第22話 記憶喪失の男、己の罪を思い出すこと
何も、何も無かった。
与えられるものはいくらでもあった。家庭環境が悪かったわけではない。学校で虐げられていたわけでもない。ただ、何も無かった。大学に入れば変わるかもしれないという期待があった。希望があった。だが変わらなかった。当たり前だ。自分はこれまで努力をしてこなかった——社会生活に適応するための努力を。やはり何も無かったのだ。
たとえば、音無春邦は他人の名前を覚えるのが苦手だった。大して交流がない人間、たとえばクラスメイトだとか、それだけの関係性の相手の名前を覚えることなど、簡単ではない。だから覚えられなくても仕方がない——そんなふうに考えていた。
だがこんな話を聞いたことがある。それは二年生のとき、一般教養のキャンパスで、物理Cの熱力学の講義が始まる前の時間帯だった。後ろの席にいる男子学生が言った。おまえは何を見ているのだ、と。
もちろんその言葉は音無に向けられたものではない。彼は隣の席の男子学生——おそらくは友人の、男子学生に向けて問いかけたのだ。尋ねられたほうは答えた。集合写真だ、と。
続くやり取りから、彼らふたりが同じサークルに所属していることは知れた。そしてその集合写真は、今年入学してきた一年生が新たにサークルに所属したあとに撮影された集合写真らしい。
ではなぜそんなものを見ているのか、気になる女子でもいたか、と質問をするほうが訊いた。するとこんな答えが返ってきた。
「名前を覚えるために見直している」
曰く、彼は他人の名前を覚えるのが苦手なので、サークル活動で一年生と会話をするときに支障がないように、集合写真の顔と名簿を見比べて名前を覚えられるようにしているのだという。
もうひとりは笑っていた。おまえは真面目すぎる、と言って。
実際、彼の行為は真面目すぎる。ほとんどの人間はそんな過剰な努力などせずに他人の名前を覚えるのだろう。だが、彼はそれができないことを自覚して、克服しようとしていた。音無はそんなことをしなかったし、しようともしなかった。そういった努力方法があるとわかってからも、しなかった。
結局、自分は他人に興味がないのだろう。にもかかわらず、孤立していることが厭だった。何もせずに他人に好いてもらおうとしてもらっていた。
そうした自己への理解があってから、音無は他人を犯そうと思った。どうせ好いてもらうことがない女に。
「うわぁああッ!」
そんな叫び声で、音無は現実に引き戻された。現実。現在。自分。そう、叫び声をあげたのは自分だ——いや、自分ではない。違う。そうではない。声を発しているのは音無の口であり、音無の舌であり、音無の喉であるのだが、自分は目の前の女性には会ったことがないはずなのだ。だから、この女性——白河六花に対して恐怖を感じることなどありえないはずなのだ。
だが、だが……音無の身体は、脳は、記憶は、この女性を知っているのだ。
髪が短くなった。痩せた。腹だけが出ているようになった……それでも、顔は変わらない。額に傷跡がある以外には。顔を見て、思い出してしまったのだ。銃でこの女性の頭を撃ち、そして犯したこと。そしてそのあとに起きた出来事を。
眼前に突きつけられたのは、黒い塊だった。小柄な女性の小さな手に収まるほどの小さな小さな銃。デリンジャー。
今度は自分が撃たれるのだ、と音無は思った。筒の中は暗く、暗く、ただ暗かった。目を瞑ると、世界はもっと暗くなった。
暗い世界には、しかしいつまで経っても死の影は落ちなかった。音無は目を開けた。目の前には大柄な、見覚えのある男の背中があった。
「白河さん……」
と落ち着いた声で犬上が声をかけた。
「白河さん、落ち着いてください。深呼吸をして、それからおれの手を握ってください——ゆっくりと、そう……そうです——」
間に割り込んできた犬上の落ち着いた声は、しかし「痛ぇ」という単純な声の響きだけで中断された。遮ったのは犬上自身だ。何が起きているのか、犬上の背中のせいで前が見えないため、音無にはよくわからなかった。だが彼が身を捩ったため、視界が開けた。犬上は差し出した手を……いや、小指を握られ、白河に捻られていた。
犬上がいくら屈強な刑事であり、白河が小柄な女であるとしても、小指と握り拳だ。音は聞こえなかった。だが、白河は犬上の指を全力で捻ったのだ。折れていてもおかしくはないだろう。実際、刑事の表情は苦悶に歪んでいた。彼は握られているのとは逆の自由なほうの腕を振り上げかけて、止まった。ゆっくりと己の指を握る白河の手に重ねる。
「白河さん、やめてください」
犬上の声は震えていた。彼はゆっくりと、未だ指を締め付け続ける小さな手を掴み、引き剥がした。その試みは成功したが、それはおそらくは、白河の注意が別のところへ動いたからだろう。最初の目的である、音無に、だ。
音無は、たった今思い出した自分のかつての行為が信じられなかった。してはならないことをした。犯罪行為をした。情の訴えるがままに、何の罪もない女性に怪我をさせ……あまつさえ犯した。そのうえ、そのうえ……そのためにとんでもない事件の原因となってしまった。だから、罰を受けるべきだと、己の罪を自覚した。
それなのに、それなのに——音無は逃げ出してしまった。犬上の大きな背中に隠れて、彼が目隠しになっている間に、彼の指が折られている間に、音無は膝をつき、四つん這いになって、大学の憩い公園から逃げ出そうと試みた。
「音無ぃ!」
犬上の叫び声が闇夜に響く。彼の駆ける音が聞こえる。彼はすぐに追いついてくるだろう。だが恐ろしいのは刑事の彼ではない。デリンジャーの引金が引かれたことで、ダブルアクションの第一段階として撃鉄が起こされる音が暗闇の中に響いた。
このっ、という犬上の声と、風を切るような音、そのすぐあとに白河の小さな叫び声が耳を打った。だが音無は後ろを振り返らなかった。四つん這いからどうにか立ち上がり、駆け出した。逃げる——逃げるために。
大学の憩い公園は周囲より少し高い場所にあり、柵で取り囲まれている。柵の見た目は木だが、触った感覚はプラスチックのように艶やかだ。木製に似せたイミテーションなのか、表面に何か塗ってあるために硬く感じるのかはわからない。なんにしても、素材など関係ない。腰ほどの高さの柵だ。超えるのは難しくはない。だが音無は混乱していたうえに足元が覚束なく、日頃は簡単に跨げそうな柵を超えるという発想が出てこなかった。出入り口は三つだ。ひとつは薬学部方面への道だが、これは白河がいる方向で、実質的に彼女によって防がれているといっても良い。ふたつめは大学生協のほうへ向かう道で、そのまま表入り口を通って大学の敷地内へと出ることができる。だがどちらへ進んでいるかもわからないままに音無が向かっていたのは第三の道で、木々の間の舗装された小道を抜けて階段を降りると、講義棟や金属加工工場の裏手に出た。金属加工工場の横には錆びた金属階段があり、登れば加工場前の小さな駐車場に出て、その横の石階段から大学の敷地外へと出られるはずだ。ようやくまともに動くようになってきた足を忙しなく動かし、金属階段を登り切る。
天頂から月が見下ろしていた。
講義棟や加工場の影になって見えていなかった月を見て、音無は改めて実感した。音無は、音無は……してはいけないことをした。犯罪者だ。許されざることをした。それを思い出した。記憶はすでにある程度戻ってはいたが、今思い出したのは道徳だ。白河が殺そうとするのも当然だ——そう思うと、逃げようとしていた自分が罪深く感じた。自分は、相応の罪を受けるべきだ……たとえ、たとえ、己の仕出かしていないことさえも罪として被せられるとしても。
肩を力強く掴まれた。音無は覚悟を決めた。
「おい、何をぼけっとしていやがる」
だが音無を振り返らせて力強く声をかけてきたのは、予想していた小柄な女とは似ても似つかない屈強な大男だった。犬上刑事だ。彼は憩い公園を一瞥し、舌打ちするや音無をほとんど引きずるようにして、金属加工場の陰に入った。
「声を出すなよ」
言われなくても、犬上の大きな掌が口を覆うのだから、喋ることができない——いや、彼の手がなくても、音無は声を発せなかったかもしれない。
目の前で、幽鬼のような、いや、餓鬼のような女がふらふらと歩いていた。彼女は片手に小さな小さな——かつて彼女自身を貫いた銃を持ち、大学から出る裏の石階段を見下ろした。そして誰も見つからないとわかるや、背を向けて去っていく。音無を探すために。
「行ったか………」
白河が見えなくなり、さらに少し時間が経ってから、ようやく犬上の掌が離れた。彼の手が大きすぎて、鼻も半ば塞いでいたため、呼吸困難になりかけていた音無はようやくそれで十分に息が吸えるようになった。
「犬上さん……いったい何を——」
「何をじゃねぇだろ。おまえ、事態がわかってんのか? 白河さんが何持ってたかわかってないのか? くそ、ぼうっとしたやつだな、銃だぞ、銃……いや、あんだけびびってたから、わかっているんだよな。わかっているんだったら、逃げるぞ。いつ戻ってくるかわからん」
「逃げません。おれは」おれは——と音無は躊躇った。逃げるか留まるかの決断をするよりも、もっと。目の前の刑事は、唯一の友人だ。だが、すぐに彼にも知れることだ。「おれは、おれが、おれが……犯人です。半年前に白河さんを銃で撃ち、強姦したのはおれです」
犬上の顔には驚愕の色が浮かんでいた。だが、彼の返す言葉は音無が想像していたものとは少し違っていた。
「おまえ、記憶が戻ったのか」
何を馬鹿な、だとか、どういうことだ、だとかではなく、音無の言葉を疑わずに記憶に戻ったことだけを言及した。それはつまり……「犬上さん、知っていたんですか」
「ああ………」犬上は俯きがちに応えた。「おまえの部屋で日記を見つけた。直接的に犯行が示唆されているわけではなかったが、日付や銃の存在の示唆があって、だから、そうだろうとは思っていた」
日記。そんなもの、昔の音無春邦はつけていたのか。知らなかった。少し笑えてくる。昔の自分は、日記をつけるような几帳面な人間だったというわけだ。事件当夜と事件に関連した記憶は戻った音無だったが、それ以前の出来事に関してはほとんど断片的にしか記憶が戻っていないため、かつての音無春邦のことは気にならないでもない。
(ま、いいか)
終わったことだ——これから終わることだ。たいして追求する気にもならない。
だが犬上はそれで終わりにしようとはしなかった。
「なんであんなことをした? なんで、あんな事件を起こした?」
「わかりません。たぶん、ただ……ただ、白河さんが手近だったというだけなのでしょう。それだけのことだったのでしょう」
音無はつい他人事のように言ってしまった。
「それで……」犬上の声は怒りを孕んでいた。「そんな理由で、あの人を暴行して、そのうえ人を殺したのか!?」
「おれは殺してなんていません」
つい言ってしまったのは、相手が犬上だったせいだろうか。どうせ死ぬ身であれば、どんな罪でも被っても良かろうと思っていたのに、彼に誤解されたまま死にたくはないと思ってしまった。言わなくてもよかった。言わないで、それで、他の人が幸せになるなら、それで、と。そんなふうに思っていたはずなのに。
「白河さんか」
だが犬上はやはり、音無が想定していなかったことを言った。真実を言い当てた。
「それも日記に書いてあったんですか?」
「いや、でも……」犬上は少し躊躇いがちに言った。「そんな気がした」
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