KAC8: 糸を紡ぐグレートヒェン

鍋島小骨

糸を紡ぐグレートヒェン

「三周年おめでとう、《セクメト》」


 起き抜けの朝一番、シャンパンではなく再利用パック入りの飲料水を掲げて、わたしは呟く。応える者はない。ここには会話型のAIすらいないのだ。

 それでも今日は特別な日だから、久し振りに肉を焼く。

 窓の外には巨大な目が浮かんでいる。

 木星の白い渦が。




 木星軌道刑務所プリズン・ジュピター《セクメト》は建造四年。周囲に六十四の防衛衛星を備え、地球本星が許可した囚人移送船や補給船以外は決してアクセスできない。わたしが自由にここを出ることも許されていない。まあ、そういう約束だからね。

 本船に収監されるのは仮釈放オプションのない無期刑となった囚人のみ。わざわざ地球から遠く離れた木星圏にまで送り込まれるのだから、いずれも重罪人であり、かつ、地上の刑務所では高確率に脱走・暗殺の恐れがあると判断されたレアな囚人だ。祖国では木星刑と呼ばれて、ある意味かつての死刑扱いになっているらしい。

 アクセス皆無の無人島に投棄されたようなものだが、雨風があるわけでもなく定期的に食料や水などの補給が届き、幾らかの書籍も入手できるあたりはなかなか文化的だと思う。

 囚人のうち、船内を自由に歩き回れるのはわたし一人だ。


 そして、この記念の日にわたしは客人を迎える。

 囚人移送船で到着したのは、三年半前わたしが《セクメト》の管理契約を交わして地球を去るまで担当医だったニコラ・クーパー。

 特別視察などではなく囚人として送り込まれてきたことは、十全の拘束をほどこして護送カプセルに入れられていることからも分かる。


 地上時代、わたしが何度食事に誘ってもニコラは断った。わたしは囚人となってからニコラに出会ったので、つまりそれは「脱獄するので何か美味しいものを食べにいこう」という誘いだった。脱獄を前提とするようなことを肯定するわけにはいかないと言って断られるたびにわたしは脱獄し、一人で食事しては独房に戻った。ニコラはそれを知らない。


 わたしは久し振りに、ニコラを食事に誘うことにする。




  * * *




 取り返しのつかないことになった、と気付いたのは彼を乗せた有人宇宙機が真っ青な空に打ち上げられていくのを現地で見た時だった。


 ナイフの悪魔。史上最悪の魔術師。様々の名で呼ばれた大量殺人鬼ルシアン・ヴォルシュケは脱獄王でもあって、何度となく収監と脱獄を繰り返しており、その最後の収監中、私は彼の担当医だった。

 普段のルシアンはややこだわりが強く独自の美学を持ってはいたが、おおむね気さくに会話し、ドイツ歌曲リートが好きで、いつも穏やかに笑い、私を食事に誘いさえした。

 およそ囚人の発想ではないが、彼にはがある。以前の収監先で同じように弁護士を食事に誘い、弁護士は冗談だと思ってOKと言った。彼は苦もなく脱獄して弁護士を事務所前まで迎えに行き、弁護士が警察を呼ぶと煙のようにそこから消え失せた。弁護士が自宅に帰ると、キッチンには彼がいて立派な料理が出来上がっていたという。ディナーのあと弁護士は切り刻まれ、一部はルシアンに喰われた。彼曰く、デザートとして。

 私はあらゆる誘いを断った。

 そのうち政府は木星軌道刑務所プリズン・ジュピター計画を実行に移し、あろうことか自身囚人であるルシアンをその管理人に選んだ。

 意味は明らかだった。数多くの犯罪者・犯罪組織に身柄や命を狙われるルシアンを収監し続けるには、警備等の莫大なコストがかかる。死刑がなくなってしまって彼を殺せないからだ。それに彼は必ず脱獄する。そこで政府はそうしたよりも、おいそれと手の出せない木星軌道に彼を隔離することを選び、彼に対してはその見返りとして囚人たちを送り込むことで手打ちとしたのだ。

 つまり、囚人たちはルシアンに殺されるために木星軌道刑務所プリズン・ジュピターに送り出される。ルシアンにとっても送られる囚人たちにとってもこれは緩やかな死刑だ。地上ではすでに禁じられた死刑を、形を変えて実行する。

 私には理解しがたい決定だったが、ルシアンはむしろ喜んで了承したという。


 最後の面接の際、彼は再び私を食事に誘った。

 私はいつもと同じように断り、別れの挨拶をした。

 その時の彼の言葉を、真っ青な空に伸びる白い飛行痕を見ながら私は思い出す。戦慄とともに。


――それではいつか、死の後に。


 そしてルシアンが、目も眩むような広い空の向こう、遥か遠く木星圏へと去っていく。私はそれを狂おしいほどの衝撃に耐えながら凝視している。

 衝撃。

 衝撃だった。

 

 どうしても。

 会いたい。

 会いたい。

 声が聞きたい。

 彼の顔が見たい。

 ああ、苦しい。

 会いたい。

 生きながらにして胸の内から焼かれるようだ。

 このままでは私はきっと、死んでしまう。

 彼なしではとても、耐えられない!


 ……ひとつだけ方法がある。


 気付いてしまった私は、取り返しのつかないことになった、と思いながらも暗く甘い誘惑に抗うことができない。

 こんなことを考えるなんて。


 でもうまくやれば、

 また彼に、

 会える。


 そうしなくてはならない。

 ルシアン・ヴォルシュケのいないこの地上など、もはや私にとっては意味がないのだから。


 真っ青な空が回転し、私の耳の奥にはシューベルトの歌曲が鳴り響いている。



――胸は重く潰れて、安らぎはもう帰らない。

――あのひとのいない場所はどこも、私にとってはお墓も同じ。



 そうして三年の後、私は木星刑を勝ち得た。精神科医でありながら次々に人を殺しては解体した無差別連続快楽殺人犯として。



――私のあわれな頭は狂い、心は引き裂かれた。

――あのひとのいない場所など、私にとってはお墓。





  *




 気が狂いそうだった。見知らぬ男を殺して解体している時の方がまだ冷静だった。

 囚人移送船で地球を遠く離れてしまってから私は、。木星圏までの半年の旅程のうちほとんどを人工冬眠コールドスリープして過ごし、覚醒と同時に頭も正気に戻っていたのだ。

 私は、何ということをしてしまったのだろう。

 何と恐ろしい。


 私は思い出す。ルシアンの希望で面接中に流した曲を。

 ゲーテ作詩、シューベルト作曲、『糸を紡ぐグレートヒェン』。悪魔メフィストフェレスと契約したファウストと未婚のまま契り、消えた彼に恋い焦がれ、やがては死刑を待つ身となる娘グレートヒェンの歌。

 置き去りにされて二年半、全身の骨まで焼け落ちるかと思うほどルシアンに焦がれ、彼にまた会うためだけに手当たり次第に人を殺してきたというのに、私はその間一度も、彼とこの曲を聴いたことを思い出さなかった。彼の飛び去る空を見た時も、人を殺す時も解体する時も、ずっとこの歌が聞こえていたというのに。

 彼は何度かの面接を通じ、この曲を媒介にして私を呪ったのだ。歌と同じく、彼に焦がれ、狂って、殺すように。私はまんまと暗示に掛けられた。

 彼が何のためにそんなことをしたか?

 それも私には、もう分かる。

 最後の面接の際、彼は再び私を食事に誘い、私は断った。

 にも関わらず、彼はこう告げた。


――それではいつか、死の後に。


 お互い死刑が始まった後、地上から手の届かない場所で、と。


 思えば、彼がこの曲を聴きたがるようになったのは木星軌道刑務所プリズン・ジュピター計画への協力を打診された時期だった。

 その頃からずっと、計算していたのだとしたら。

 私を操り《セクメト》に送られるよう罪を犯させ、そして自分は《セクメト》の主でいられるよう全てを計画していたのだとしたら。


 気が狂いそうだ。

 いや、私は気が狂っていたのだ。彼の思うがままに。


 移送船はやがて木星圏に到達し、軌道刑務所セクメトの六十四の防衛衛星に迎え入れられる。

 護送ポッドの中のバケットシートに拘束された私はどうすることもできず、口枷のために舌を咬んでの自殺も試みることができない。

 移送船のハッチが開く。護送ポッドの固定が解除され自走を始める。


 助けて。

 私をここに入れないで。

 せめて今、何か発作でも起きて急死できたら。


 しかし無情にもポッドは《セクメト》に滑り込み、船内を進んで停まる。

 強化樹脂の扉が開く。

 地獄への扉が開いてしまう。


 そして、ファウストルシアンは。




  * * *




 よほど恐ろしい旅路だったのだろう。客人は口も利けないほど怯え切って震えていたので、懐かしい音楽をかけて熱いお茶を飲ませ、部屋でシャワーを使うように勧めた。

 その間わたしはディナーの支度をする。一番見晴らしのいい部屋のテーブルに二人分の皿を並べ、大事な客人を待つ。

 やがて護送ポッドが部屋から彼女を連れてきた。

 シャワーのためか少し血色がよくなり、服も《セクメト》のエンブレム入りの新しい繋ぎ服ジャンプスーツに取り替えて、見違えるようだ。

 彼女の手を取り、もう震えていない顎を、唇を撫でる。地上を離れて三年半、夢にまで見たこの唇が、これからわたしの用意した特別な肉に触れるのだ。

 それともニコラ、地上でも同じように食べてきたのかな。君はわたしのやり方を真似て殺し、解体したはずだから。

 地上での魔法はカボチャの馬車の中で解け、先程掛け直した魔法はごく薄いものだ。君は自分に何が起こったかもう全て分かっている。地上でわたしの魔法の掛かるより前から君は、わたしを求めていたんだよ。

 わたしは君の手助けをしただけ。

 もちろんそれは、わたしの側も君に心奪われたからだ。初めて、解体したいとか食べたいとかではなく、君に理解されたいと思った。

 わたしを理解してもらうには、わたしと同じ行為を体験してもらわなければならない。君の緻密さと知能ならばそれができる。

 君ならばわたしに辿り着くことができる。


 果たして、その通りになった。だから今日は何重にもお祝いだ。君がわたしのものになり、我が家セクメトは運用三周年を迎える。

 ニコラ・パーカー、わたしの可愛い人。地上からの通信でこの特別な日が重なることを知った時から、君のために育てた肉を丁寧におろし、したごしらえしておいた。美しい暗赤色のソースは今朝採取したものだ。

 同じ食卓で同じものを食べれば、家族になれる。


 ずっとずっと待っていたよ。



 ようこそ、わたしのグレートヒェン。







〈了〉

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