エピソード3



 ゆいさんの会社がさらに大きくなって、社員が二百人に迫るころのことだった。

「俺、会社辞めるわ」

「え、何やらかしたんですか。横領ですか、脱税ですか、ハゲですか」

「やらかし前提かよ。ちなみに前髪は深刻にヤバイ」

「会社辞めてどうすんの?」

「地元帰って土いじりでもするかなぁ」

「やめてッ、地元を不毛の地にする気か!」

 聞けば、会社がある程度の規模になり、つまり一定の成功を収めたところで熱が冷めてしまったらしい。

「要するに、飽きたんですね」

「続いた方だ。我ながらよくやったわ」

と、ゆいさんはふんぞり返った。

「やまちゃんも微力ながらよくやってくれた」

「喧嘩売ってんすか」

「山田って、喧嘩は絶対買いませんよーって顔して後ろから鉄パイプで殴るタイプだよね」

 分かってんならその減らず口をつぐめ。


「後進も決めてある。俺がいなくても会社は大丈夫だろう」

 特定の誰かがいないと崩れてしまうような組織は組織とは言えない。代わりを埋めながら正常に運転し続けられるからこそ組織なのだ。三人から始まったゆいさんの会社は、今や立派な組織になっている。

「だから心配すんな。ここで働いてれば食うには困らんはずだ」

 誘った身として一応私のことを気にしているらしい。

「お前はこのままここで頑張るといい」

 余計なお世話だ。

 仕事行きたくないよぉ、と毎朝布団で手足をジタバタさせながらも結局は出社し、いざ働くとなるとそれなりに頑張ってきた。ヒラが気楽で良かったのに役職までついてしまったのは不本意だったが、給料も上がって一層陽くんにお金を落とせるようになった。

 きっかけはゆいさんの誘いだったが、そこから先は私が自分で選んできた道だ。きっかけに過ぎないあんたに余計な口出しをされる筋合いはない。

「嫌です。ゆいさん辞めるなら私も辞めます」

 安定を求めるなら前職でも十分だった。

 この会社に飛び込んだのは、ゆいさんがいたからだ。ゆいさんがいたから、私は自分でこの会社を選んだ。だって――。


「だってゆいさん、『一生食うには困らんことを保証してやる』んでしょ?」


 ここで働いてれば食うには困らんVS一生食うには困らん。

 私は後者を選ぶ。

「ゆいさんはもう私の人生の一部なの。腹を決めてください」

 ゆいさんは困ったように頭を掻いた。

「プロポーズみたいだな、そのセリフ」

 かぁっと頭が沸騰した。

「んなわけあるかーー!!」

 怒号は下のフロアまで響いていたらしい。



「本当にもういいんじゃないですか、人生。やり残したことないでしょ」

「いや、ある」

 掠れた音を発したのは、筋の浮いたゆいさんの喉だった。

 掛川優一、齢百。髪の毛はとっくにお亡くなりになったのだが、本体はしぶとく生き残っていた。

 ゆいさんは確かに約束を守った。飽きっぽいゆいさんは新しい事業を立ち上げたり突然転職したりを繰り返した。

 一連托生。

 私もゆいさんに懸命について行き、そうして食うには困らないまま九十八になった。この分なら「一生」という条件も満たされることだろう。

「なんですか? やり残したことって」

 ゆいさんはもう床に臥せったまま起き上がることができない。先は長くないだろう。先が長くないのは年齢的にもお互い様だ。

「悔いがないようにしてね。遺書準備しました? 私はとりあえずお線香買っときましたよ、三億本くらい」

「煙臭そう」

「あんたの死臭よりマシだわ」

 ゆいさんは言い返そうとしたが、むせて咳込んだ。骨ばった背中を撫でてあげる。

「やり残したことと言えば……、」

 ゆいさんは懸命に口を動かす。背中を撫でながら耳をこらしたが、その先を聞き取ることはできなかった。でも私は続きを知っている。


『三十超えたことだし、ゆいさんそろそろもういいんじゃないですか、人生』

『確かにやり残したことと言えば、君の死に顔見るくらい』

『寝言は死んでから言って』


 今なら分かる。ゆいさんは最期に私の死に顔を見たかったのだ。

 私を看取りたい。いつか私を看取る日まで、一緒にいよう。

 そう言っていたのだ。

 仕事はできるくせに、とことん不器用な奴だこと。

「私はやり残したことないかなー。概ね満足」

 偽りはない。本当に満足していた。

 苗字は変わることなく、山田恵子のままだった。

 誰かと一緒に暮らしたこともなければ、もちろん子どももいない。

 何も知らない他人からすれば孤独な老婆に映るだろう。

 だが、満足のいく人生だったと胸を張って言えるのは、


「ゆいさんの死に顔見られるから」


 普通とは少し違う形で生涯を共に過ごした男は、幸せそうに笑っていた。


Fin

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君の死に顔を見たい 深瀬はる @Cantata_Mortis

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