第19話 新米刑事、記憶喪失の男の行動について疑問を持つこと
音無とは店を出てすぐのところの地下鉄の駅で別れた。
徐々に暑さが逃げにくくなっている夜の下を潜りながら、改めて月に照らして音無の文字を眺めた。いまの、音無の文字だ。酔ってはいたが、字はしっかりしている。跳ねや払いにやや力は入ってはいるものの、伸びやかで、少し形はいい加減な字だ。あいつらしい。
一方で、音無の部屋で見つけた日記らしいノートに書かれた字はどうだろう。何度も何度も内容を見返したノートなので、目を瞑ればすぐに思い出せる。筆圧がやけに強く、直線的な字は神経質さを思わせる字だった。
まるきり違う。
まるきり違う人間の字だ。
(やはり、音無は違う)
音無は以前とは違う人間になっている。それは筆跡からもわかる——犬上は専門家ではないが、そう思った。確信を持って言える。さらに言えば、素人が無理矢理変わった字を書こうとしてできたものではない。一時期、偽の捜査令状を作ろうとして令状の印字された字を真似た経験のある犬上には、いつもと違う字を書こうとすることの難しさを身を以て理解していた。一、二文字程度なら偽の筆跡を作ることは容易だが、書いていくうちに素の字体が入り混じって来るため、どこかで筆跡が変わってくるものだ。この日記には、それがない。ひとりの人間が書き続けたものだ。音無が。かつての音無が。
問題は、だから、犬上がこれからどうするか、だ。犬上と——白河が、だ。
進学するというからには、音無は白瀬市に残るということだろう。大学院に進んで少しは引っ越ししたりはするかもしれないが、少なくとも同じ県内だろうし、大学に通いやすい場所となれば選択肢は限られる。
とすれば、白瀬署の刑事として働く犬上と行動範囲が被るということだ。いや、犬上は、いい。友人だからだ。
だが白河六花とも重なるとすれば、いつかは彼女に会ってしまうだろう。
「見れば思い出すはずなんです」
六花はそう言った——犯人の顔を見れば、必ずや思い出す、と。
彼女のその発想は理解できなくもないが、根拠はまったくないものだ。それなのに、犬上はその言葉を信じずにはいられない——いや、可能性が少しでもあると思えば危惧してしまっているだけか。実際、忘れかけていたことをそれに関係した物を見ることで思い出すということはよくあるものだ。雲の形が似ていたから冷蔵庫の中のプリンの存在を思い出したりだとか。だから、怖い。六花が音無に会ってしまうことが。音無という存在が、六花の中で何かしらの反応を作ってしまうことが。
「そこに何かがあるから、反応が返って来る」
それは音無が飲み屋で言っていた言葉だ。そう、研究の話だった。空に打ち上げたレーザーの光が戻ってくるというのは、そこに何かがあるからだ——反応があるのは、何かがあるからだ。
(音無は、なぜ首を吊っていたのだろう)
ふと犬上はそんなことを思った。四月——初めて彼に出会ったとき、記憶を失っていた彼の首には縄目があった。診せた医者も、自殺未遂の可能性を示唆していた。その結果として記憶に障害が出たのかも、と。
首を吊った。つまりそれが反応だ。
ではそれは、何に対する反応なのか。
なぜ首を吊ろうと思ったのか。
しかも首吊りの場所は自宅ではなかった。
それらは、日記の主がかつての音無であり彼が事件の犯人であるとした場合の大きな障害となる疑問だ。
もちろん、ある程度理由は想像することができる。人を殺したのだ。犯したのだ。罪も、女も。衝動的な行為にしろ、計画的な犯行にしろ、あとあとになって罪が発覚して逮捕されることを恐れて自殺したと、しかもそれが衝動的で、外に出ているときにふと思い立って近くにあったもので即座に実行したのだ、とそんなふうに考えることは可能だ。
だがそれならば事件の直後、あるいはその数日後に決心してしかるべきではないだろうかと思わずにはいられないのだ。なにせ事件が起きたのは一月で、音無が記憶を失い首に縄目をつけて彷徨っていたのは四月の頭だ。三ヶ月も間が空いている。
決心に時間がかかったという可能性はないではないが、逆に三ヶ月も何事もなく過ごせたのであれば、事件は誰にも発覚しなかったと考えて——新聞などで頭を撃たれた白河が生きていたことは悟り、自分のことを警察に知られたとは思ったとしても、それだけの期間音沙汰がなければ、犯人の顔に関する記憶を失っているということにはたどり着けないにしても、むしろ安心しても良さそうなものだ。
音無の日記——彼が記憶を失う以前の——を見返してみても、記録は事件前夜で途切れてしまっているせいで、その心情は陽と知れない。しかし、それまで定期的につけていた日記をつけなくなったのだから、何らかの心情の変化はあったのだろうと想像することはできる。
良心が咎めたのだろうか?
自分のしでかした行為を、あとあとになって後悔したのだろうか——三ヶ月も経って?
いや、そうか、音無は六花のことを見たのかもしれない。彼女は犯人を捜そうとして、街中を歩き回ったのだという。ならば、その姿を見つけて、自分はなんてことをしてしまったのだろうと、そんなふうに後悔してもおかしくはないではないか。
ひとまずそんなところで己を納得させ頭を切り替えたのは、がらがらで客にほとんどいない電車が警察寮最寄りの駅に到着したからだ。冷房で冷やされた列車の外に出ると、むんとした夏の夜の熱気を感じ、昼の日差しを思い出した。白河との時間を。明日は日曜日で、また白河に会える。彼女の週に一度の護身術教室は途切れることなく続いていた——意外なことに。正直言えば、あのか細い腕の女が真面目に筋力トレーニングを続け、護身術に一定の意味を持つことができるようになるとは思っていなかった。まだ腕はか細いが、指の動かし方くらいは心得ている。ただの非力な女ではない。
この日曜の営みは、護身術を実際に使うかどうかといえば無駄になるだろう。だが犬上の意図としては、あのちびで痩せこけた、それなのに目だけは見下すような女が運動を通してまともな生活に戻って欲しいと、そんな想いで——それは通じていると犬上は信じている。少なくとも、白河があの頃に犬上に向けていた視線と、いまの視線は、明確に違う。
最近は彼女の腹がそれと知らない者が見ても明確にわかるように目立つようになってきていて、母子の健康状態を考えるとトレーニングの手法を変えなければいけなくなっている。すでにそれは実践してはいるが、最大限に安全を払うとなれば毎回確認してもしすぎるということはないだろう。帰ったら明日に一度備えよう。そんなふうに考えながら警察寮への道を歩いていたときだった。携帯電話の音が鳴り響いた——市内を貫く川を渡す橋の上、ときおり自転車や車が通るだけで通行人の姿はほとんどなかったので、他人の携帯電話の着信音と誤解することはなかった。
『犬上か』
という電話口の先の低い声の主は、犬上の勤める白瀬署刑事課捜査第一係の係長のものだった。平時は感情が判別しにくい声色と喋り方の男であるが、此度は幾分機嫌が悪いことがわかった——土曜の夜に緊急で連絡が入ったのだろう。そしてその連絡を犬上も受けることになったというわけだ。
確認せずに電話に出てしまったのは失敗だったか——と思わないでもないが、刑事という勤め人である以上、意図的にこの連絡を無視することはどちらにせよできなかったに違いない。
『悪いが出動してくれ』
「了解です」
酔った頭を振ってから、犬上は走り出した。
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