山田式部少輔有親

◆山田式部少輔有親


 俺の生まれ故郷である薩摩は、島津家による内乱が起こっている。

 事の発端は、島津宗家の当主の相次ぐ急死であった。

 頴娃氏の養子となっていた島津忠兼が当主となる。

 しかし、急遽跡を継いだこともあり権力基盤は弱く、守護と言えども、各地の在郷領主を抑える力は無かった。

 島津忠兼は、出水に拠点を持つ有力分家である薩州家の当主の島津実久の助力を得て、勢力を挽回することを図る。

 島津実久の姉を正室に迎え、島津実久に国政を委任したのだ。

 しかし、実久は権力を欲しいままにし、権勢を強めていく。

 まだ、男子がいなかった島津忠兼に対して、自身を世子にするよう迫ったのだ。

 島津忠兼は、正室である島津実久の姉を離縁し、島津実久を国政から遠ざけた。

 すると、島津実久は兵を挙げて反乱を起こし、島津忠兼を鹿児島から追放して、守護を自称したのである。

 島津実久の専横に対し、島津忠兼の老中たちは、英明の誉れ高い伊作家の島津忠良に支援を求めるよう進言した。

 老中たちの進言を受けた島津忠兼は、島津忠良に国政を委任することにし、更に老中たちの進言を受けて、島津忠良の長子である虎寿丸を養嗣子とする。

 島津忠兼は、元服した島津貴久に守護職を譲り、島津忠良にその後見を依頼し、自らは出家して伊作に隠居した。

 島津忠良は剃髪して愚谷軒日新斎と号し、貴久を輔佐することになる。


 しかし、島津宗家の家督を狙っていた島津実久は、この事態に不満を持ち、島津忠兼に猛烈に抗議し、島津忠兼と島津貴久との養子縁組を解消させようとした。

 そして、島津忠兼本人も島津貴久に守護職を譲ったことを後悔し始め、悔返を言い出すようになる。

 島津実久は、加治木地頭の伊地知重貞、島津日新斎の姉婿である帖佐地頭の島津昌久に兵を挙げさせ、武力により排除し、実権を握ろうと実力行動に出た。

 島津日新斎は、自ら迅速に討伐に赴き、乱を鎮定するが、その間に、島津実久は舅の川上忠克を島津忠兼のもとに派遣し、守護職復帰を説かせたのだ。

 そして、島津実久は出水・串木野・市来の兵を率いて、伊作家方の所領である伊集院一宇治城、日置城を攻略し、更には、加世田・山田の兵で谷山城をも攻略する。

 島津実久は、鹿児島清水城にいた島津貴久に、守護職の返上を迫るが、島津貴久は僅かの家臣と共に、夜隠に紛れて鹿児島を脱出した。

 島津忠兼は島津実久に迎えられ、還俗し勝久と名を改め、伊作から鹿児島に帰り、再び守護職に復帰する。

 一方、島津日新斎は、島津勝久の隠居城となっていた伊作亀丸城を陥落させ自身の居城とした。

 その間、俺は島津家同士の争いだろうと、どちらに付くことも無かった。


 しかし、島津日新斎は、他国より食料を獲得し、その食料を使って地頭を懐柔したり、伊作家方の地頭たちに食料を配ることで自身の陣営の結束を固め、急速に勢力を挽回し始める。

 伊作家の勢力挽回を恐れた島津実久は、俺に対して日置城一帯を与えるので、薩州家方に付くように言われ、俺はその話を受け入れた。

 その頃は、勢力を挽回し始めたとは言え、島津実久の方が優勢であり、伊作家方では勝てないだろうと思っていたのだ。


 しかし、島津日新斎は、自身を裏切った日置南郷城主の桑波田栄景を攻め、奇計で城を落とした。

 その後、日置南郷を奪い返すべく攻めてきた、桑波田栄景と島津実久方の軍勢を打ち破ると、島津日新斎は頴娃氏を攻め、屈服させる。

 島津日新斎の見事な采配と手際を知り、島津実久では島津日新斎に勝てないのでは無いかと思うようになる。

 島津家の領地は、日向国を伊東氏によって蚕食されており、その他の地頭たちから、島津家の領地を回復出来るのは、島津実久では無く、島津日新斎しかいないのではないかと思い、早期に島津の争いを終えさせねばと至り、伊作家に対して、俺の持つ領地を全て献上し、降伏することとしたのだ。

 島津日新斎は受け入れてくれ、代々の領地である山田のみは領有することを許してくれた。

 しかし、俺のこれまでの生き方が災いしたのか、伊作家の重臣である鎌田政年、阿多加賀守たちが、俺は気骨があり、本当に心服したとは思われず、二心ある者を置いていては家の為にならないと島津日新斎に諫言したらしい。

 確かに、俺は他人に恥じることの無い生き方をしようと努めてきた。

 ここで、何か言い訳をするのも見苦しいと思い、黙していたところ、島津日新斎から近衛家の庶子であり、志摩の領主である西村庄五郎と言う方が薩摩の武士の仕官を求めていると言う話をされる。

 島津日新斎は、俺に西村庄五郎に仕えるか、腹を切るかの選択を提示した。

 俺は死ぬとしたら、一族や家臣たちのことが気掛かりであり、彼等のことを考えると、薩摩を出て西村庄五郎に仕えた方が良いだろうと思い、西村庄五郎への仕官を選択する。

 伊作家に大量の食料を売っていたのは、西村庄五郎らしく、彼に仕えれば、一族や家臣たちが飢えることも無いだろうと思った。


 その後、伊作家方から西村庄五郎へ使者が送られ、俺たちの仕官が叶うこととなり、俺たちは志摩へと向かうことになったのだった。

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