第21話 新米刑事、己をそれと知らぬままに挑むような目つきの女をストーキングすること

 二十三時過ぎだ。時刻だ。時刻は——まだ人によっては宵の口だろう。犬上の場合、残業等で遅くならなければ、この時間にはもう鼾をかいているのだが、一般的にはまだ灯りを点けている住宅が多い時間帯であるといえるだろう。


 車がすれ違うのに苦労する幅の奥まった細道から、アパートの二階の部屋を眺める。白河六花の部屋は何度か訪れたことがあるので知っている——もちろん中にまでは入ったことはないが。彼女の部屋も、カーテンの隙間から灯りが漏れているのが見えた。まだ起きているのだろう。だがもう寝るかもしれない。眠るのが確認できるまで、ここで立っていようか、などと思いながら、犬上は左右を確認する。いちおう交差点には街灯があるのだが、基本的には暗い通りだ。それでもくすんでいるとはいえ白のワイシャツは十分に闇夜に溶け込んでいるとはいえず、不審に見えるかもしれない。こういうとき、煙草でも吸うのであればうまい具合に不審さを誤魔化せるのだが、煙草は身体に悪影響を与えると思っているので犬上はやらない。肺や呼吸器への影響もさることながら、何よりも依存性があり生活習慣に悪影響があるのがいけない。

 ともかくとして、それが現状だ。男がじっとアパートの一室を外から眺めているのだから、不審だろう。警邏中にこんな男がいたら、職務質問をしているかもしれない。まるでストーカーだ。いや、自分は白河に不逞行為を働こうとしているわけではなく、単に眺めたいから眺めているわけで、しかも本人に気づかれることなく、本人そのものではなく部屋を外から見ているだけなのだが、しかしそれは言い訳にはならないだろうな、と思う。一昔前ならともかく、現代なら立件されたら、間違いなく豚箱行きだ——そんなふうに考えながらも、犬上は動かなかった。近隣のアパートの物件広告が貼られた電信柱に背中を預け、ポケットに手を突っ込もうとした。そのとき腕に硬いものが触れて、手錠を持ったまま警察署を出てきてしまったことに気づいた。手錠だけではない。警棒と拳銃もだ。やってしまった。発覚しないうちに警務課に戻さなければ、反省文だけではすまない。訓告と減俸だ。

 焦っていると、白河のカーテンの端から漏れる灯りがふっと消えた。もう寝るのだろう。これで署に戻れる——となぜか白河の部屋を見守り続けることを義務のように感じていた犬上が電信柱から背を離したときだった。ドアが開く音がして、アパートの白河の部屋の玄関の扉が開いた。犬上は反射的に電信柱の影に身を隠した。


 玄関の灯りで扉から出てきたのが誰かははっきりと見えた。白河六花だ。ほかの誰でもない。灯りを消したのは寝るためではなく、外に出かけるためだったか。だがこんな夜に、どこへ出かけるのだろう。明日の朝食でも買うために、コンビニにでも行くのだろうか?

 階段を降りてきた白河は、そのままアパートを出て、犬上がいる方向とは逆に歩いていってしまった。電信柱は犬上の体格を完全に隠すには小さかった気がするが、どうやら気づかれなかったらしい。それだけ彼女が前だけを見て、真っ直ぐに歩いていたせいかもしれない。いつもよりも小走りで、慌ただしい様子に見えた。

 犬上はそっとあとを追った。

 白河の格好はパジャマではない。ワンピースだ。妊婦用のマタニティドレスかもしれない。今日の午前中に着ていた服とは違う。会うときはほとんど運動着なので、彼女の普段着を見る機会は少なく、だからそれが見たことがない服であるということはわかった。

 駐在勤務の頃、夜目が利くと言われたことがある。そのときは、若いからだと言われたが、たぶん豚肉を食べているせいだ。肉は好きだが、鶏や牛だけではいけない。豚肉はビタミンが豊富で、だから機会があれば積極的に摂取している。そのおかげだ。だから暗がりの道で距離を取っていても、白河を見失う心配はなかった。


(大学か………?)

 白河の進んでいく方向は、明らかに最近隣のコンビニの方角ではなかった。ではどこに向かっているのかと考えてみると、夜に会えるほどに親しい友人が近くにいるだとかでなければ、大学くらいだろう。彼女が最近復学の準備をしているというT大学大学院の理学研究科のキャンパスは、白河の進んでいく方向にある。距離も彼女の家から徒歩圏内で、この歩く速度なら十五分程度で到着するくらいだ。だが、なぜ深夜に大学に行くのだろう。夜に行動する理由があるとすれば、ほかに時間がなかったからか、誰かの都合に合わせるためか、でなければ、人に見られたくない理由があるから、だ。

 なんにせよ、夜道に白河のような女性がひとりで歩くのは危険である。見守ってやる必要があるだろう。自分がいて良かった、と犬上は心底思った。

 大柄な体格であれば、尾行には向かない。しかし暗がりであれば、日頃は苦手なものもなんとかなった。このまま近づいて、白河に話しかけることさえもできるかもしれない、とまで思う。気が大きくなっているのは、まだ酔いが残っている証左だろうか。


 予想通り、白河が用事があるのは大学らしかった。T大学は市内に六つのキャンパスを持っており、ふたつある工学部のうちのひとつと農学部、医学部のキャンパスは街中に近い場所にあるが、理学部および大学院理学研究科のキャンパスは人口密集地からはやや離れた、標高二百メートルほどの小高い山の上にある。バスや地下鉄が通じているのでそれほど不自由はないらしいが、原付やバイクを使う学生も多い、と白河から聞いた覚えがある。どの交通手段を用いるにせよ、通常は管理棟のある南側の入り口から入る。地下鉄の駅やバス停があるのが南側であるうえ、他の入り口は階段になっているため、車両やバイクは入れないからだ。だが徒歩の白河はキャンパス裏手の北側の階段を上がり、大学の敷地内へと入っていった。

 天頂の月によって照らされていて、白河の背は光って見えた。最近になって雪滑防止のために中に融雪機構が組み込まれたという石階段を登って行くと、左手に小さな建物が、右手には複数の背の高い建築物が立っていた。左手の建物は金属加工や機械工作のための工場だということを、以前に音無の身元照会のために訪れたときに聞いた覚えがある。右手の複数の建物は、講義や研究を行うための主研究棟だ。

 工場のほうには灯りは点いてはいなかったが、八階まである研究棟はいくつかの部屋がまだ明るかった。土曜であれば休日のはずで、でなくとも時間が時間だ。それでも研究を続けているのか。いるのは学生だろうか、それとも教授か。そこまで没頭するほど、研究というのは楽しいものなのだろうか。

「たぶん、そういう人もいるんだと思いますよ」

 と昼に食事を共にしたときに、白河とそんな会話をしたことを思い出す。白河が大学院に復学しようとしているという話をしているときに出た話題だった。


「正確には、復学は……しないかもしれませんけどね、いろいろ」と白河は一度言葉を切ってから視線を下げて言ったものだ。「いろいろ……ありますし」

 いろいろ、というのは、主に子どものことだろう。腹は彼女のことを知らぬ者でも、その状態を知れるほどに大きくなっている。現在でも日常生活に支障はあるだろうが、子どもが産まれてしまうと生活への影響はもっと変化するに違いない。大学には子どもを預けるための設備もあるらしいが、それがあるからなんでも任せられるというわけにもいくまい。

「ただ、大学院は、特に博士課程になると授業がまったくといってないというのも珍しくはないんです。することといえば、研究と、論文を書くのと、あとは発表ですね。だから、お腹はこうで大学に通うのは難しいでしょうけど、論文くらいは出せたらな、って思って……論文を出して博士号を取る制度もありますし」

「やっぱり研究が楽しいんですか?」

 と犬上は昼に己がした質問を思い出す。それだけ研究をして論文を書いたりしたいのであれば、そういうことなのだろう、では馬鹿馬鹿しいことを訊いてしまったかな、と思いながら。たいてい、ドラマだとかの創作物では、研究者は研究をするのがとにかく楽しいものだと相場が決まっている。何か新しいことを思いついたりすると、地面や壁に数式を書き始めるのだ。犬上としては、勉強の何が楽しいのか、さっぱりわからないのだが。

 しかし予想に反して白河は「うーん、どうでしょう」と首を傾げた。

「違うんですか?」

「えっと、犬上さんが言ったみたいに、研究がすごく楽しい、って思っている人もいっぱいいると思いますよ。というか、むしろそっちのほうが多いんでしょうね。研究って理不尽なことも多いのし、お給料もさほどでもないのに、それでもやろうという人がたくさんいるんですから。でも……わたしにとっては違うかもしれません」

「じゃあ、どういうものなんですか?」

「なんでしょう、えっと……」白河の可愛らしい眉が悩ましげに寄せられた。「編み物みたいなものかもしれないですね。その、何か考えながら手を動かして、何かしら成果物ができる、という……それが………」

 犬上が、理解できない、とでもいうような表情をしているのが伝わったのだろう。そのときに考えていたのは、白河は編み物をするのか、ならばマフラーだの手袋だのを編んでくれたりもするのだろうか、ということだった。女性がちまちまと編み棒を握って毛糸を紡いでいく情景は、尊いもののように感じた。

「他の喩えだと……うーん、マラソンとかですかね。わたしはやりませんが。マラソン、やっている途中で、ああ、すごく楽しいな、面白いな、と思ったりすることってないと思うんですよね。趣味でやっている人でも。ただ、全体を通すと、まぁ、やる気になる何かがあるというか……ある意味、できるから惰性でやっているのかもしれません」


 そんな会話だった。しかし、惰性でやるにしては、ずいぶんと頑張るものだ——と研究棟の四階の明かりの灯る部屋の中の顔も知らない人物のことを思い浮かべた。あるいはそこにいる人物は、犬上が最初に考えたような、とにかく研究が好き、勉強が好き、といった人種なのだろうか。

 そんなことを考えて想いを馳せていたため、白河のことをうっかり見失いそうになった。闇の中、目を凝らして周囲を見渡すと白河の姿が見つかる。棟内にはともかく、外を出歩いている人間はほとんどいないらしく、一度見つければそうそう見失う心配はなかった。白河は研究棟には入って行かず、大学のメインゲートのある南方向へと歩いて行く。左右に少し背の低い研究棟がいくつもあるのだが、それらには目もくれない。

(大学に用事があるんじゃないのか?)

 そんなふうに訝しんでいたとき、大学敷地内に出入りするための遮断機の手前で、白河は道を曲がった。その先は大学生協があり、奥には大学図書館があったはずだ。生協はもちろん夜には閉店しているわけだが、大学の図書館というものは夜でも開いているのだろうか? 白河は何か調べ物をするために、図書館を訪れたのだろうか?

 だが彼女はさらに道を曲がった。その先は、だだっぴろい敷地がある。野球やサッカーをするには不十分だが、ドッチボールやバレーをするには十分な広さがあるその場所は、大学内の公園だ。もちろん遊具があるわけではないが、芝のところどころにベンチが置かれており、雨風がしのげる程度の小さな小屋のような建物もある。


 そしてその小屋の中に、何かがいた。


 犬上は全身が硬直するのを感じた。そこにいた何かは、人間だ。男だ。距離と闇で顔までは判別できずとも、おおよその体格と性別くらいはわかる。子どものように小さくはない。老人のように腰が曲がってはいない。若い男だ。その男を見つけても、白河は驚いて足を止めたりはしない。むしろ足早に近づいて行く。

 足から力が抜け、犬上はほとんど崩れるように近くの木の手摺りに縋り付いた。夜だ。真夜中だ。そこで男に会いに行く若い女性の姿を見て、何も感じないほど鈍くはない。白河は——ほとんど犬上に笑顔を向けてくれることはなかったが——可愛らしい女性だ。それで、だから、恋人が死んで間もないとはいえ——あるいはその恋人に問題があったからこそ——既に新たな恋人がいても何もおかしくはないではないか。それなのに、おれは、いったい何をやっていたのだろう。涙がぼろぼろと溢れるだけではなく、嘔吐感に近いほどの嫌悪感を感じる。精神的なショックだけで吐いてしまいそうだ。支えを持っていても立っていられなくなって、膝から芝の上に崩れ落ちる。


「あ………」

 男の小さな呟きを、犬上の鋭敏な聴覚が捉えた。


 その呟きが、うわあぁあ、という叫び声に変わった瞬間に動けたのは、ほとんど職業病といっても良かった。声から感じたのは、ただ一色の恐怖。事件の発生を告げるその声に、犬上の中の警察官の部分が反応した。

 いったい何が起きたのか。立ち上がって白河と男のもとへと駆け寄ろうとした犬上は、ふたつの事実に気づいた。


 ひとつは、腰を抜かして恐怖に目を見開き、対面する白河を見ているのが音無春邦だということ。


 もうひとつは、へたり込む音無を見下ろす白河の手に、小さな小さな銃が——彼女の額をかつて撃ち抜いたデリンジャーが握られていること。

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