続けた為、木沢長政は不利な状況に陥る。


 しかし、木沢長政討滅を目前としていた畠山・三好連合軍の目論見は見事に破れることとなった。

 自力で畠山・三好連合軍を排除することが不可能と判断した細川六郎、木沢長政たちは、以前からの一向宗と法華宗の宗教対立を利用することを思い付く。

 細川六郎は、本願寺法主である証如の外祖父であり、本願寺の実質的支配者である蓮淳へ支援を要請する。

 木沢長政を細川六郎に仲介したのは、蓮淳であり、この一件の発端を作ったとして、細川六郎は畠山義堯と三好元長の討伐協力を要請したのだ。

 細川六郎を支持していた蓮淳は、細川六郎が細川高国を討滅したことで、本願寺内でのが名声高まっており、木沢長政を仲介したのも確かなので、細川六郎を支援しない訳にはいかなかった。

 山科本願寺の証如は、蓮淳の意向もあり、門徒を動員し、一向一揆軍を派遣する。

 蓮淳にとって、この動員は畠山・三好連合軍を飯盛山城から撤退させる事よりも、一向宗にとっての仏敵討滅が目的であった。

 畿内における本願寺宗門の責任者であった蓮淳は、熱心な法華宗徒であった三好元長に対し深い恨みを抱いていた。

 それは、本願寺門徒による和泉や山城の法華宗徒への圧迫の件を聞きつけた三好元長によって、本願寺側は弾圧を加えられたためであった。

 一向宗に敵対している法華宗の庇護者である三好元長を討滅せんと一向一揆軍は飯盛山城の畠山・三好連合軍へ向け進軍する。

 6月5日夜、蓮淳は17歳の法主・証如に自ら出陣させ、大坂御坊に入る。

 畿内における本願寺門徒と法華宗の最終決戦と位置づけることで、畿内全域の門徒の結集を促して、この戦いを大きく盛り上げたのであった。

 6月15日、本願寺の一向一揆軍が約三万の兵で、畠山・三好連合軍を背後から襲撃しる。

 畠山・三好連合軍は瓦解し、一向一揆軍は、三好元長がいる堺南庄に攻め寄せ、三好元長は堺にある法華宗の顕本寺へ逃亡した。

 一方、一揆軍に南河内へ追い詰められた畠山義堯は、同月17日に石川道場にて自害する。不幸にも、畠山義堯は、三好元長の巻き添えをくったようなものであった。


 同月20日、堺の顕本寺を取り囲んだ一向一揆軍は、更に人数が増え、総勢約10万と言われる程の規模になっており、三好元長は自らが後見する足利義維や自らの妻子を逃がすのが精一杯で、堺に留まることとなった。

 細川六郎から見限られ、勝ち戦を敗北に貶められた元長は、顕本寺にして自害する。

 その様は、自身の腹をかっ捌いただけで終わらず、腹から取り出した臓物を天井に投げつけるという壮絶な様であったそうだ。

 こうして、堺公方府は消滅することとなった。


 しかし、一向一揆による蜂起は収まる気配を見せない様で、史実通り、畿内は益々混乱することとなるだろう。

 わしは、大島甚八を呼び、鵜飼孫六とともに密命を与え、畿内へと送り出すのであった。

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