大納言の死と関東享禄の内乱と大物崩れ

 享禄4年(1531年)も半ばが過ぎると、世の情勢も様々に変化してくる。


 清華家の久我家嫡男である久我大納言邦通殿が急死したとの報せを受ける。

 久我大納言殿は、妻の栄子を久我家の養子とする際に、山科卿と共に、わざわざ下向してくださった。

 その後、尾張の織田弾正忠家も訪れ、当家と織田弾正忠家は久我家と縁を結ぶこととなり、定期的に書状や贈り物のやり取りをしていたのだ。

 この訃報に対し、当家と織田弾正忠家は弔問の使者を出すこととした。

 久我家の嫡男が亡くなってしまったが、跡を継ぐ子供がいないため、祖父・近衛尚通の次男の叔父が久我家へ養子に入ったそうだ。



 美濃や志摩の情勢は落ち着いているものの、その他の地域では戦乱は起こっていた。


 関東の情勢は、古河公方家と関東管領家で当主の地位を争う内乱が行われていたが、それも終わりを迎えようとしている。

 享禄4年(1531年)の6月に、足利高基が足利晴氏方に隠居を申し出たことで、足利晴氏が古河公方となり、古河公方家の内乱はの終結した。


 関東管領家では、昨年は上杉憲寛方が優勢で、上杉憲政方の国人の領地を奪い、自身の家臣たちに与えたりしていた様だが、そのことに反発したのか、上杉憲政方の国人たちは徹底抗戦の構えを取り、日和見していた国人たちも自分の領地を取られたら堪らないと、上杉憲政方に付いたのであった。

 馬路正統を関東に向かわせており、上杉憲政方の安中氏や小幡氏などの国人たちに接近させ、唆す様に指示をしている。

 上杉憲寛が上杉憲政方の国人の領地を奪ったことで、上杉憲政方の国人たちは上杉憲寛方への憎悪を深めていた。

 そこで、上杉憲政方の国人たちに、上杉憲寛方の有力国人である長野氏の領地を奪い、上杉憲政方の国人たちで分けるべきだと囁き続けたのである。

 上杉憲政方の国人たちも段々とその気になり、馬路正統を通じて、戦のための金銭的支援も行っていた。

 そして、上杉憲政方の国人たちに、長野氏を滅ぼすのでは無く、追放させることが出来たなら、相応の礼をしようと囁いたのだった。

 欲に眩んだ上杉憲政方の国人たちであったが、有力な長野氏を追放するほど追い詰めるのは難しいとのことだったので、雑賀の傭兵を斡旋することとなった。

 彼等を雇う金は当家から支援された金銭が利用されるので、彼等の懐は痛まない。

 欲に眩んだ上杉憲政方の国人たちは、雑賀の傭兵とともに上杉憲寛方を攻め立てたのであった。

 上杉憲寛方の国人の城は開城や落城が徐々に増していき、長野氏方も追い詰められることとなった。

 結果として、9月に上杉憲寛は、真里谷信政を頼って上総国の宮原へ退去する。

 長野方業たち長野氏の一族や家臣たちは開城し、隣接する信濃国へと追放となったのであった。

 その後、長野氏の領地は上杉憲政方の国人たちで分けられ、内乱は終結し、上杉憲政が勝利し、関東管領を継ぐこととなり、この関東での一連の戦は「関東享禄の内乱」と呼ばれることとなる。

 信濃へ追放された長野氏一族と家臣たちには、以前からやり取りをさせていた鵜飼孫六が、信濃国への移動の途中で接触し、条件の擦り合わせをして、当家に迎え入れることとなった。

 長野氏たちは上杉憲寛たちの予想以上の激しい攻勢に疲労しており、この先の展望も無いことから、判断力も鈍っていたのか、当方の話を聞き入れてくれた様だ。



 畿内では、細川高国と細川晴元の対立が続いており、細川晴元に敗れた細川高国は、各地の大名に支援を要望したが、断られ続けていた。

 しかし、備前守護代の浦上村宗だけが、細川高国の支援要請に応じることとなる。

 享禄3年(1530年)7月、浦上村宗の念願である播磨統一を成し遂げると、次は高国の宿願を果たすため、摂津へ侵攻することとなった。

 享禄4年(1531年)3月に池田信正の居城である池田城を陥落させる。

 京の警護に当たっていた細川晴元方の木沢長政は、京から突然撤退し、代わって将軍地蔵山城の細川高国方の兵が京へと侵攻し、京を奪回した。


 その後、堺公方方は、三好元長を総大将にし、立て直しを図ることとなる。

 三好元長率いる三好軍1万5千、阿波から堺に上陸した細川持隆の援軍8千は、摂津中嶋に陣取った細川高国・浦上村宗軍を攻撃した。

 両者の戦いは、一進一退の攻防が続くが、播磨守護の赤松政祐が高国の援軍として到着したことで流れが変わることとなる。

 赤松政祐は細川晴元方に内応しており、細川高国・浦上村宗軍を背後から攻撃したのだ。

 赤松政祐は以前より父親の赤松義村の仇を討つため、浦上村宗を討つ機会狙っていたのである。

 赤松政祐は、播磨を出発する前から、堺公方の足利義維へ密かに質子を送り、裏切りを誓約していた。

 この赤松軍の寝返りによって、細川軍は大いに動揺し、浦上軍に従っていた赤松家と親しい国人たちは、堺公方方へ寝返ることとなる。

 そして、赤松政祐の軍勢が、中嶋の細川高国の陣を奇襲し、それに呼応して三好軍が攻撃をしかけたことで、浦上村宗を始め、侍所所司代の松田元陸、伊丹国扶、薬師寺国盛、波々伯部兵庫助、瓦林日向守などの主だった部将は戦死する。

 これまでの細川高国・浦上村宗軍は、連勝を重ねて戦意も高く、堺公方方に対して有利であったが、赤松政祐の裏切りによって、あえなく勝敗を決したのであった。

 中嶋の野里川は死人で埋まりる様な惨状となり、この戦は「中嶋の戦い」と呼ばれることとなった。


 この敗戦の混乱の中、細川高国は戦場を離脱し、近隣の大物城への逃れようとしたものの、大物城への道は既に赤松方の手が回っていた。

 そのため、細川高国は尼崎の町内にあった、京屋という藍染屋に逃げ込み、藍瓶をうつぶせにしてその中に身を隠すこととなる。

 尼崎で細川高国を捜索していた三好一秀によって発見され、捕縛された。

 三好一秀は捜索するに当たり、真桑瓜を用意し、近所で遊んでいた子供たちに、細川高国の居場所を教えたら真桑瓜をあげると言うと、子供たちは真桑瓜欲しさに、細川高国が隠れていた場所を見つけたという逸話が後世に残っている。


 細川高国は、仇敵である細川晴元の命によって、尼崎の広徳寺で自害させられる。

 この細川高国滅亡の出来事を地名とあいまって「大物崩れ」と呼ばれるようになった。

 永正の錯乱から始まった細川家の養子三兄弟の争いは、「大物崩れ」で、最後の養子である細川高国が自害させられた事で終結したのだった。


 大物崩れの仔細を聞いた九條稙通卿は、叔父である細川澄之を自害させた細川高国が滅んだことを喜んでいた。

 九條卿が細川家や足利家を嫌っているのも、叔父の件があったからなのかもしれない。


 関東や畿内の混乱も落ち着き、穏やかな日々が続くことを祈るばかりであるが、戦国の世はそうもいなかいだろうな。

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