第3章 鐘が鳴る

第18話 新米刑事、記憶喪失の男に他人との食事の情景を説明すること


 首ですら片手で容易に折れそうなほどで、一言で表せば華奢だ。骨と皮だけというほどではないが、痩せていて、出ているのは腹だけだ。

 自分の好みはもっと良い体格をした女性だと思っていた。ここでいう「良い体格」というのは、上背があり筋肉質であるという意味ではなく、たとえば乳が大きいとか、尻がでかいだとか、そういうことで、それはおそらくは一般的な嗜好なのではなかろうか。白河六花という女がそこから逸脱しているというのは、自分は一般的な嗜好とは別ということか。

「まぁ、好きになったのが好みのタイプというやつではないですかね」

「好きだというわけではない」

 が、音無春邦は良いことを言ったような気がする。うむ、そうだ。タイプがどうのこうのという話ではない。重要なのは個人がどうか、だ。そうだ、と犬上大輔は自分の中で生じた考えに何度も頷いた——酔っているからいまいち覚束なかったが。


 六月。

 土曜日の晩であれば、飲み屋は混んでいた。入り口から店内の様子が一望できるような狭い店だったが、ふたつある座敷の席はどちらもスーツ姿を緩めた休日出勤帰宅前のサラリーマンたちで埋まっており、テーブル席にも空きはなかった。とはいえ、ふたりで飲むならカウンター席でも構わない。大事なのは飯と酒と、それに値段だ。

「ここは安くて食えるし飲める……来たことあるか?」

 と店に入った直後に音無に訊いたのを覚えている。実際、酒と小皿と枝豆と料理一品のセットが八百円で、一品料理の𩸽の焼き物も十分に量があり、美味い。おまけに席料や通しの料金も請求されない。

 音無の返答は「ない」だった。

「あんまりこういう店には来ないのか?」

「研究室で飲みに来るときはそうですね。教授とかも一緒の場合もありますし」

「教授とかはこういう店に来ないのか」

 こういう店、というのは、入口の戸が開きっぱなしで外の生暖かい風が入って来ていたり、他の客の声に負けないように声を届かせることを意識する必要があったり、壁にべたべたと貼ってあるメニューのセロハンテープが黄ばんで半ば剥がれかかっているような店のことだ。

「うちの先生は、あんまり五月蝿い店は好きじゃないですね。ただまぁ、それ以外の点はあんまり気にしないですね」

「そうか。では大学院生はどうだ。こういう店はどうだ」

 高卒の犬上にとって、大学や教授といったものは別世界の存在だ。病院などもそうだが、そもそも警察は大学構内に入ることをあまり歓迎されず、大学というものがどういうものなのかを一般的な知識以上に知らない。


 たとえば年齢が十も違うと、自分が常識だと思っていることでも通じない場合もあるだろう。ようは話が合わなくなるわけで、それは良くない。ただでさえ年齢の隔たりがあるのだ。現在の犬上の最大の危惧は、己が白河六花の世界には及ばぬような人間なのではないかということだった。

「なんですか、そういうことが聞きたくて飲もうと言って来たんですか。犬上さんの好きな人は、大学の方なんでしたっけ。ああ、そうか、パティさんにも訊いていましたよね」

 と音無はにやにやと笑いながら言った。

「だから好きだというわけではない」

 と犬上は言い返してやったが、白河の——というより大学の一般的な知識が得たくて音無を飲みに呼び出したのかといえば、半分はその通りだった。自分は大学のことは知らないが、白河といるときにその手の話題になることもあるだろう。もちろん彼女は話し相手にとって無縁な話題だけをつらつらと話し続けるような馬鹿な人間ではない——どこか人を見下すような目つきで、無愛想で、笑わないが。

だが、大学であった出来事や、最近の事情について話すことは少なからずあるだろう。そうしたときに、自分が正しく会話の内容を理解し、うまい具合に返答するというのは至上の課題である。これは事情聴取に似ている。聴取では同じ話を同じ相手に何度も聞く場合があるが、単に情報の正確性を高めるという役割のほかに、情報を吐き出させるときの反応そのものを重要視している場合もある。今回の場合、刑事である犬上のほうが反応を示す側なのだが。

 相手が妊婦であれば、もちろん酒に誘うつもりはない。だが大学人のおおよそ共通する嗜好があるのならば、それを知っておくのは重要である。

 実際、彼女との会話の機会は増えているのだから。


「それに、今日は反省会だ」

「反省会?」

「今日、一緒に昼飯を食べに行った。その反省会だ」

「行ってないですよ」

「いや、行ったんだ。おまえは知らないだろうが」

「……もしかして、犬上さんの好きなその人と行ったという話ですか」

「最初からそういう話だ」

 いや、好きだとか、そういうわけではないが、と犬上が言い足してやると、音無はわざとらしく目頭を抑えて首を振った。

「すごい、恋は盲目だな」

「何が言いたい」

「話に脈絡がないのが凄いですね。なんだっけ、反省会? 何を言っているんだ、この人は。はぁ、いやまぁ、いいですよ、聞きましょうか。凄いな、ほんと、犬上さんは、想像を超えている。警察の人がみんなこうってわけじゃないんですよね? いや、こうだったら見込み捜査とか増えて危なそうだな。ううむ、犬上さん、捜査はあんまり視野狭窄にならないでくださいね」


 随分と貶された気がするが、貶されるだけのことを言っているという自覚はある。しかし、仕方がないのだ。犬上は昼に白河と会ってきたばかりで、興奮している——いや、昼に飯を食って、喫茶店も行って、家まで送って、それで別れたわけで、それが十五時くらいだから、五時間は前だ。それでも犬上は白河と会っていたことを一瞬前に感じる。

 意識というものはおおむね現在やその直近の過去未来に向いていて、でなければ現状の仕事や生活などはままならず、過去の思い出話や未来の夢見事ばかり話すようになってしまうのだろうから当然だ。密度が濃いのは直近の出来事だ。一瞬前に彼女と会っていたというふうに感じるのは、つまり現在周辺の集中すべき時間帯を白河との時間まで拡張しているということで、言ってみれば、遠足気分が抜けきらない小学生のようなものかもしれないと思う。

 それだけ、楽しかった——とまでは言えない。とにかく、緊張しっぱなしだった。気を張っていた。だから疲れた。音無と飲んでいるのは気楽だ、と思う。偉人の言葉に、同じ長さの時間でも恋人といる時間は短く感じるというものがあったはずだが、犬上としては逆だった。長かった。厭だったわけではないが、疲弊を感じる程度に長かったのだ——そもそも恋人ではないが。


「ああ、でも、なんですっけ、反省会? それについてコメントできるほど、おれは恋愛経験はないですよ……少なくともおれの記憶ができてからは」

 まぁ、そうだろうな、と犬上は頷いた。「それは期待していない」

「失礼なことを真面目な顔で言えるのが凄い」

「とりあえず、簡単に話す。べつに、おまえの考えが正解だとは思うわけじゃないから、自由にコメントしてくれればいいんだ。なぁ、そうだろう?」

「いや、わかりませんが」

「とにかく、聞け」

 白河(彼女の名前や関係性については具体的に言わずに犬上は話を進めた)と本日土曜日の昼に食事をすることになったのは彼女のほうから誘いがあったからだ。彼女のほうからだ。犬上からではなく、彼女のほうから、だ。これは空前絶後のことだ——これまで犬上のほうから食事に誘うことはあって、それは何度か成功していた。だがそれは常に日曜だった。流れで誘えるからだ。日曜は日曜にはこれまで毎週会っていて、それは護身術を教えるためで、その効果は未だ実感できなくて、それは、いいのだ。大事なのは、彼女のさほど目立たなかった腹がだいぶん大きくなってきたこの期間を経てもなお、週に一度は会い続けてきたということで、それはとても大きな意味を持っている、はずだ。そうした定期的な逢瀬があったからこそ、此度は日曜ではなく土曜に会う機会に恵まれたのだ。定期的に会うのは大事だ。

 昼飯を一緒に食べるだけだ——と言ってしまえばそれまでだが、他に何の用事もないのに重要なのだ。曰く、駅の近くに良さそうな店があったので一緒にどうか、ということだった。誘い方は軽く、ただの思いつきのような口調ではあったが、ほとんど呼吸の間を置かない言い方から、その誘いがあらかじめ考えておいた文句であることは犬上の思い込みではないはずだ。もちろん犬上は——手帳で予定を確認するふりをしたあとで——首を縦に振った。


 誘われたのは先週の日曜だったので、実際に出かける日までは六日間の余裕があった。そこで犬上は、猶予の平日の間に、余裕のある時間帯——残念ながら昼食時ではなく夕餉の時刻になってしまったが——に実際にその店に行ってみることにしてみた。

「イタ飯屋だったよ」

 と犬上が言うと、音無は首を傾げ、「イタ飯屋って、なんですか」と訊いてきた。

「イタ飯って、おまえ、知らないのか? あれだ、イタリア料理だ」

「ああ……イタ飯ってそういう意味だったんですか。なんか聞いたことはあったけど、イカ飯みたいなものだと思ってました。古臭い表現じゃないですか?」

「常識だろう。いいんだよ、表現については。どうでもいいところに突っ込むな」

「せっかく聞いてあげているのに、この言い草だもんなぁ」

 ぼやく音無を無視して犬上はイタ飯料理屋の偵察に関する説明を続ける。駅から五分ほどの距離で、少し奥まった路地にあることを除けば立地は悪くはない。奥まったとはいってもビル群に囲まれているというわけではないので、昼なら陽も当たる場所だろう。席はテーブル席が二十ほどあり、カウンター席もあったが、そちらの壁には酒が置かれていたので、夜だけ酒飲み用にカウンター席が設けられるのかもしれない。天井は高く、清潔で、壁にごてごてと飾られている洋物雑貨や絵に不潔感はなかった。隅を這っている植物が造花なのは、手入れの手間と見た目を天秤にかけた結果なのだろう。席の間も広く、これなら腹が目立ってきた白河にも不都合はないだろう。もっともありがたかったのは、入り口にメニューが出ていて、値段が確認でき、しかも料理の写真も掲載されているためにどんな料理かがわかりやすいことだ。日頃食っているカップ麺や牛丼に比べれば高いが、常識的な値段設定だ——と犬上はまずはひとつ頷くことができた。


「聞きそびれたんですけど、なんで最初に偵察しに行ったんですか?」と音無が茶々を入れた。

「急に行って、何かわからないことがあったらまずいだろう」

「たとえば?」

「それは実際、何かが起こってみないとわからないからわからないことなんだ」

「なるほど」と音無は神妙な顔で頷く。「なんか筋が通っているんだか通っていないんだかわかりません」

 音無の感想は無視して犬上は話を続けた。そのイタ飯料理屋は味は悪くなかったし、量も十分だった——これは犬上がもっとも危惧していた問題点だったため、だいぶん肩をなでおろすことができた。とかく女性の好む料理屋というのは量が少ないものである。あるいは、白河は犬上に合わせてこの店を選んでくれたのかもしれない。

 そういうわけで、犬上は安心して本日土曜日を迎えることができた。念のため、その後もう一度その店に夕飯を食いに行ったりもしたが。


 当日、待ち合わせていた駅の中の戦国武将の青銅像の前に行ったのは約束をしていた二時間前だったが、特に気が早りすぎて早めに寮を出たわけではない。途中にトラブルが起きて遅れる可能性もないではないだろうと考えて、時間に余裕を持って出たのだ。

「いや、それが気が早っていると言うのでは」

 という音無の発言は無視する。

 その後、一時間ほどかけて駅周辺を一周する。細かい道までゆっくりと回って行けば、警邏のようなものだった。待ち合わせの青銅像の前まで来て、まだ白河の姿はなかったので、再度、今度は足早に駅周辺を回った。時間は適度になってきていたが、夏だけに汗は抑えられず、せっかくの服装が無駄になりそうに感じた。

「そういえば、今日の恰好はわりとしっかりしていますね」

 と音無が言ったので、犬上は己の服装を見下ろした。紺のスラックスにジャケットというシンプルな格好だが、スーツほど堅苦しくはないし、ジーパンにTシャツというほどカジュアルでもない。

「そういう服も持っていたんですね」

「買ったんだ」

「ああ………」

 音無の「ああ」には何か色が混じってはいたが、その点に関しては気にしないことにした。

「どうだ、大丈夫か、この服装は」

「いや……さぁ、どうでしょう」

「まずいか」

「いや、そういう意味じゃなくて」と言って音無は苦笑した。「おれは服装のことなんてわかりませんってことです」

 実際、音無はカジュアルな装いだ。彼がフォーマルな格好をしているのは見たことがなく、であれば確かに服装には頓着しない性質なのだろう。


「べつに、相手が嫌がっていなければどんな服装でも良いんじゃないですか。そんな、ダンスをするわけでもなし。少なくとも、清潔感があるようには見えますよ」

「また良いことを言った」

「はぁ、そりゃどうも」

 少なくとも昼に会った白河は、厭そうな素振りは見せなかったと思う。食事も滞りなく進んだ。食い方も気を遣ったなりの結果にはなった——と思いたい。特に、職業柄日頃は早食いになってしまっているのだが、それを抑えることに気を払い、成功していたと思う。

「反省会と言いつつ、なかなかに自己評価が高いですね」

「だってそうだろ、これと比べれば半分以下のスピードで食べたんだぞ」と犬上は酢醤油をかけた鳥の唐揚げを口の放り込みながら、通常時の速度を見せてやった。「いや、四分の一かもしれん。おかげで零したりだとかはなかったが。相手の服とかにかけるとまずいし」

「食べる速度を抑えたおかげで話は弾んだと」

「いや……まぁ、たぶん」

「そこは自信がないんですね」

「あまり話すタイプではないからな」

「それは犬上さんの話ですか? 相手の話?」

 と問われて犬上は困った。自分の返答は口をついて出てきたもので、特段何も考えなかったからだ。音無といるときは比較的喋る気がするが、白河と一緒にいると、そうはいかない——いかなかった。

 とはいえ雰囲気が悪くもならなかった、と思う。おそらく。であれば、いちおうの問題はなかったものと思いたい。でなければ、そのあと軒を変えて茶を飲みに行くこともなかっただろう。


 だから犬上としては考えたいのは、その後を如何様にするのが正しかったか、だ。喫茶店に移って茶を飲んだあとは、白河を家まで送り届け、そこで別れた。だがもっと踏み込むべきではなかったのか、と。たとえば買い物に行ったり、あとは夕餉だ。誘わなかった理由は、夕餉までの時間の潰し方を考えていなかったからというのが一番だが、夕飯の好みがわからなかったというのもあった。

「いや、好みというのは、味の好みではなく、店の好みだ」

 昼に食事に行ったのは今日だけではない。日曜日の護身術の指導のあとなら、何回か行っている。だがそれは昼餉で、夕餉となると、また別物だろう。同じ店であっても、昼営業と夜営業で雰囲気が変わるという場合もある。実際、今日行った店はそうだった。だから昼と同じ感覚で夜の店を選択はできない。酒は妊婦の白河は飲まないはずなので、そこを考慮に入れなくて良いという点だけは楽なのだが。


「あ、相手は妊婦の方なんですか。そういえば前、女の子のいる店でそんな話もしていましたっけ」

 と音無は他人事のように言う——いや、現在の彼にとっては他人事か。

「いやいや、余計な詮索はしませんけどね」

「で、だ。おまえも大学人だろう。気にかかったのが、大学の人間は店とかの選択はどうしているかということだ」

「大学人ってね……おれはただの学生ですが。さっき言ったのは、うちの教授の場合は、ですよ。飲み屋の好みなんて、人それぞれでしょう? 刑事さんだってみんな居酒屋が好きなわけじゃないでしょうし」と音無は言った。「もし誘いたい人がいるんだったら、その人に直接訊いたほうがいいんじゃないですかね。おれだって、友だちと飲むのならこういう店は好きですし」

「おまえ、友だちなんているのか」

 という犬上の反応に、無言で音無は犬上を指差した。なるほど、おれは友だちか。そうかもしれない。しかし犬上が音無に対してフランクな話し方をするのに対し、音無という男は出会ってからこのかた、犬上に対しての丁寧口調を崩さない。初見では同年齢だということは知らずとも、いまは理解しているはずで、では他の人間に対して等しく丁寧語で接しているのだろうか。

「そういうわけではないというか……いや、どうなんでしょうね、わかりません。いまのところは、だいたいの人に対しては丁寧語が出てきますよ」

 いまのところは、という言い方は、記憶を失ってから、という意味だろう。

「まぁ犬上さんのほうが社会人経験が長いですし、同じ年でもおれのほうが丁寧語なのはそんなにおかしくはないような」

 確かに言われてみればその通りだ、と納得しながら、ふと思う。この考え方は白河に対しても重要かもしれない。犬上は確かに彼女からすれば四つも歳下だが、未だ大学院の学生という身分の彼女に対し、犬上は警察官として働いている。所得税も払っている。住民税も。

 税金を払っているからといって偉いわけではないが、少なくとも、一定の収入があるというのは良いことだ——そうじゃないか? 男として頼れる存在とはみなせる一定の線引きの向こう側には存在しているのではなかろうか。その次の線引きとしては、ではその収入がどの程度か、ということになるのかもしれないが、とにかく重要なのは、犬上は白河にとって頼れる人間だ、ということだ。


「ところでおまえ、卒業後はどうするんだ?」

 と犬上は訊いた。今日、音無と飲むことにしたもう半分の理由は、ただ音無という男と飲みたかっただけなのだが、そうは言わずに。

「進学しようかと」

 即答するからには、咄嗟に考えた言葉だとか、思いつきで言っているわけではないらしい。

「進学というのは、今の大学にか。いや、えっと、大学院か」

 大学というものが四年制だというのは常識的に知ってはいたが、大学院というもののシステムについては白河六花と会話をするようになってから聞いた。大学四年のあとに大学院の修士課程というものが二年、博士課程というものがそのさらにあとに三年あり、合計すると九年も大学入学から大学院卒業までにかかるというのは、正気とは思えない。

「いや、実際そうなんですよね、すごい、大丈夫かなって気はします」

 と言う音無の表情には、いつもどおり深刻さがない。

「大丈夫ってのは、あれか、卒業とか、進学とかか。卒論というのがあるんだろ」

「うちは卒論、ないですよ。卒業発表はあるけど」

「なんだ、それ。普通、あれだろ、大学って、みんな卒論書くのに四苦八苦するもんじゃないのか。ドラマとかだと、そうだろ。コピペしたりとか」

「犬上さん、ドラマとか観るんですね……。卒論があるかどうかは、大学とか学科によると思いますよ。うちの学科は、自分で研究してもいいし、他人の研究を発表しても良いし、というかんじです」

「他人の研究を発表って、おまえ、それはまずいだろ。ニュースになってたりするじゃないか。悪いことは言わないから、やめておけ」

 真面目に言ってやったつもりなのだが、音無が喉を鳴らして笑ったので腹が立った。

「えっと、他人の研究……というか、論文ですね、それを発表するというのは、べつに自分の手柄としてやるわけではないので、パクリとかそういうわけではないですよ。大丈夫です。それに、おれが言った、大丈夫かなっていうのは、卒業とかに関してじゃなくて、金とか就職のことですね。もう二年だとか、五年だとか大学に行くわけで、相応に金もかかりますし、大学院に行ったあとの就職には不安があるので、取り返しのつかないことになりそうで………」


 笑われたのには腹が立ったが、音無なりに悩んでいるようだったので「なるほどな」と犬上は相槌を打って頷いてやった。「で、なんだ、進学したいのは、そんなにやりたいことがあるのか。おまえ、空の研究しているとか言ってたっけ。なんだ、空がなんで青いの、とか、そういう研究をやってるわけ?」

「馬鹿にして言っているんでしょうが、それは遠からずですね」と音無は事も無げに言った。「そもそも、犬上さんはなんで空が青いのか知っているんですか?」

 犬上はビールを口に運んだ。

「知らん」

「まぁ、そういうわけで、なんでも研究する価値というのはあるんですよ」

「……もしかして、現代でもわかっていないのか? そういう、すごい難しい内容なのか?」

「あー、いや、べつにそういうわけじゃないんですが……えっと、すごい簡単に言うと、空にあるものがそういうふうに見えるようになっているからです」

「何もないだろ」

「いや、色にしろなんにしろ、何かが見えるのはそこに何かがあるからですよ」

「何か? 空気か?」

「空気とか、水蒸気とか、エアロゾル——えっと、大気微粒子だとか、そういうものです。まぁ、青く見えるのは空気のせいですね。太陽の光が空気に当たって、散乱されるんですよ。だから色付いて見えるんです……散乱、えっと、反射というか、なんというか」

 言いながら、紙ナプキンを引っこ抜いてその上にボールペンで図示し始めるのだから、たぶん音無は酔っているのだろう。犬上もだ。喋りながら食ったり飲んだりしたのだから、酔うのは当たり前だ。友人だ。飲んでいるだけで楽しいし、そうでなくても、この男と会話するのは面白い。

 それでも犬上は、テーブルに足をぶつけながらも帰り際にその紙ナプキンを回収するのを忘れなかった。

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