三年目の浮気

中文字

本文

 中堅会社の社員である鷹谷 志岐(たかや しき)は、自分のマンションの扉を開けて中に入った。


「ただいまー」


 帰宅の声をかけつつ、玄関で靴を脱ぎ、靴を下駄箱に仕舞おうとする。

 やおら、声をかけられた。


「ねえっ」

「んっ。ただいま、沙織――」


 声を聞き、愛しい妻の名前を呼びつつ微笑みかけようとした志岐。

 しかし次の瞬間、顔面に重たい感触と衝撃を受けた直後、唐突に目の前が真っ暗になった。

 突然の事態に驚きつつも、志岐は足元にぼとりと何かが落ちる音を聞いた。そして冷静に顔に手を這わせる。しっとりとした冷たい感触は、細かい泡のように触れれば潰れる。鼻腔に入る空気に含まれる匂いと、口の中に侵入してきた物体は甘い。目元を掌でぐっと拭って視界を確保し、拭った手を見てみると、白くて甘いホイップクリーム。いくつかのイチゴの切り身も入っている。

 おおよそ何をぶつけられたか理解しながらも、志岐が足元に目を向けると、ホールケーキの残骸あった。残骸の上にはチョコプレートがあり、かすかに「結婚三周年!」という文字が読み取れた。


「なあ、沙織。俺が一番嫌いなことは、食べ物を粗末に扱うってことだって、付き合いだしたころから知っているよなぁ? それで、なんだこれは?」


 志岐は足元にあるケーキの残骸と、顔中にあるホイップクリームの痕を指して、怒りを抑えた口調を出す。

 一方で怒られた側であるはずの沙織も、憤懣やるかたない様子で、苛立たしく声を上げる。


「逆に言うけどさ。私が一番嫌なことは、パートナーに浮気されることだって、知っているわよね!?」

「その話と、この状況、どうつながるっていうんだ!」

「関係大ありよ! 志岐、あなた浮気したでしょ!」


 唐突の断罪を受けたというのに、志岐は逆に呆れ果てている様子に変わる。


「どうして、そんな発想になるんだか。俺は沙織と付き合い始めてから、他に恋人を作ったことどころか、風俗に行ったことすらないんだが?」


 勘違いだと語る志岐だが、沙織は頑なに浮気したと信じていた。


「絶対に嘘よ! だって私、見たんだもの! 今日の昼。この家から三駅離れた場所で、志岐は女性の人と仲よく歩いていたわ!」

「今日の昼だって? ……あっ」


 志岐が理由がわからないという表情から一転して、なにか思い当たった顔つきに変わる。その変化を見て、沙織が再び怒りだす。


「やっぱり! 浮気してたのね!」

「ま、待て待て! あれは浮気じゃない! あの女性は、高校時代の友人だ!」

「女性の友人だなんて、嘘ばっかり言って!」

「嘘じゃない! 取引先の会社に、その友人が中途入社していたんだ! 久しぶりの再会だからって、先方の社長さんが気を利かせてくれて、昼食を食べながら会話しただけだ! 沙織が見たっていうのは、その帰り道だったんだろう!」

「……あんなに仲良さそうだったのに?」

「本当だって! 連絡先すら交換せずに別れたんだから! それに今日は――」


 志岐は持っていた鞄を漁る。手についたホイップクリームが、外にも内にもつくことなんてお構いなしに。

 そして鞄の中から、一つの箱を取り出す。綺麗にラッピングされ、真っ赤なリボンがついていた。

 志岐はその箱を、沙織へと差し出す。


「――俺たちの結婚三周年の記念日だろ。そんな大事な日に、俺が他の女性にうつつを抜かすはずがないだろう」

「これを、私に?」

「ああ。開けてみてくれ。前に欲しいって言っていただろ、時計」


 沙織は箱を受け取ると、ラッピングを綺麗に剥がしていく。志岐の手から移ったホイップクリームで滑りそうになりながらも、どうにか包みを剥がし終え、箱の蓋を開く。そこには確かに、沙織が欲しいと思っていた時計があり、そして『結婚三周年、ありがとう。これからも共に暮らしてください』と小さなメッセージカードが添えられていた。

 その愛あるメッセージが目に入り、そして志岐がホイップクリーム塗れでもわかるほど愛おしげかつ心配そうに伺っている表情を見て、沙織は浮気が勘違いだったと悟った。

 それと同時に、結婚三周年を祝うはずのケーキを投げつけるなんて、取り返しのつかない真似をしたと後悔した。


「ご、ごめんなさい。私、わたし……」


 沙織は言葉が出ない様子で顔をくしゃりと歪ませると、ボロボロと大粒の涙を流し始めた。その心の底から悔いている様子を見て、志岐の気持ちも落ち着き始めた。

 食べ物を粗末に扱われたことは心底許せない行為だった。でも、これ一回で嫌いになれるほど、志岐の沙織への愛は浅くなかった。むしろ愛ゆえに、単なる友人と歩いていた光景を、浮気と勘違いするほど嫉妬してくれたことに喜びを感じていた。


「こっちも悪かったよ、沙織。記念するべき日に、他の女性と一緒にいたら、疑っても当然だった。俺も軽率な真似だったよ」

「う゛うん。私が、志岐のことを、信じ切れなかった、だけだもん。ごめんなさい、ごめんなさいー」

「謝らなくていいよ。そういえば、ここ最近は、お互いに結婚生活に慣れてきたこともあって、会話が少なくなってきていたよね。きっと、それで沙織は不安になっちゃったんだよな」

「う゛えええぇぇぇん。志岐のばかーー! 私が悪いのに、優しくしないでよーーー!」

「よしよし。寂しかったんだね。ごめんよ。これからは、いや、これからも、いっぱいお喋りしよう。そして、こんな勘違いを起こさないようにしよう」


 お互いに抱き合い、愛を再確認するように言葉を交換し合う。結婚三年目で新婚とは言えなくなった二人の関係でも、それでも深い愛が感じれる光景であった。

 しかしながら、玄関口でホイップクリーム塗れの男が、わんわん泣いて出た涙で化粧が崩れた女性を抱きしめて宥めるその姿は、傍目には滑稽にも映るのだけれども。



 泣くのが落ち着いた沙織は、腫れぼったい目のまま、食卓に料理を並べていく。

 もう少しで並べ終えるというところで、風呂場から志岐が出てきた。確りと洗い流したのだろう、顔にも髪にもホイップクリームの痕はなかった。志岐は先ほどのケーキの一撃などなかったかのような様子で、食卓に並んだ料理の数々に目を輝かせる。


「うわ~。全部俺の好きな料理じゃないか……」

「うん♪ 今日ばかりは、志岐の好物で統一してみましたー。ささ、温かいうちに食べよう♪」

「そうだな。そうしよう」

「「いただきます!」」


 二人して箸を取ると、料理を食べ進め始めた。

「料理の味付け濃かったかな?」と沙織が聞けば、「そんなことない。とても美味しい」と志岐が褒める。「これ、手間暇かかってるよな」と志岐が質問すれば、沙織が「言うほど手間じゃないよー。だって志岐が喜んでくれるしー(テレテレ」なんて惚気る。

 まるで付き合いだした恋人のような光景を展開しながら食事は終了し、やがてソファーに並んで座っての映画観賞会が始まった。

 沙織が作ったツマミを食べつつ、志岐が作ったカクテルを二人で飲む。

 映画も半ばほどまできたところで、ふと志岐の口から質問が出た。


「それにしても、俺との会話が少なくなっていたって理由があっても、沙織がああいう勘違いをするなんて。珍しい気がするな」

「もうっ、ごめんってあやまったのに~。また蒸し返すの~?」


 軽く酔った調子で、沙織が志岐のお腹に顔をうずめ、ぐりぐりと頭を押し付ける。そのくすぐったさに、志岐は微笑みながら沙織の頭を撫で始める。


「いやさ。前に俺が会社の同僚とこの近所を歩いていたとき、沙織とバッタリ出くわしたときがあっただろ。あの同僚も女性だったけど、沙織は浮気だなんて思った様子はなかったじゃないか」

「ん~……。そういえば、そうだったね~」

「だからさ。なにか、浮気を疑うようなわけがあったんじゃないかって、ふと思ったんだよ」

「特になかったと思うけど~……。あっ」


 酔いでぼんやりとしていた沙織の顔が、なにかを思い出してシャッキリとしたものに戻った。


「そういえば。今日、志岐があの場所に女性と一緒にいるって、きっと浮気だって、近所の人が噂していたのを聞いたんだった。それで私、志岐が浮気するだなんて信じられなくて、思わず見に行って、それで」

「俺が高校時代の友人と会っているのを見て、噂が本当だと思って、浮気と勘違いしたってことか」

「うん。でも思い返すと、ちょっと変じゃないかな?」

「そうだな。沙織が昼に俺と友人を見に行ったってことは、近所の人が噂を知った時間は、遅くとも今日の朝だ。俺が今日の取引先に行くことは、会社の連中と取引先の会社の人しか知らない情報だ。どうして近所の人が知っていたんだろうか?」

「……なんだか、怖くなってきちゃった。誰かに、生活を覗かれているのかな?」

「うーん、そこまでは分からないけど、こんなことが続くようなら、引っ越した方が良いかもな。そうなったときは、どうせなら俺の会社の近くに移ろうか。部屋の面積は小さくなっちゃうとは思うけど、電車移動がないぶん早く帰れるし」

「そうだね。万が一のときは、そうしてもいいかもね。でもたぶん、気のせいだよ。今回のことは、たまたま変な風に偶然がかさなっただけだよ、きっと」


 沙織の目が再び酒でとろんと緩み始め、そして志岐に甘えるように頬をこすりつけ始める。志岐はしょうがないなという表情をしながらも、口元の笑みはまんざらでもなさそう。

 そして二人は、画面に流れている映画の音声のボリュームを上げて、どちらからともなく口づけを交わし、そして夫婦の営みを段々とエスカレートさせていったのだった。






◆  ◆  ◆





 二人の仲睦まじい音声を、盗聴器越しに聞いている人物がいた。


「私が志岐君と大学が離れたことをいいことに、恋人の、そして妻の座をかすめ取った泥棒猫が。次の作戦で、絶対に志岐君の横から追い出してやる」


 盗聴器から流れてくる夫婦の愛し合う音声を聞きながら、憎々しげに顔を歪ませるその人物は女性――志岐が『高校の友人』と評した人物だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

三年目の浮気 中文字 @tyumoji_Mm-xo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ