天使

@do9

天使


「天使を見たことがあるんだ」


 彼女はそういった。唐突だった。

 丁度彼女と同衾していて、まあ所謂することをしていたのだけれども。彼女の方が僕よりもかなり体力があるので、大抵僕がいつも先にへばる。彼女はいつものように若干表情の硬い顔で、少し休もうか、といった。枕元においてあるペットボトルを手に取ってから、一気に飲み下した。汗をかいてのどが渇いていたし、まあ声も少なからず出したので、少しでも多くの水が欲しかった。

 僕が水を全て飲み干して息を吐いていると、彼女が唐突にそう言ったのである。正直唐突過ぎて閉口していた。普段彼女は、余り口数が多くないのも手伝って、そういう浮ついた話をしない。どうもそういう気の良い言葉を言うということは好まない節があるようだ。少なくとも僕の印象の話ではあるが。

「ああ、いや、すまない。忘れて欲しい」

 彼女は顔を一回手で拭った後、口元を隠して首を竦めた。恥ずかしがっているのか何なのやら。

 僕はそのまま言葉を発することができずにいたのだが、直ぐに彼女が何か重要なこと、少なくとも本人にとっては意味のあることを言おうとしているんじゃないかと思い始めた。こういう風に彼女から話を振ってくるということは今まで余り無かったことなのだし。

「天使って?」

 僕は訊いた。彼女は尚も話すことを躊躇っていたようなのであるが、僕がもう一度訊き直すと、ことばを整理することができるまでこちらが待っているのに気がついたのか、おずおずと話し始めた。

「私が……中東にいた時なんだが」

「民間軍事会社にいたって言ってたよね」

「そう。その時のことで。■■■の■■■■から、■■に移動している時だった。車だったんだ。会社自体そんなに大きくないし、それ以外の長距離移動方法が無かったんだけど。一晩じゃたどり着けないから、予定地でキャンプをやって、一晩明かしたんだ」

話によると、同行者は3人。彼女も含めて4人という事になる。素人の僕からするとそんな少人数で移動していいのかなんて思ってしまうが、そこは零細という事のようだ。

 そもそも、■■■で起こった内戦は、とっくの昔に終結していて、そこにはもう人は殆ど残っていなかったのだ。だから、車一台で、たった4人で移動するなんてことができたのである。そんな状態でも人を派遣するような受注というものはそれなりにあるらしく、彼女の元いた会社はそういう受注を受けて細々食いつないでいる状態だったようだ。

「キャンプ……というか半分は車中泊だったんだ。夕食代わりにあの歯にやたらくっつくお菓子食べて。コーヒー、を作って、皆で飲んだ……と思う」

 僕は、荒地の中で彼女と、その同行者たちが会話を交わしながらコーヒーを飲んでいるところを想像した。少し可笑しかった。

「それから、外に出たんだ」

「1人で?」

「うん、1人で。他の人たちが盛り上がってきちゃったってのもあったんだが、何となく風に当たりたかった。あんまり話したくなかったのかもしれない」

 この場合、彼女が人とはなすことが嫌いな、或いは苦手な、所謂コミュ障云々であるとか、そういうことではない。彼女は口数こそ少ないが、僕から見ても口下手なわけではなかった。そもそも、僕はコミュ障という言葉自体が余り好きではない。まあ創作物のキャラクター付けとして使用するのは大いに結構なのだが、実際の人物に対して使うような言葉でもないと思う。いくら会話だとかが得意な人でも人と話したくない瞬間だってあるのだろうし。そういう言葉が罷り通ってしまう状態を紊乱というんじゃないか、とも思ったりする。まあこれは僕が物知らずなだけでそんな事は無いのかもしれないが。

 そこで、彼女は座った姿勢を崩して、また裸体を僕の隣に横たえた。

「私は半分が日本人で、半分が■■■■人なのだし」

 ちょっとそういう意味でも、馴染めていなかったかも知れない。

 彼女はそう言った。まあ無意識にそういった色眼鏡をかけて相手を見るのは日本人特有の悪癖ではないだろう。どこだってきっとそうだ。相手も相手で、それが気になる時と、ならない時があるのだろうし。きっと彼女にとって、それが少々気になる瞬間だったのだ。

「そしたら、いたんだ」

「その、天使が?」

「そう」

 唐突だ。極めて。

 けど、何となく却って現実味を帯びている。実際なにか妙な経験をするときなんて、そんなものなのだろう。まあそれはいいとしても。

「それはどんな形だった?」

 それが気になるのだ。

「何だろう、白っぽい人……みたいな形だった。それが、月の近くに浮いていた。髪の毛も何も無くて。顔の形すら曖昧だった。けど、なにか泣いてるみたいだった、というのは分かった」

 日本人だったら幽霊だと思うところなのだろうか。白っぽい影というならば、ますますそれっぽい。何かを嘆いているというのなら、尚更だ。創作物の幽霊というのは、大抵何かを怨んでいるか嘆いている。

 でも、彼女はそれを天使だと思ったらしい。

「違うんだ。嘆いてるようには見えなかった。でも泣いてたんだ。嬉し泣きとか、そういう訳でもなくて」

 それは何となく理解できた。泣くにしたって、一種類の感情で泣くなんてことは意外とないだろうし、逆にどうにも分類不可能な衝動で泣くなんていうのもあるだろう。人間の頭というのは曖昧で高が知れたものであるが、一つのことしか考えていないという訳でもない。ましてや、それが天使なら。

「その白い人影を、天使だと思ったんだね」

「そう――だね。幻かな。何でだろう、ゴーストとか、そういうものじゃないなと思った。あんなに真っ白で、綺麗に泣くものはゴーストじゃないって」

「綺麗」

「凄く綺麗だった。綺麗に泣いていた」

「その後は? どうしたの?」

「5分ぐらい眺めてた気がする。その後は――普通に車内に戻った。寝る前にもう一度外に出て見てみたんだけど、その時にはもういなかった」

 正直なところ、行軍の疲れとか、他様々な要因から来た、または本人の精神状態から見た幻覚なんじゃないか、とも思う。今のところそれで片付けた方が自然だ。

 ただ、何となくそれはしなくていいんじゃないか、とも思った。この体験は、彼女だけのものだ。僕はそれを聞いているだけに過ぎない。彼女は、『それ』を見て天使だと解釈した。それで十分な気がする。

 僕は、何か答える代わりに、彼女を抱き寄せた。元々彼女は180センチメートル以上の身長があるし、元々そういう仕事をしていたということもあって筋肉質なのだが、彼女はするっとくっ付いてきた。単純にしっとりした肌が心地いい。

「その三日後。私が不発弾の破裂に巻き込まれて、入院したのは」

 僕は、少しどきりとした。彼女の身体には、傷こそ殆ど残っていないものの、まだ身体の中には爆弾の金属片が入っている。

 その不発弾での怪我をきっかけに、彼女は民間軍事会社を辞めて、親類の伝を辿って日本に来ていたのだ。

 では、あの天使というのはなにか不吉の前兆として、或いは予感として、彼女が見るものなのだろうか。

「でも」

 彼女は続けた。

「その後も、時々天使を見たんだ」

 2度目は。

「退院して、日本に行こうって決めてから。日本にいる親戚に電話をかけた直後。もう何年も連絡とってなかったから、あんまり期待してなかったんだけど、いいよって言われて凄く安心した。その時に家の窓ををみたら、空にそれが浮いてたいたんだ」

 曇り空で、その隙間から夕方の日光がが指していたらしい。その光の筋の中を、またあの真っ白い人影がするりと横切って行ったそうなのだ。その影は、相変らず真っ白だったらしいが、陽光を遮って黒い筋を作っていたらしいから分かった様だ。相変らず、遠いのもあってか顔も何も分からなくて、でもその時もやはり泣いていたらしい。初めて見た時ほど、この時は美しいとは思わなかったそうだ。どちらかというと影のような感じだったからからかもしれない。

 それは別に何の不吉でもないし、そもそも彼女の基準で言うならもう何か起こった後だ。勿論、現れた後には何かが起こっていたのかもしれないが、彼女にとってそれはその天使とは結び付けられない事柄だったらしい。

「3度目は」

 彼女はそこで少し言いよどんだ。両手の指を緩く組み合わせて、握るように動かした。頭が少し揺れた。

 恥ずかしがっているのか。

「3度目は?」

「貴方に逢う前日。コーヒー・ショップに――私が立ち寄る前の日」

 嗚呼。

 それは、ちょっと照れくさい。付き合い始めた日とかならともかくとして。別にこれといった恥ずかしい思い出が付随するわけではないのだが、そのことが『それ』に関連して出てくるとは思っていなかった手前、思い出すと少々可笑しくなってくる。

 馴れ初めは、コーヒーショップでアルバイトしていた僕が、初めて店に来た彼女にコーヒーを選んだのだ。まあ普通に考えればそれで終わってしまう話なのであるが、彼女がその常連になったのだ。そうして会うことも増えていって、どういうところがツボに入ったのかはわからないが、あれよあれよと付き合うことになったのであった。

「その時も夕方だった。雲ひとつ無い快晴で、私は仕事場から帰る途中だった。駅に続く大通りのビルの前で、空を見上げた時にね」

「居たんだ?」

「うん、居た。やっぱり泣いてはいたんだけど、その時は泣きながら何か言っているように見えた――気がした。何を言っているのかはさっぱりだったけれどね」

「3度目に見たそれは、2度目よりもとても綺麗だった。もしかすると、初めて見た時よりも綺麗に見えたかもしれない。なんだか凄く気持ちが良くなった。快感とかそういうのじゃなくて———とにかく具体的な身体感覚では無かったんだけど、気持ちよかった。私はその間呆けていたんだけど、それはふわふわと空中を移動して行って、ビルの陰に隠れてしまって、見えなくなってしまった」

 

 それ以降は、もう見てない。

 

 彼女はそう言った。

 今日は月が明るいから。思い出してしまう。

「人に話したのは初めて。言ったところでどうという事でもなかったし」

 別段悲しそうな顔ではなかった。彼女はいつもどおりのちょっと硬い表情だった。

「それを、どうして僕に?」

「あまりきちんとした理由は無いかも。ただ、何となく」

 彼女は、少し身体を揺らした。なんだか大型の食肉類が腕の中にいるみたいだった。どれくらいそうしていたのかは分からない。たいした時間ではないだろうが、深夜、無音の環境も相まって、結構長い時間に感じた。僕は、彼女の髪を梳いた。彼女は、少し目を細めて、少しだけ笑った――様に見えた。


「おばあちゃんが言ってたんだ」

「うん?」

「眠れない夜には、私の枕元にいつも居てくれた。その時にいつも言っていたことが、天使が居るって。お月さまの光みたいに、地上の全てを照らしているんだよって。だから、怖いことは何も無いんだと。そう言っていたんだ」

 僕は、このとき初めて彼女が祖母について話すのを聞いた。彼女の家族関係については、殆ど知らなかったのである。彼女の両親は、■■■の爆撃の最中、行方不明になってしまったようだ。彼女自身その時に小さかったこともあって、その後のことは彼女も分からないらしいが、生存はとうに諦めていたらしい。彼女はそのまま■■■■にいる祖母のところに避難して、学校にも通い、大学も出たらしい。民間軍事会社に入ったのは、そこが一番マシな労働環境だったからで、生まれつき体格も良く、成績も良かった彼女は、比較的簡単に入社することができたようだ。

「おばあちゃんは、別段信心深い人ではなかったから、もしかすると方便だったのかもしれない。でも、少なくともその時の私は、天使が居るって思えた。そのくらいの言葉ではあったと思う」

 どうも弁の立つ人ではあったようだ。彼女は祖母に似たのかもしれない。

 でも――。

「その時のおばあちゃんは、天使さまは笑ってるって言ってた。微笑んでいるって。それが本当なら」

 

 あの天使はいつから泣くようになったのだろう。

 

 言葉にはしなかったが、彼女がそういっている気がした。

「おばあちゃんは、私が■■■に派遣される前に、胃癌で亡くなった」

 最期には、彼女には簡素な別れの挨拶を伝えただけだったようだ。そのまま容態が急変し、あっけなく亡くなってしまった様である。あれほど彼女の印象に残っていた『天使』については、一言も言っていなかったそうだ。


 もしかすると、それは、おばあちゃんが亡くなった時から泣き始めたのかもしれないよ。僕はそう言った。


「それなら少し、楽かもしれない。もし、もしそうだとしたら———」

 

 少し、彼女の表情が緩んだ。

 

 それなら。


「きっと、もう見えなくても良いかもね」

 

 彼女はそういって僕をきつく抱きしめた。それから、首元に、顔を埋めて匂いを嗅いだ。


 視界の端、窓の外。煌々と照る月の隣に、真っ白な人の形が見えた気がした。



                                  (了)

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