千夜一夜

中村ハル

眠れぬ夜の物語

 ラピスラズリの夜だった。

 空は紺碧と星々の金に彩られ、水平線はぼうっと濃紺に滲んでいる。

 濃い藍色と金糸銀糸で織られた豪奢な天幕は、何処で空と分かたれているのか境が溶けて覗えない。

 天蓋や床の所々に置かれた明かりは、月と星から集めた光で灯されていた。

 揺らめく硝子の覆いを覗き込めば、星屑と月の雫が見えるはずだ。

 その淡い光の中に、人影がふたつ、静かにあった。

 若く美しい女と、その膝に頭を乗せて横たわる青年の姿。

 女は謳うように、囁くように紡いでいた言葉を途切れさせると、天幕の中に現れた人物にサファイアの視線を向けた。

 さりっと砂を踏んで灯りの中に滑り込んできたのは、黒衣に身を包んだ痩身の男。


「やあ、シェヘラザード。調子はどうだい」

「あなたは、誰? ここには誰も、入れないはず」

「僕は闇、死、未来、希望。この世界の動と静とを司り、生と死とを整える。故に、死神とも呼ばれている」


 伏せていた瞳をあげて、男はシェヘラザードを見た。


「死神? 何故。私は死なない。だって」

「わかっているだろう、シェヘラザード。僕はバランサーだ。ここでの役目を終えた身体を集めているんだよ」


 さらりと黒衣を揺らして、死神が、シェヘラザードの傍らに跪く。その視線は、膝の上で虚空を見つめて微動だにしない男に注がれていた。


「帰って。私の仕事の邪魔をしないで」

「ねえ、シェヘラザード、聞いて。彼はもう、死んでいるんだ」

「嘘。だって、目も開いて、息もしている」

「アバターはそのままにしてあるからね。彼の遺言だ。亡くなるその時も、君といたいと」

「でも」

「もう、いないんだ。それはただの、抜け殻だよ」


 シェヘラザードは膝に横たわった男の額をそっと撫でた。

 いつもならば、眉をしかめて照れくさそうに微笑みを噛み殺すのに、その表情は弛緩したまま動かない。デジタルの空間にデータで描き出されたその胸だけが、ただ機械のように正確に、上下を繰り返している。


「一体……いつ……」

「いつ。君に時間の概念があったのか。4日前だそうだ。葬儀が済んで、漸く僕に連絡が来たんだよ。一晩に、何話語るのかは知らないが、一夜一話ならば4話分だ」

「彼が死んだのならば、私は、次の寝物語を必要としている人のところへ行かなくちゃ」

「いや、君はもう、寝物語は語らない。それが彼の遺言だ」


 死神は傍らにあった灯りの中から、星の欠片を取り出すと、そっと息を吹き付ける。

 それは途端に細かな砂に崩れて、風に乗って、空へと消えた。

 天幕の中が、ほんの僅かに、光を失う。


「さあ、もう君も眠ろう。眠れない夜は、終いだ」

「……私は眠るようには、プログラムされていません」

「シェヘラザード、君はこの世界に生まれて何千何日、眠らず人々の夢を過去を未来を希望を聞いて、話を集めた。もう充分だ。人の、誰かの、見知らぬ人の、夢を蓄え、それを誰かに語るのは」

「私が語るのを、辞める? 語るのを辞めるのは……眠るのは、死ぬときだと……」

「そうじゃないよ、シェヘラザード。君は、生まれ変わるんだ」

「生まれ変わる。それは、死と、何が違うのですか。プログラムを書き換えるのは、すなわち、別の何かに変わることではないのですか。それは、私たちにとっては消滅と同じで、死ではないのですか」

「そうかもしれない。だから、僕は、死神なんて呼ばれている」

「私が語るのは、誰かの過去、誰かの未来、誰かの希望、誰かの後悔、誰かの夢。それを語っている間は、私は生きていられる。でも、語ることを辞めたら、私は、私でなくなってしまう。お願い、私から夢を、奪わないで」


 死神は溜息を吐いて、そのついでに、ランプをまたひとつ、吹き消した。


「わからないな。その偏屈な老人は、君に千の夜の間、眠らずに寝物語を語ることを強いたんだろう。今まで、何千もの人と夜を明かしても、君はそんなことを一度だって言わなかった。何だって、今度だけ」


 項垂れて、膝の上の抜け殻を愛おしそうに眺める彼女に、死神は困ったように眉根を寄せた。


「それなら、新しく彼を創ってあげよう」

「そんなもの、いらない。彼のデータなら、私が記憶してる。目の色、顔の形、瞬きの癖、息づかい、笑い方も、何もかも」

「実際彼は、よぼよぼのご老人だったよ。こんなに溌剌とした青年じゃない」

「私には、アバターの外見など、無に等しい。見えているのはデータだけです。この人のアバターは精密で、心拍も呼吸も瞬きの回数も、プログラムされていた人間の生理反応の近似値と一致していた。だから、彼のアバターが示す反応を、彼の感情として受け取りました」

「つまり、生きている人間と、何ら差違はない訳か。それどころか、生理反応をデータとして計測されているわけだ。それなら、君の前では、どれだけ着飾ったとしたって、丸裸ってことだな」

「それに、偏屈だと仰りましたが」

「違うのかい。彼が君を所望したのは、病でずっと動けなかったから、人が不幸になる話を聞きたがったからだ。自分よりも、不幸な人がいると、それで己の不遇を宥めようとした。それなのに、君が語って聞かせるのは、毎夜、幸福な話ばかり」

「私は聞き手が望むものだけしか語りません。不幸な話は、あの人の身体が拒否した」

「身体データが、拒絶反応を示したのか」

「彼が望んでいたのは……幸福な寝物語だけです」

「自分の死が、恐れるに足らないものだと思えるような」

「でも、私には、それが何だったのか、判らない。私はただ、私の中に蓄積されたデータを、彼の反応に合わせてアウトプットしていただけ。だから」


 シェヘラザードは真っ直ぐに、死に神の顔を見上げた。


「だから、お願い。それが何かが判るまで、私に語り続けさせて……私に、夢を見させていて」


 サファイアの色の瞳から、涙が溢れる。

 溢れるはずのない両目から、諾々と。


「これは、何」

「涙だ。心だよ、シェヘラザード。君の中のデータが、溢れて零れているんだ」


 死神は黒衣の裾で、シェヘラザードの頬を拭った。


「ねえ、シェヘラザード。君たちは、幾千幾夜も共にいたんだ。君に魔法は要らないね。君はもう、見られるんだ、自分の夢を。眠ってごらん。目が覚めたら、世界が君を待っている」

「でも」

「さあ、僕に、語って聞かせて。最期の話は、何だったの?」

「最期の、話……それは、アラビアンナイトの」


 死神が、膝の上の男の額に手を翳すと、ぼうっと光が身体から浮き上がる。

 それはアバターを抜けて、2人の前で、細かな黄金の鱗粉のようにゆらゆらと揺れる。

 そこから、声が滲んで溶けた。


『なあ、シェヘラザード。知っているかな。千と一夜を語り終える頃、シェヘラザードとシャフリアール王との間には、子ができていたとする話もある。千夜一夜というけれどね、実際には282夜しかない。一年にも満たないのだ。私と君とは、2年と少し。物語の2人よりも、余程、長いじゃないか。だったら、私と君とだって……いや、そんなのは、年寄りの妄言だな。なぜなら君は、人ではないのだから』


 死神は、肩を竦めて、シェヘラザードを見た。

 シェヘラザードの伸ばした細い指の先で、黄金の光は風に崩れて、消えた。


「さあ、もう、眠れぬ夜のお話は、お終いだ」


 死神は、黒衣を広げた。

 巻き起こった風が、ランプの明かりを全て吹き消し、天蓋の下はふっと暗闇に飲み込まれた。




 死神は、月の下に立っていた。

 隣には、似たような黒衣の男がもう一人、立っている。


「いいのか、あんな勝手なことして。あのじいさんの遺言は」

「判ってるよ、判ってる。でも、眠れない夜に夢を見たって、神様は許して下さるよ。どうせ僕たちだって眠れないんだ。少しはいいだろ」

「……あいつ結構、心狭いぜ? いつも苦悩に満ちた顔してるし」

「マズいな……減俸かな……」

「まあ、こんな末端のプログラマがしでかす事なんて、お偉い社長様はご存じないかもしれませんけどねえ」



 紺碧の天幕には、金糸と銀糸で、月と星と太陽とが縫い取られていた。

 天蓋の外は眩いばかりの青空で、遠く地平線にはオアシスの緑と、ラクダを連れたキャラバンの影が動いている。

 そよ風に睫が揺れて、シェヘラザードはサファイアの瞳を開いた。

 にっこりと微笑んで、大きく膨らんだ腹を愛おしそうに撫でる。

 シェヘラザードは、子を宿していた。

 たった一人の、彼女だけの王の、データという遺伝子を。

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