第16話 新米刑事、挑むような目つきの女を強姦することを考えること

 犬上は刑事だが、残念ながら一捜査員でしかない以上は筆跡鑑定のような高度なことはできない。だが音無の部屋で見つけたノートに描かれた字がひとりの人間によって書かれたものであるということはわかる。筆跡は特徴的で、真似れば真似ようとできないではないだろうが、一貫としていた。もちろん偽造の専門家が偽装しようとすればいくらでも偽造はできるのだろうが、とりあえずはただの日記として信頼してもいいだろう。内容は、ただの、とはいえないが。


 日曜深夜。音無の家での飲みを終えて警察寮に戻りかけた犬上は、その前に見つけたノートをどうにかしなければと思い、勤務先である白瀬署に来ていた。署には土日だろうと夜間だろうと人がいるが、さすがに深夜ともなると人が少ない。だから電灯をつけて書類の読み書きをしたりするには都合が良く、犬上は己の職場である強行犯係で宿直をしていた同僚には「明日までに出さなければならない書類があったのを忘れていた」と言い訳をして机に向かった。

 宿直の同僚がこちらに注意を払っていないことを確認してから、音無の部屋で見つけたノートを広げる。ここに来るまでの道中、明かりを見つけるたびに開いて中を覗いたが、改めてその内容を確認する。


 ノートの記述内容は、ひとりの男の日記だった——たぶん、いや。間違いなく、男だ。書かれている内容の多くは愚痴であり、道ですれ違う人物、大学の同級生や他の学生、教授や講師などの悪口だった。であれば、彼も大学生だということだろう。

 そうした罵詈雑言の中に紛れて目を引くのは「拳銃を拾った」という記述だった。日記らしく丁寧に——字そのものは神経質ながら乱雑だったが——日付が書かれていた。去年の十一月だ。駅前の裏路地で拾ったらしい。なぜそんなところに入ったのか、までは書かれてはいないが、ふと入り込んだだけかもしれない。そこで、この日記をつけた男は拳銃を拾った。

 果たしてそれがどこからやってきたものなのか。暴力団が落としたのか、密輸中に紛れたのか、はたまた別の犯罪で使われたものなのか、それはわからない。だが日記には銃の形状に関する情報は十分すぎるほど書かれていた。二連装の小さな拳銃、デリンジャーであることも。

 そこから、銃についての記述が増える。正確には、銃を撃って現状の不満を解決したい、という内容だ。その中には、とある女性を犯したい、という内容も含まれていた。銃で脅して強姦したいというその女性は、かつて彼が受けていた授業でティーチングアシスタントというものをやっていたのだという。調べてみると、ティーチングアシスタントというのは大学の授業などの学生アルバイトのことだという。であれば、このティーチングアシスタントというのは白河六花ということか。


 一月——白河の恋人が死に、彼女も撃たれた日の前日に日記は終わっていた。まだ後半に白紙のページが残っていた以上、ここで日記を書く気がなくなった、あるいは日記を書けなくなったと考えるべきだろう。

(これが記憶を失った音無が書いたものであるのなら………)

 首を吊り、記憶を失ったがために書けなくなったということだろうか——いや、違う。音無と犬上が出会ったのはこの三ヶ月ほどあとだ。最初に会ったとき、彼は己がどれくらい彷徨っていたのかわからないということを言っていたが、まさか三ヶ月間裸足で街を歩き回っていたわけがないだろう。彼が首を吊ったのは、この日記を書かなくなってから三ヶ月後だ。彼と出会ったのは、縄目の跡や神社の痕跡から考えても、首を吊った当日だ。

 であれば、書けなくなったのではなく、書かなくなったと考えるのが妥当だろう。書かなくなったのは、犯罪の証拠を残さぬためか。己の行動を日記に記すのが怖くなったのか。

(大学やアルバイトの記録があれば、彼の行動も掴めるかもしれない)

 そんなふうに思わないではなかったが、果たしてそれが正解かというと、犬上には不安だった。

 というのも、どこかで情報を得ようとすれば、少なからず人の口に上ることになるのだ。音無は友人が少なかったかもしれないが、人の噂の力は馬鹿にはできない。どこかから音無の耳に入れば、なぜ自分のことを調べているのか、と疑問に思うだろう。彼は犬上が調べている事件については何も知らないだろうが、己が何かしらの事件に関わっているかもしれないという不安から、記憶を取り戻してしまってもおかしくはない。


 彼が記憶を取り戻したらどうなるのか——それは医者ではない犬上にはわからない。記憶や脳といった複雑な部分は、正確なところは医者でも保証はできないだろう。だが自分がどのような行動を取るかは想像できる。

彼を逮捕する。

それでいい。そうするべきだ。だが、犬上はそうしたくはない。音無は、悪い人間ではない。少なくとも、いまの音無は——それはわかる。だから、だから、くそ、だからどうしろというのだ。犯人を捕まえることを諦めろというのか?


「もう、諦めようとしていたんです」

 日記を閉じ、息を吐いて昼の出来事を思い出した——白河だ。白河の言葉だ。今日の午前中の筋肉トレーニングと護身術の稽古のあと、犬上はいつものように白河を食事に誘った。断られるだろうという予測は外れ、白河はいつものように逡巡したものの、最後には首を縦に振ってくれた。飛び跳ねるほど喜びたかった——あのときは、だ。いまは、あのときの気分はない。

 汗をかいたあとなので一度着替えてから、駅前のレストランへと連れて行った。鉄板焼きの店だ。くそ、承諾されるのであれば、もっと女性が好みそうな店を探して置いたのに。いや、でも、気張らずに入れる程度に気軽で、明るく、財布にも優しいという評判の店ではあった。美味かった。 

「ねぇ、犬上さん」と、店で注文を終えたあとで、白河はその小さな口で犬上の名を囁いた。「犬上さんは、わたしと最初に会ったときのこと、覚えてますか?」

 もちろんだと、語気強く言いかけた。身を乗り出しそうになった。実際、少し手に力が入ってしまったかもしれない。犬上の体重に耐えられず、机が僅かに軋む音を立てた。

「あのとき……」

 白河は視線を下げた。あのとき、なんだ。犬上はその先を聞きたがった。まさか、運命だと思ったのか。出会った瞬間に何かを感じたのか。そうなのか。そう言いたいのか。

「あのときは、ただ、買い物帰りだったんです」

 犬上は首を傾げたくなった。確かに彼女はひと月ほどまえのあの日、買い物袋を提げていた。それを持ってやった。髪が風で揺れて額の傷が露わになった。

「それだけで……それ以上のことはしていなかったんです。もうやめようかな、と、そんなふうにさえ思っていたんです」

 興奮していた頭が冷静になっていったのを覚えている。


 白河は事件のことを忘れようとしていたということか。犯人を見つけることなど諦めようとしていたということか。警察が半ば諦めた犯人を、たったひとりで——記憶を失っていまったのに、犯人の顔を忘れてしまったというのに、「顔を見れば思い出す」だなんて言って歩き続けることを諦めようとしたということか。

 だがそれから数日後、彼女はやはり探し回っていたではないか。犯人を探そうとしていたではないか。

(おれのせいか?)

 白河と食事をしていたときや、彼女と別れてからその余韻に浸っていたとき、そして音無と酒を飲み交わしていたときも考えていなかったことを、冷静になって思い返す。彼女があんなことを言い出したのは、犬上に事件のことを思い出させられたからではないだろうか——いや、そのときは犬上は事件のことを知らなかったので、正確にいえば先輩刑事の牛草のせいだが、そんな責任転嫁をする気にはならない。

 重要なのは、どうすれば彼女がまた事件のことを忘れられるか、だ。


 犬上は刑事で、刑事としてしか彼女と関われない。いま、白河と犬上を繋いでいるのは、犯人を見つけたときのために護身術を教えるためだ。実際、付け焼き刃の護身術で犯人を捕まえられるとは思えないが、少なくともそういう名目にはなっている。そしてその行為は、刑事の存在以上に事件のことを思い出させる要因になっているだろう。週に一度の小さな稽古場が存続する限り、彼女は犯人を追うことをやめないかもしれない。それを止める方法は簡単だ。護身術を教えるのを止めればよい。だがそうするということは、犬上が白河に会えなくなるということに等しい。刑事としての立場以外で彼女と関わるという選択肢は、犬上の頭にはなかった。なぜなら、そういう関係だからだ。それ以上の関係ではないからだ。そういうものだからだ。

 ではどうする? この関係を保ったままにするにはどうすればいい?

 犯人を逮捕すればいいのか? そうなったら、もちろん状況はこのままではなくなるだろう。なにせ、目的であった犯人が明らかになるのだ。護身術を習う必要はなくなる。だがその変化は求めるべきものであることは確かだろう——その求める先というものがどんなものか、ということには目を背けて犬上はそう思った。

 だがもしこの日記から示唆されるとおりに音無が犯人なら——やはり駄目だ。いまの音無は、新たに芽生えた人格は、けっして悪人ではないからだ。


 ではどうする? どうする? 突っ伏して考えていた犬上の頭に、ふと名案が思いついた気がした。

 犬上が白河を犯してしまえばいいのではないだろうか。

 新しい出来事と古い出来事、どちらも同じ程度のものだとすれば、より強く働きかけるのは新しいほうだろう。

 あるいは深さで対抗することもできる。一日なり、一週間なり、どこかに監禁して犯し続ければ良い。そうすれば、きっと前の事件のことは忘れて、犬上ことを追い続けるようになるだろう。とはいえ犬上は警察寮暮らしなので、家に連れ込むということはできない。むしろ白河のアパートに入り込むべきかもしれない。彼女は休学中でアルバイトも辞めており、それほど他人と付き合いが深いふうにも見えないので、一週間程度外に出ずともそうそう疑われることもないんだろう。

 さすがに記憶がなくなることは期待できないので、顔は隠す必要がある。いや、顔を隠すよりも、背後から襲って目隠しをさせたほうがこちらの視界を確保しやすい。声でばれても困るので、耳栓もさせたほうが良いかもしれない。その上で両手と両足を拘束し、犯す。白河は泣き喚くだろうか? いや、少なくとも最初は、彼女は何も言うまい。恨み言を零し、呪詛の言葉こそ投げつけて来るかもしれないが、できる限り泣かないように努めるだろう。しかし拘束され、視界は闇に包まれ、己の心臓の鼓動だけが聞こえる中でただただ己の中を掻き乱され、股の間から溢れるほどに精液を注がれる時間が続けば、きっと彼女はかつての事件のことを忘れるだろう。犬上に犯された記憶だけが焼きつくだろう。そうなれば、もはや音無のことを追うことはなくなるだろう。

 忘れられないのなら、思い出そうとしているのなら、忘れさせてやればいい。

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