第一夫人の出産と九條卿からの提案

 年が明けて暫くすると、妊娠していた妻の栄子が産気付いて、屋敷の中が慌ただしくなった。

 谷野一栢と女科医の女弟子たちが、屋敷を訪れ、出産の準備をしている。

 産婆も女科医の補助として付いていた。

 医術の知識は女科医の方が優れていても、産婆は長年蓄積された経験を持っている。

 嫡男の多幸丸が生まれてから、女科医の必要性が増し、谷野一栢の女弟子を増やしていた。

 当家の領内では、妊婦は対価を払えば、女科医の女弟子に診てもらうことが出来る。

 その対価も決して高くはなく、殆どの者が利用できる様にする様に、わしは指示をしていた。

 それは、高貴な女人を診断したり、出産させるための経験を積む場になっているからだ。

 高貴な女人に、何かあってはいけないので、女科医は多くの経験を積む必要がある。

 これは、女科医だけで無く、他の医師も経験を積む機会と捉え、当家の領内では領民は医師に診てもらえる様になっている。

 そのため、谷野一栢の弟子は、男女ともに増やしており、谷野一栢だけでは面倒を見切れないため、高弟たちも指導を行っている様だ。

 当家の領民たちは、医療を受けられて、恵まれていると思うかもしれないが、医師たちの練習台である。貴人に何かあってはいけないからな。

 最近では、近隣の領地からも診て欲しいと患者がやって来るが、その者たちには、相応の対価を求めている。彼等は、わしに税を納めている訳でもないしな。


 やはり、妻の出産となると、男は落ち着かないもので、仕事も手に付かず、愛猫を抱きながら、ウロウロしたり、嫡男の多幸丸の様子を見たりしてしまう。

 島津から嫁いできた御南も、今は妊娠をしているため、次は自分の番だと思うと、少なからず緊張している様だ。

 わしが落ち着かずにフラフラしていても、家臣たちは特に何も言わない。日常的に、こんなことをしていたら、仕事をしろと言われるだろうが。

 多幸丸をあやしていると、赤子の泣き声が聞こえた。

 乳母の制止を振り切り、多幸丸を抱き抱えたまま、妻の元へ向かう。

 御産の部屋の隣の部屋で控えていた谷野一栢が、祝いの言葉を伝えてくる。

 今回生まれたのは娘らしい。母子共に異状は無い様だ。

 もう既に嫡男は生まれているので、今度は娘が生まれたことに、思わず喜んでしまう。

 その後、女科医の案内で妻の元へ赴き、労いの言葉を掛ける。

 産まれたのが娘だったことで、謝られたが、多幸丸が生まれているので、気にするなと言うとホッとした様子を見せた。

 多幸丸は産まれた妹を不思議そうに見詰め、母から妹だと言われると、嬉しそうに微笑んでいた。


 妻の出産が終わり、女科医たちに妻の産後の肥立ちに気を付ける様に言い、執務室へと戻る。

 妻には、女科医たちが付いて、不足の事態に備えることだろう。

 わしの家族には、毎日朝夕に医師による診断を受けさせる様にしている。

 そのため、わしや多幸丸、妻たちにも、特に問題は無い。

 重臣たちにも、定期的に診断を受けるように指示をしている。

 九條稙通卿も貴人の客と言うことで、医師の診断を毎日受けている様だ。


 わしは漸く落ち着いたので、執務室で政務を執っていると、家宰の黒田下野守以下、重臣や側近たちが訪れ、祝いの言葉を述べてくれる。

 客人の九條卿からも祝いの言葉を頂いた。

 今度は、御南の出産が控えているので、その時も慌ただしくなりそうである。



 わしは、娘の名前を「千代」と名付けた。

 公家出身の乳母が、実家の近衛家から派遣されており、千代の面倒を看てくれている。

 実家の近衛家からは、乳母の斡旋はあったのだが、嫡男の多幸丸の傅役がまだ見付かっていないとの報せを受けている。

 摂家に連なる故、半家出身の者が良いらしいのだが、近衛家の門流の中に適当な者がいないそうだのだ。

 多幸丸も数えで三歳になっているが、まだ満二歳になっていないとは言え、傅役が見つからなそうなことに不安を覚える。


 そんな中、わしの元を九條卿が訪れてきた。

 九條卿が訪れた用件は、多幸丸の傅役の件であった。

 近衛家で傅役が見付からない話が伝わっているのだろう。

 九條卿から提案されたのは、九條家の家司である唐橋家から多幸丸の傅役を招くことであった。

 唐橋家は菅原道真公の子孫として、菅原氏の嫡流とみなされ、菅氏長者である北野の長者を代々輩出しており、代々、大内記、文章博士、大学頭などを歴任しており、有職故実に精通しており、傅役に望ましい家柄と言える。

 わしが困窮する九條卿を迎え、支援していることから、九條門流から傅役を出しても問題ないだろうと仰った。

 何か問題ある様なら、わしか多幸丸を九條卿の猶子にしてしまえば良いとまで仰る始末だ。

 九條卿も今のところ子が出来る予定も無く、唐橋家の現当主である唐橋在名殿には、三人の子息がいるそうなので、下向しても問題無い様だ。

 と言うより、唐橋家は学者肌の家柄なので、金銭の運用が下手らしく、嫡男の傅役に迎えることで、金銭的支援をしてあげて欲しいとのことである。

 わしは、九條卿の好意に甘え、唐橋家から傅役を派遣してもらうように、お願いすることとなったのだった。



 九條卿には聞きづらかったのだが、後で他の公家に、九條家と唐橋家の関係を聞いたところ、唐橋家は九條家の家礼として、九條家の山城にある荘園を管理しているらしい。

 九條卿の祖父と父である九條政基卿・尚経卿が、当時の唐橋家当主であり、唐橋在名の父である唐橋在数と金銭トラブルの末に、殺害してしまう大事件が起こっていたのだ。

 その事件のせいで、九條家は勅勘を蒙ることになり、多くの公家から距離を置かれることになる。

 しかし、九條家の家礼として、唐橋在名は引き続き、九條家に仕えているそうだ。

 これは、九條家の家礼の結束が強いと言うか、束縛が強いと言う様な特殊な事情があるらしく、父である唐橋在数を殺されても、唐橋在名は九條家から離れる訳にはいかなかった様だ。

 まぁ、その殺害事件が、唐橋家の衰退のきっかけとなり、唐橋在名は氏長者や侍読になれていない。

 金銭の支援だけでなく、実家の近衛家を通じて、中央への影響力を回復させたいのも、思惑としてはあるのだろう。

 取り敢えず、適当な傅役候補がいないので、ここは九條卿の思惑に乗らざるを得ないのであった。

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