太陽の迷宮

雅 清(Meme11masa)

迷宮クルフトス (改訂)

 太陽を最後に見たのはいつであろうか。


 下へ下へと続く石造りの階段を君は下っていた。かび臭く、空気は淀み。ランタンの灯りだけが君の行く先を照らしている。両腕を広げた程度の広さに、僅か数メートルの視界と靴の足音が今いる世界の全てだった。


 下り始めてから既に四日。今日、起きてから歩き始めて半刻が経っていた。

 肌に湿気がしつこく張り付いてくるが、それが自分自身の汗であるのか、それとも階下から吹き上げてくる湿気を含んだぬるい風によるものかは既に判別がつかない。

 君は額の汗を拭うと腰のスキットルに手をかけ酒を口に含ませた。階段を下るという行為を考えれば、お勧めできる行いではないが、ただ歩くことそのものが狂気じみたこの場においては、正気を保つのには酩酊の一歩手前が丁度良い。

 ここは地下迷宮クルフトス。君は今、その大迷宮の腹の中を歩いている。


 下り続けてさらに半刻。未だこの階段に終わりは見えない。

 時折、光が見えたが、その全てが壁に掛けられたランタンの灯りであった。いつここに掛けられ、いつ油を継ぎ足されたかもわからないランタンはその炎を揺らめかせ、その火が自分を嘲り笑うように感じるまでにさほどの時間はかからなかった。


 君は灯りを見つけるたびに階段の終わりかと希望を抱いては、落胆し、そしてまた歩き続けることを何度か繰り返していた。きっと次もまた同じさ、でももしかしたら……。無駄であると思いながらもその考えが付きまとう。


 しかし階段が終わったところでそれは探索の始まりにすぎない。ここはまだクルフトスの入口に過ぎず、多くの探索者はこの入口で諦め、引き返すか、終わりなき入口に発狂し闇へと転がり落ちるのが殆どだ。


 ここでは時間は曖昧であった。四日歩いているが、それを保証してくれるもの自分の意識以外には何もない。そして階段に残された死体もまた時間の曖昧さより強くする。前時代の古いサーベルが錆も無くあったかと思えば、その持ち主の骨は風化し塵になりつつある。次に会う死体はまだ新鮮であるが、その身に着ける服や持ち物は不自然にボロボロだ。

 この光景を見るたびに君の意識は狂気へ進もうとし、そのたびにスキットルに手を延ばした。


 君は脚にかかる背嚢の重さを確かめるように一歩一歩進んでいる。残りの水と食料を考え、引き返すなら今である。だが足は止まることを許さなかった。戻ったところで何もない。戻るつもりもない。

 吹き上げる風は気まぐれにインバネス外套を遊ばせ、跳ね上げられた裾が腕を叩き、そのたびに苛立ったように裾を正した。


 風の中に水の音が混ざりはじめていた。ついに気が狂い、ありもしない泉の幻聴かと思われた。

 いや、たとえ幻聴でもいい。暗く陰鬱としたこのクルフトスではたとえ小さく、微かであっても心地よく。耳をくすぐってくれるこの音が愛おしくさえ思える。心を奮い立たせ、失いかけた思考を呼び戻すには十分であり、止まりかけていた君の足は再び歩みを強く、前へと進ませた。


 それからしばらくして、視界の先に光が見えた。

 どうせ、また忌々しいランタンの灯に違いない。胸には諦めと少々の希望。なぜ自分はここを歩いているのか? 四日前の事に思いを巡らせていた。記憶の反芻はすでに何度も行っていたが、クルフトスを歩くには、思い出や記憶と言ったものに頼るしかない。たとえそれが嫌な記憶であったとしても。


「太陽を取り戻さなければならない。地に沈み、呼び起さなければ我ら人は滅びるのみ。儀式を! 夜明けの儀式を!」

 司祭が言っていたのを思い出していた。

 太陽が地中に沈み込んでから、長い夜が世界に訪れている。植物は枯れ、水は凍り、動物たちはどこかへ消えた。太陽を連れ戻さなければ永遠の夜が全てを飲み込んでしまう。

「再び夜明けを迎えよう! 探索者を! ただ一人、勇気を持つ探索者を!」

 太陽を呼び戻すために幾人もの探索者が送り込まれ、そして探索者も太陽も戻らなかった。


 志願したのは半ば自殺願望に近い。何も持たず、何も得ず。生を諦めることもできず。ならば自分が行こう、どうせ世界が死ぬのなら。せめて役にたったと思いたい。

今までの無意味な人生が有意義であった思いたいのだ。


 孤独には慣れている、ただ歩くことにも慣れている。唯一の自分ができることがそれならば、たとえ帰還できなかったとしてもよい。そして君は古い教会の下、太陽の眠る地下迷宮クルフトスへと進んでいった。


 やはり、灯りはランタンであった。揺らめく炎は、石レンガの壁にランタンの影を作り、君を嘲笑う。

 君は怒り任せにそのランタンを叩き割った。ガラスを粉々に、フレームが激しくひしゃげて歪むほどに。


 しばらく激情に身を任せていたところ、階段に響く水の音が変わっていることに気づいた。

 小さな水の音が大きくなり始め、足元の階段をチロチロと流れる水が現れた。

 音はさらに大きく、轟音となり迫っているようだった。当然、逃げ場など無い。幻聴であればよかったのにと。

 階段の上方から水が迫る、激流を視界が捉える暇も無く、体をさらい、流れに連れ去られた。


 辺りには眩しい光が満ちていた。何も見えない。

 どれほどの時間が経ったのかはわからないが、服と自分の周囲が濡れていることからそれほど経っていないようだ。

 君は手で影を作り、光の方を見た。太陽だ。地の底で半ば土に埋まった輝く太陽があった。

 辺りに死体が無いことから、ここにたどり着いたのはどうやら君が初めてらしい。

 あれほどの激流で死体の一つもここに流れつかないのはおかしな事だが、深く考えても仕方がない。なにせここは迷宮だ。


 立ち上がろうとする君を、全身の痛みが邪魔をする。

 麻酔代わりに腰のスキットルに手を延ばすが水で流されたのだろう、空振りする手を持て余すだけだった。

 太陽を見つけたのであれば儀式をしなければならない。幸い、背嚢は失われておらず、奥にしまい込んだ儀式の剣もしっかりと残っていた。

 捲かれた布を取り払い、剣を取り出す。儀式の剣と言うのにそれはあまりにも質素な作りだ。

 突き立てる為に抜こうとするが、なかなか抜けない。体の痛みをこらえ、やっとの思いで引き抜くと剣の刀身は赤錆に塗れていた。司祭から神の祝福をこの剣に受けた時は確かに鋭く輝いていたのだが……。

 このクルフトスを流れる曖昧な時間がこの剣を錆びさせたのだろう。これでは太陽に剣を刺すことなどできない。


 まただ、また落胆が押し寄せてきていた。期待させておいて、最後は突き放す。いつもそうだった。

 自分の人生をとりまく理不尽は僅かに残った信仰心でさえ奪おうというのか。

 手は怒りに震え剣を投げ捨てた。


 君は痛む体を引きずって、太陽の上に座り込むと、一心不乱に叩いた。起きろ、起きろと。手に血が滲みもうとも構わず叩き続けた。これまでの全ての理不尽と怒りを込めて。


 君の内に激しい感情が渦巻いていた。

 そこで初めて気が付いた、生きるためにあがき続けてきた自分がいたことに。

 人の為に、自分に何もできなかったのではない。それに気づいていなかっただけなのだと。成していなかったのではない、何もないと思い込んでいたにすぎない。

 その証拠がこれだ。太陽を見つけ出した。

 

 だが剣はあの通り、錆びている。どうすればいい。儀式など行えないのに。気付いたところでやはり無駄なのだ。

 君は瞳を閉じようとしたとき、鋭く輝くものを見た。それは君が投げ捨てた剣であった。


 錆びは無く、祝福を受けた時の輝きを取り戻していた。

 気づけば良かっただけなのだ。自分には何もないと思っていたのは間違いだった。

 全身の痛みは引いており、腰のスキットルもいつの間にか戻っている。


 君は立ち上がり、剣を手に取った。

 この剣を突きたてれば、太陽は熱を取り戻し天に帰るだろう。

 だが同時に君を焼くことになる。あるいは上昇したときに崩れる瓦礫に押しつぶされる。どちらにしろ命は無い。

 

 君は迷わず剣を突き立てた。

 ここで死ぬ。だが構わない。何もないと思って死ぬより、自分自身を、本当の自分を知ることができただけで充分だった。

 足元の太陽が揺れ、轟音とともに上昇が始まった。天に帰る時だ。大地の、世界の目覚めだ。


 熱を感じる。後少しすれば、骨も残らないだろう。

 だが足元の太陽が世界を照らすならそれでいい。光に包まれる感覚を味わい、君はゆっくりと目を閉じた。

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