第23話 記憶喪失の男、己が罪を告白すること
犬上大輔という男と出会って、まだ三ヶ月も経っていない。音無にとっては数少ない友人といえる相手だが、未だ、彼のことをよくわかっているとは言い難い。
だがひとつよく知っていることがあって、それは彼は嘘を吐くのがあまり得意ではないくせに、なぜだか意地を張って嘘を吐く人間だということだ。
「そんなことは、いまはどうでも良いんだ。くそ、とにかく、逃げるぞ。銃は警棒を投げて叩き落としたが、くそ、あのときに銃を回収しておけばよかったな。おまえを追うことを優先しちまった。だが、逃げられるはずだ」
「どうしてですか?」
と音無は問う。犬上は、刑事だ。刑事は、犯罪者を捕まえるのが仕事だろう。であれば、白河から逃げることはない。
「だからだ」と犬上は声を抑えながら叫ぶという器用なことをした。「白河さんはおまえを殺そうとしているんだぞ。殺されたら、逮捕なんてできない」
「そして、本当のことを言うのですか? 真実を公開して、意味がありますか?」
「真実とは、白河さんが彼女の恋人を殺したことか」
犬上の問いかけに、音無は頷く。
半年前の事件の日の夜、音無は銃を手に繁華街のアルバイト帰りの白河を尾行していた。彼女のことは知っていた。音無の受けていた講義で、彼女がティーチングアシストをしていたことがあったからだ。手近で都合が良い女だった。アルバイト先やスケジュールを調べるのは簡単だった。
あとをつけるままにアパートに入り、同じエレベータに乗った。彼女は一切の警戒をしていなかった。だから同じフロアで降り、彼女が自分の部屋の玄関の戸に手をかけて入ろうとしたとき、閉じかけた扉を掴むことは簡単だった。
当たり前だが、講義での学生とティーチングアシスタントというだけの関係でしかない音無は、白河の生活状況などまったく知らなかった。だから、彼女が他の男と同棲している可能性など予想もしていなかった。叫び声をあげる前に口を塞いだ。押し倒し、準備しておいたガムテープで手を縛った。足も。そうなったら、ろくろく抵抗しなくなった。扉を閉めて、鍵を閉めて、誰もいないことを確認して、白河の身体を居間へと引き摺っていった。そうしてから、服を脱がせた。下着も。足を広げさせようとして、ガムテープで縛ったままだと不便だということに気付き、足首だけ剥がしてから股を広げさせた。そうして音無は彼女を襲った。
そのあとだ。白河が初めて抵抗らしい抵抗を示したのは。
もしかすると、彼女は犯されながらもずっと機会を窺っていたのかもしれない。さんざん白河の身体を蹂躙し、満足してうなだれていた音無の頭を、自由になっていた足で蹴りつけた。そしてそのまま全裸で手を縛られたまま逃げ出そうとした。もう手に届かないところにいた。鍵をかけたから、手を縛られた状態の白河にはきっと玄関の扉を開けられない、などという判断を音無はできなかった。逃げられるまえに、だから、撃った。デリンジャーで。
思っていたよりも大きな音がした。
それは咄嗟に銃を撃ち、その轟音に対する覚悟ができていなかたせいかもしれない。実際、音無は頭に銃弾を受けて倒れた白河に、怯えた。銃弾がどこに当たったのかまでは見えなかったが、彼女の額からは血が出ていて、ぴくりとも動かなくて、だから、死んだのだと、そう思った。殺してしまったのだと、恐れた。
それは罪に対する恐怖ではなかった。もちろん、逮捕されるのは怖かった。だが強姦をすると決めた時点で逮捕は時間の問題で、だから改めて恐るものではなかった。しかしながら、死は、恐るべきものだった——何もかも絶望していた音無にとっても。死は、怖い。死ぬのは、怖い。死体は、怖い。
だから音無はその場から逃げ出したのだ。
どこをどうやって家まで戻ってきたのかはよく覚えていない。だが家に戻ったとき、持っていたはずのデリンジャーは消えていた。どこで落としてきたのか。逃げ帰る道中か。まさか、現場か。不安になったが、死体の元へは戻りたくはなかった。音無は震えた。ただ、恐怖に震えた。人を殺した。命を絶った。それは忌むべき行為だ。死体を作り出した。それを音無がやった。それを追及される。罪を問われる。音無は震え続けた。
朝になってから、ネットニュースを確認した。そこで音無は、白瀬市内で起きた殺人事件の速報記事を見つけた。詳しい状況や被害者の名前までは出てはいなかったが、現場で銃が発見されたことから、最初は白河六花を己が殺した事件だと判断した。
だがそこに書かれていたのは「男性が銃で撃たれて死亡」という内容で、音無は目を疑った。男性? 白河六花は男ではない。彼女の女の部分に実際に突っ込んだのだから、音無はそれを事実として知っている。ではこの記事は、まったく別人が起こした事件の記事なのか? 詳細を見ていくと被害者男性と同棲をしていた女性も被害者で、彼女は怪我をしていたものの命に別条はない、という内容もあった。
白河六花は、生きていた。
己が犯した相手だというのに、音無はほっと息を吐いたのを覚えている——殺していなかったからだ。己は他人の命を奪っていないということがわかったからだ。小口径の弾丸のせいだ。背後から斜めに弾丸が当たったからだ。
だが、なぜ白河六花と同棲していた男性が死んだのか? しかも銃で撃たれて。
すぐにその理由は想像することができた。
「おまえが置いていった銃で白河さんが撃ったと、そういうことだな」
T大学の理学部・理学研究科キャンパス裏手、金属・硝子工場の裏手で——つまり、音無の記憶の中ではなく、現在の、現実の、この場、この時に——犬上大輔がそう言った。そして音無は、首肯して答えた。おそらくはそうだ、と。
「なぜ撃ったのかは、わかりません。あくまでおれの想像です。ただ、おれは……おれは殺していないということは——それだけは、覚えています」
工場裏手は少し離れた場所にある石階段脇の街灯の光があるだけの暗がりの中では、相対する犬上の表情はよく見えない。だから彼が「そうなんだろうな」と言ったときも、初めはあくまで音無を刺激しないように言葉だけ取り繕っているだけなのだと思った。
だが彼は言った。「おまえも覚えているだろう。一ヶ月ちょい前か、白河さんのバイト先での女性が言っていたことだ。同棲中の彼氏を恨んでいるとか、そういう話だ」
「ああ………」
そういえば、そんな話もあった。犬上に話をしていたホステスはなんという名前だったか。遥か昔の出来事のような——そうだ、遥だ。音無は彼女の名前を覚えている。話したことも。
白河が彼氏のことを殺してやりたいと言っていたこと。
「でも、彼女が銃を手にしたのは突発的です」
「そうだな……」と頷きながら、それで、と犬上が言った。「おまえはなんで自殺した……しようとした?」
音無は、返しの言葉に詰まった。そして、そうか、と理解した。彼がこの事件について、様々な想像を巡らせていたのはそれが原因か。
簡単なことだ——音無は語った。白河を犯し、撃ち、逃げ出した事件のあとで、音無は怯えていたが、警察の捜査が遅々として進んでいないことを知ると、徐々に落ち着きを取り戻してきたこと。もはや何も起きまいと思っていたこと。時折恐れが夢になって襲っては来るものの、平穏を取り戻したこと——そして、女に出会ったこと。
その女のことに、はじめ音無は気づかなかった。夕焼け刻、大学から帰る道すがらに出会った女で、そもそも顔さえ見ていなかった。だが相手は違った。音無の顔をじっと見ていた。そして声をあげた。あ、と小さな声を。その声に反応してその表情を確かめると、瞳が徐々に大きくなっていき、その中には様々な感情が一緒くたになっているのがわかった。
白河六花だった。彼女は犯人を探し続けていた——彼女の男を殺した人物ではない。彼女を犯した人物を、だ。
いや、やはり彼女が探していたのは男を殺した人物と言うべきだろうか——夕日を背負った彼女はデリンジャーを突きつけて言った。おまえが殺したのだと、おまえは犯罪者なのだと、おまえは死ぬべきなのだと、そう罵った。
それで死んだ。
「死のうとしたのか」
「死のうとしたんです」
たまたま出会った場所が神社の近くだった。縄は近くの商店のものであろう薪束として積んであったものがあった。太い枝に縄を繋いで輪を作り、首を吊った。それを彼女は見届けていた。目の前で。
だが音無は生きていた。
縄を繋いだ枝が折れたのだ。なぜか。十分に太い枝に繋いだはずだったのに。幸運だったとは思わない。むしろ、むしろ——あそこで死ぬべきだったのに。
首吊りの影響で記憶を失い、呆然とした状態で彷徨い歩き——そして犬上と出会った。
それが、すべてだ。音無の思い出した、すべてだ。
「あの銃は……」しばらく沈黙したあとで、犬上がそう問いかけてきた。「あの銃に、弾丸は残されているのか? あのデリンジャーは二連装だろう。おまえが撃ち、彼女が撃ったので、装弾されているぶんは終わりのはずだ。だが、彼女はおまえを撃とうとしていた。ということは、おまえは弾丸も銃と一緒に置いてきたのか?」
「それは……わかりません」
嘘ではない。音無がはっきりと思い出したのは、あくまで事件当夜からの記憶だけだ。それ以前のことは断片的に思い出せるのだが、はっきりと何があったのかはわからない曖昧模糊とした記憶になってしまっている。果たしてかつての音無は予備の弾丸を持っていたのか。持っていたとしたら、それを銃と同様に現場に落としてくるなどというのはありえることなのか。
「だが、彼女はおまえを撃とうとしていた。そうだろう? そうじゃないか?」
「そうですね」
それならば、弾丸が装填されているということだろう。それならば、二発——あるいは一発でも、音無を撃つぶんは残されているということだろう。それならば、それで終わりだ。音無を撃って、終わりだ。それで良いじゃないか。
「馬鹿か、おまえは。逃げるんだ。くそ、撃たれてやってどうする。それで、どうなる。黙って撃たれるわけにはいかない」
馬鹿だと断じられた。
「おい、おれは誰だ?」
「は?」
急に頓狂な問いかけが飛んできたので、音無は声を大きくしてしまった。覚悟を決めたはずなのに、白河に聞かれたかもしれないと思うと汗が冷たくなる。
「おれが誰だか、おまえはわかるか?」
「いや……えっと、どういう意味ですか?」
「いいから、答えろ。いや、答えなくていい。くそ、おれは犬上だ。おまえも知っているな。おれのことを。記憶を失う前のおまえは、おれのことなんて知らなかっただろう。だが、おまえはおれのことを覚えている。そうだろう? そうじゃないか? そうだろう?」
闇夜の中で目はとうに慣れていた。犬上の目元は濡れて光っていたが、涙ではなく、汗かもしれない。
「いいか、くそ、音無、逃げるというのは、おまえのために言っているんじゃない。白河さんのためだ。おまえがあの人を撃った——それはわかる、実際に起きたことなのだろう。それで白河さんが逆におまえを殺そうとしている——これもわかる。恨みがあるのだろう……いや、それだけじゃないか。恨みとか、そういうことじゃないか。わからんが……わかる。だが、だ。おまえが撃たれてやって、それで誰が幸せになる? いいか、おまえを撃って、誰も幸せにならん。白河さんは人殺しになる……既にそうだとか言うなよ、半年前の彼女の精神状態がどうだったかは知らんが、少なくとも今の彼女ははっきりと殺意を持っているんだからな。復讐なんていうのは許されない。豚箱行きだ。当たり前だ。おまえが死んで、彼女も逮捕されて、誰が喜ぶんだ? スッキリするか? そんなもん、おれは知らん。おれは……おれは、だから、絶対に、誰も幸せにならない、そんなのは、笑えない」
犬上は音無の腕を掴んだ。そうして石階段へと進んでいく。
音無の知る犬上という男は、嘘が下手というか、嘘が下手なくせに無駄な嘘を吐く男だ。それはたとえば、白河六花のことが話題に出るたびに「好きだというわけではない」などと言うことからわかっていた。
だから音無を逃がそうとするためのこの言葉も、嘘だと思った。
石階段を降りていく。音を可能な限り立てず、しかし急いで。
「犬上さん、でも……白河さんはどうするんですか? いくら小さいとはいっても、銃を持ってうろついているだなんて、誰かに発見されたら……」
「あの人は、おれが、おれが………」
石段を降りる。左手に山を登る方向のトンネル、右手に坂を降りていく道。坂のいちばん下には、警察署があったはずだ。警察に駆け込むかどうかはともかく、少なくとも安全地帯ではある。人里だ。
だがそちらに向けて歩き始める前に、静かな——しかしよく通る女の声が音無たちの足を凍らせた。
「止まれ、動くな」
石段の上から、白河六花が銃口を向けていた。
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