人探しの追加要望と採用

 鵜飼孫六が定期報告に現れたので、以前に指示した人材捜索について聞いてみると、なかなか上手くいっていないようだ。

 まぁ、そう上手く見つかるわけもないか。


 その代わり、甲賀からはそれなりの人を雇えているようで、甲賀での当家の評判は良いようだ。金払いがダントツに良いかららしいが、乱波の報酬の低さを聞くと悲しくなってくる。


 「黒田下野守にも命じたのだが、新たに開墾をしたいと思うので、優秀な農業の技を持つものがいるかも探してみてくれ」


 城の築城が思ったより進んでいるので、来年から開墾を始めたいと思っていることを黒田下野守たちに伝えていたが、鵜飼孫六はいなかったので、ついでに優秀な農業技術者も探してきてもらおうと思った。

 黒田下野守にも近隣の農業技術者を探すように命じている。

 新たに開墾するに辺り、灌漑や排水をしっかり整え、農地もしっかり四角く整理したい。現在は湿田が多いので、農地整理をした上で、湿田もいずれは乾田に変えたいのだ。


 農業技術者の要望を伝えて、次の話題に移る。


 「ところで、伊勢の楠城の川俣氏に伝手を作れないか?」


 伊勢の楠城主川俣忠盛は伊勢楠木氏の嫡流当主なのだが、伊勢楠木氏の先祖である楠木正成公以降、歴代の楠木氏は南朝側に味方したため、逆賊として扱われている。

 史実では、楠木正成の孫楠木正秀の子という河内大饗氏の大饗正盛の子孫大饗正虎が朝廷に正成の朝敵の赦免を嘆願し、松永久秀の取り成しもあったことで永禄2年(1559年)11月20日には正親町天皇の勅免を受ける。以後、楠木氏を名乗ることが出来ることようになった。


 川俣忠盛の息子の楠木正具は、北畠氏に仕え、織田信長の伊勢進攻に対し、激しく抵抗し、寡兵で織田軍を苦しめるという楠木正成並の戦いをしたのであった。

 織田信長の伊勢攻略後、楠木正具の身柄引き渡しを要求するも、楠木正成は石山本願寺へ逃れ客将となる。石山本願寺においても織田軍を苦しめた末に石山合戦で戦死している。


 そんな、優秀な戦術指揮官である楠木正具を家臣にしたい。今の段階では楠木正具は北畠氏に仕えていないし、楠城川俣氏も北畠氏には接近していない。


 楠木正具を家臣にするのを抜きにしても、楠木正成の名誉は回復したい。

 21世紀では楠木正成は湊川神社に奉られ、明治から戦中にかけては天皇家に忠義を尽くした忠臣として称賛され、大楠公と呼ばれていたからね。


 「伊勢の川俣氏か・・・。そこ出身の者が甲賀におったと思うぞ」


 「何だと!?」


 鵜飼孫六の言葉に、思わず驚く。


 「親父の代から、川俣を名乗ってないはずだが、甲賀に来て日が浅いはずだ。家臣として召し抱えるなら、連れてこれるかもしらん」


 ただでさえ人材不足なので、鵜飼孫六の案に二つ返事をする。



後日


 わしの目の前には、三人の人物がいる。一人は壮年で、二人は若者だ。そんな二人を鵜飼孫六が紹介する。


 「殿、ここにおるのが伊勢楠城川俣氏出身の馬路親子だ。」


 「伊勢楠城主川俣忠盛の兄、馬路宮内と申します。後ろにおるのが倅の正統と正頼にございます」


 「川俣忠盛殿の兄なのか?」


 「はい。家督は弟の忠盛が継いでおります。父である川俣正充との意見の相違から、某は家を出て伊勢高岡に移り住みました。

 倅の正統が甲賀に移ったところ、鵜飼殿より西村様にお仕えしないかとお誘いいただいきました。正統より話を聞き、恥ずかしながら親子共々、仕官させてもらえないかと鵜飼殿に相談したところ、連れてきていただきた次第にございます」


 「人手不足ゆえ、仕官してくれるのはありがたいが、今までの生活は良いのか?」


 「甲賀での西村様の声望は高いと倅より聞いております。乱波の仕官をお許しになり、他の家臣と同等に扱ってくださるとか。

 伊勢の高岡におりましても、伊勢四十八家が犇めき合い、伊勢には余裕が無いため、地侍や乱がのような仕事しかございません。

 ならば、今の生活を捨ててお仕えしたいと思っております」


 「そなたたちの気持ちは分かった。わしに仕えてくれ」


 その後、馬路親子の話を聞くと、馬路宮内の弟で、川俣忠盛の兄である、坂倉正利が中井戸村より木曽川下流の坂倉にて千子派の刀鍛冶をしているのも、当家に仕えようと思った理由の一つらしい。

 桑名の千子派は、楠木正成の子孫の楠木正重が、有名な千子村正に弟子入りし、初代千子正重を名乗って以来、千子派の主流となっている。

 馬路宮内たちの父である正充は千子正重の養子となり、伊勢楠木家当主として楠城主になったものの、刀鍛冶としての千子派は継がなかったようで、当代の千子正重は親戚らしい。

 思わぬところで、名刀工たちとの伝手が出来たものだ。


 馬路親子たちに、自分が現関白の近衛稙家の実子であり、南朝側に味方したとは言え、天皇に忠義を尽くした楠木正成公の名誉を回復したい旨と、そのために父稙家に働きかけたいと伝えた。

 馬路親子は楠木正成の子孫でありながら、逆賊として楠木氏を名乗ることが出来ない悔しさを訴え、名誉回復をしたいというわしの言葉に涙を流した。


 馬路親子は、伊勢楠木氏の親戚に、わしに協力するよう訴えかけることと、改めて忠誠を誓った。




 後生、西村庄五郎(後に改名)の飛躍を語る上で、東海地方の鍛治師を味方につけたことは欠かせないだろう。

 庄五郎は兼山の領主となってすぐに関の和泉守兼定や孫六兼元と親交を築く。

 また、馬路親子を召し抱えたことで、千子派を味方につけることに成功した。

 そのため、良質な武器を容易に手に入れることが出来るようになり、庄五郎の保有する軍事力はより強化され、多いに躍進のしたのであった。

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