第20話 新米刑事、銃を持ったまま夜を彷徨うこと
身体が重く感じるのは酔いが残っているからというわけではない。白瀬署警務部の管理室で受け取った手錠、警棒、そして拳銃の重みのせいだ。物理的にはそう大した重さではない。精神的なものだ。
交番勤務であった頃は当たり前のように携帯していたそれらの品々は、白瀬署の刑事となってからはぐっと重く感じるようになっていた。交番勤務の頃は、何が起きるかわからないわけで、つまり、いつどこで何が起きても良いように、咄嗟に目の前で起きた事件に対応するために銃を持っていたわけだ。だが実際に起きた事件は数が少なく、凶悪なものはなかった。所轄署の刑事課に配属されてからの事件のほうが危険度が高かったものだ。
刑事になってからの仕事である捜査は、事件があるという前提で行われるものだ。それは派出所警官時代とはまったく違っていた。警官時代の事件というのはいわば天災のようなもので、もちろん事件や事故を起こすのは人なのだが、いつどのような状況で起きるのかわからないと思えば自然災害と似たようなものだった。刑事の捜査は、違う。明確に敵がいる。捕まえるべき相手が。倒すべき相手が。そして銃把を握る。
「大丈夫か」
と言ったのは隣で車両を運転する牛草刑事だった。先輩刑事である彼がハンドルを握っているからには、犬上が酒を飲んでいるということは知っている。それでも夜中に呼び出されて出動することになったのは、隣県で起きた殺人事件で指名手配されたばかりの犯人の目撃情報があったからだ。しかし犬上はその事件を知らない。
「昨晩から未明にかけての事件だからな。指名手配もされたばかりだ。知らんか」
つまり、犬上が翌日の白河との待ち合わせに悶々としていた頃に起きた事件というわけだ。今日も朝からニュースなどは確認しなかったので、さもありなん。
「どういう事件で、指名手配されているのはどういう男なんですか?」
「男じゃねぇ」
と牛草は吐き捨てるように言った。
彼が先輩刑事として犬上のパートナーになってからは二ヶ月以上が経ったが、このダミ声の中年刑事が存外にフェミニストであるということがわかってきていた。もちろん女であればすべてに傅くというほどではないわけで、すなわちこういった態度に出るということは、その犯人の女に幾分か同情する部分があったということだろう。
「まぁ、そうかもしれんな」
と牛草は頷いてから端的に説明するところでは、暴力を振るわれてきた妻が夫を刺し殺したのだという。子どもだけではなく、その暴力は赤子にも届いていたのだという。止むに止まれぬ犯行らしいのだという。
「それで、子どもを連れたまま逃走ですか……」
「まだ一歳児だ。何をするにも手間がかかる。すぐ腹も空かせるし、おしめもいる。動かしゃ泣くだろうし、簡単じゃない」
と牛草は子どもを育てた経験があるらしいことを言った。
「それで、犯人の目撃情報というのは?」
「市内のアパートだ。そこの管理人から、似たような女を見たという通報。今日の入居者でな、夜になってニュースを見て指名手配されている女と顔が似ていたので警察に連絡してきた。ただ、子どもは連れていなかったそうだから、単なる他人の空似かもしれないが」
そうであればいい、とまでは言ってはいなかったが、そのような思いが聞こえてきそうな牛草の言い方だった。
一度無言になると、沈黙はなかなか破れない。無線機を置いているため、ラジオや音楽をかけたりはしない。エンジン音だけ響かせて車は走る。
「こういう場合は、正当防衛なんですかね?」
しばらくしてから、犬上は訊いた。思い浮かべていたのは白河六花のことだった。彼女も、夫——いや、夫ではないが、恋人には手酷く扱われていると聞いた。殺してやりたいと言っていたと、彼女の元同僚は教えてくれた。ならば、もし——。
(もし、なんだ?)
白河の恋人を殺した犯人は、音無だ。そのはずだ。犬上はそう思っている。そう思っているが——。
「殺してやりたいって言ってたから」
そう言った女の名はなんだっただろうか。忘れた。名前は忘れたが、事件の日の白河の様子を語ってくれたのは彼女のアルバイト先の同僚だった女だ。妊娠が発覚して、それなのに、堕ろせと言われたのだ。それで彼女は——初めて恋人に対して怒りを示したらしい。
いや、だが、殺してやりたいと言ったからといって、彼女が殺したなどと考えるのは馬鹿馬鹿しいことだ。なにせ、白河は撃たれているのだ。なにせ、音無の部屋で犯行を示唆するノートが見つかっているのだ。なにせ、なにせ……彼女がそんなことするはずがないではないか!
「DVの度合いによるだろうな。そのあたりのことは今、向こうの所轄が調べてはいるようだが………」
牛草の声で我に戻る。
車は既に目的のアパートの近くに到着していた。時刻はまだ二十一時を回ったところで、寝静まるにはまだ早い。実際、二階建ての安アパートの目的の部屋の窓は明るかった。
念のためにと犬上はアパートの裏手に回り込む。目的の部屋は二階だ。ベランダから簡単に逃げられてしまう。正面から訪ねるのは威圧感を与えにくい牛草であり、犬上は緊急事態に備えて牛草の行動を耳だけで追った。
「犬上」
牛草が二階に上がり、インターホンを押して扉が開く音がしたあと、いくつかの会話があり、その後に名が呼ばれた。焦りのある色ではなかった。小走りに外付けの階段を登り、二階に上がると、廊下の突き当たりの部屋の前で牛草が首を部屋の中へと動かした。確認せよということだろう。
奥の部屋の前まで行って扉の中を確認する。牛草に応対している女は、車中で確認した指名手配犯の女と年恰好は確かに似てはいたが、写真とは顔が明らかに違った。別人だ。どうやら、人違いらしい。犬上は牛草に首を振って返した。
「どうも、夜分遅くに失礼いたしました」
と慇懃に礼をする牛草とともに、犬上はアパートを出た。車に乗り込む。
「良かったですね」
「何がだ」
「そりゃあ——」
犯人じゃなくて、と言いかけて、犬上は己の言いたかったことを見つめ直した。
犬上たちは刑事で、事件を捜査し、犯人を捕まえるのが仕事だ。もしその捜査が行き届かず、事件を解決に導けなかったり、あるいは犯人を取り逃がして新たな犠牲者を生み出してしまったとすれば、大きな失態だ。だが今回のように、目撃者による通報が正しくなかっただけで、犯人を取り逃がしたわけではない場合、それは特段の悪いことではないのだが、もちろん良いことでもない。無駄足だ。
では何が良かったかといえば、つまりは犬上らが刑事であることとは直接関係がなく、犯人のことだ。捕まらなくて良かったと、自分たちに逮捕されなくて良かったと、つまりそういうことだ。夫から暴行を受けていた犯人を逮捕するというのは、したくはないことだったのだ。女は犯罪者で、しかし、悪人かというと——いや、善人だなどとは断じることはできない。目の前で暴力が振るわれている状況であれば悪人ならわかるが、止むに止まれぬ理由で罪を犯した人間を善人とも断じることはできない。
だがやはり、逮捕したい相手ではないことは確かだ。
「やっぱり酔ってるんじゃねぇか」
言い淀む犬上に、牛草はそんなふうに言った。
「そうかな………」
我ながらよくわからなくなって、頭を掻く。その様子を見た牛草は、先に帰れ、と言ってきた。もう署の駐車場に戻ってきていた。
「報告書はおれが上げておく」
「はぁ、じゃあ、また」
犬上はふらふらと警察署を出た——警棒と手錠、それに拳銃を署の警務課に戻さないままであることはしばらく気づかなかった。
空を見上げて、犬上はふと白河のところに行ってみようという気になった。
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