第15話 新米刑事、記憶喪失の男が記憶を失う前の日記を見つけること

「誰かに話したい」

 王の耳が驢馬の耳であることを知った床屋でさえ、いまの犬上の「誰かに言いたい」という気持ちの高ぶりとは程遠かったに違いない。

 なにせ、人には言いがたいことだ。


 いや、言えないわけではない。べつだん、その言葉にしたい内容を口にしたところで、誰かが被害を受けるだとか、そんなことはないのだ。ただ、犬上が少し恥ずかしいし、余計な詮索をされるかもと思えば話しにくいというだけで——いや、既に手元を離れた事件の被害者と何をやっているんだ、と咎められる可能性はないでもない。既に直属の上司でありパートナーであるところの牛草には知られているのだが、彼に言っても小言は避けられないだろう。であれば、仕事の同僚に話すのは無理だ。犬上は警察寮暮らしなので、帰ってもいるのは同僚だけだ。現在の勤務地付近で知り合いとなるとほとんどが警察関係になり、やはり同僚だ。地元は遠いわけではないが、実家に帰るほど時間に余裕があるわけではない。このあたりで、話しやすい誰かを、見つけなくてはならないのだ。

 そんなふうに思いながら日曜の午後に木漏れ日差す坂を、さながら獲物を追い求める熊のようにうろつきまわっていたとき、見覚えのある人影が坂を降りてきていた。痩せた影は、ちょうど一週間前に引越しの手伝いで会った音無だ。ジーパンにTシャツというラフな格好で、薄い肩掛けカバンだけを下げている。

「音無」

 ぼんやりと斜め上に視線を投げかけたままだったので、足元をまったく見ていない音無に声をかけたが、最初反応がなかった。おい、音無、ともう一度声をかけて、ようやくきょろきょろとし始めた。鈍い男である。


「ああ、犬上さん……」

「何をやっているんだ」

「大学から帰るところですけど……なんですか、事件ですか」

 そうではないが、犬上にとっては事件だ。そして、音無は事件について語るのに良い相手だと気付いた。なにせ、歳が近く、同性で、何より職場に関係がない。

「いや……日曜なのに大学があるのか?」

「研究です」

「研究というのは休みがないのか」

 自殺する大学院生のニュースは聞いたことがある。なんでも、教授から押し付けられる課題が厳しく、手柄は横取りされるのだとか。音無は記憶を失う前に自殺をした形跡があっただけ、心配になる。これは、話を聞いてやったほうが良いのではないだろうか。犬上は己の話したい願望を現実にするために勝手な解釈をすることにした。


「いや、自主登校みたいな……まぁ家にいても暇なんで、大学行ったみたいな——」

「なるほど、ではおまえ、いまから暇か」

 と音無の言葉を遮って問う。

「なんですか、あれですか、またこの前みたいな、どこか怪しい飲み屋に行くんですか」

「怪しくはないが、飲み屋に行きたい」

 時刻は十七時前で夕餉には少し早いような気がしないでもないが、駅前まで歩いて行けばちょうど良い頃合いになるだろう。

「差しで?」

 と音無は己と犬上との間で指を往復させる。表情の変化が乏しい男ではあるが、戸惑っている様子は感じられた。

「駄目か」

「いやまぁ……いいですけど、おれは金ないですよ。何度も奢ってもらうのも悪いし」

「おれもない」

 白河が働いた店で飲んだのもまずかったが、彼女にトレーニング用の器具を買い与えたのも懐に痛かった。実際、金がない。そのことに今気付いた。


「駄目じゃないですか……あー」と音無が何かに気付いたように頭を掻いた。「宅飲みにしますか」

「なんだ、たくのみ?」

「宅飲みって一般に言いません? 大学生だけかな……。うちで飲みませんか、ってことです。ここから近いんで。酒とツマミもスーパーで買ったり作ったりすれば、そんなに金がかかりませんし」

 名案である。名案である。

「名案だ」と実際に声にして言ってやった。名案だ、名案だ、と。

 曰く、このあと音無は何も予定がないのだという。さらに言うと、明日の月曜日の午前中も授業などはないのだという。であれば、いつ研究室に行っても良いものなのだという。なんだ、気楽なものではないか。

「待て、おれは明日から仕事だ。当たり前だけど、朝からだ」

「それはご愁傷様です」

 とスーパーマーケットに行ったところで籠に発泡酒だの竹輪だの胡瓜だのチーズだのと放り込みながら、肩を揺らして音無が言った。自殺をしようとした男とは思えぬ表情だ。

 その過去を抜きにしても、意外なほど人懐こい男だと思う。以前に白河の以前の職場を訪ねたときや先週の引越しのときもそうだが、人の提案を嫌がらない。あるいはそうした性質が心労になっていて自殺に繋がったのかもと思わないでもなかったが、少なくとも「金がないから」と提案を退ける程度の考え方はできるわけだ。


 犬上は彼のかつての性格を知らなかったが、この男は以前とは別人なのだろう、と想像した。であれば、二度は首を吊ったりはすまい。そう考えるのであれば、もはや警察官として彼に付き合わない。ただの友人としての付き合いがあるだけだ。

 買い物をして音無のアパートへ向かうときには、もう陽が赤く染まっていた。音無のアパートを訪れるのは二度目だが、初回の印象はそれほど濃くない。それは、この場所を訪れる前に白河六花と初めて会ったせいかもしれない。

 ただ覚えているのは、首吊りの痕跡がなかったということだけだった。代わりに近くの神社の敷地内に、なぜか首吊りの跡があった。音無は——彼はどう感じたのだろう。そのことを。己がどこで首を吊ったと考えたのだろう——いや、彼は己が首を吊って、その結果記憶を失ったことは知らないか。少なくとも、犬上は言っていない。


 音無のアパートは、見た目は些か古ぼけた、もしかすると元は白だったかもしれないクリーム色の壁の二階建てで、階段は踏み出すたびにぎしぎしと音を立てた。しかしドアは分厚くしっかりしていて、中に入れば内壁は清潔で水周りも整っていて、小綺麗に見えた。少なくとも犬上の住む警察寮よりは上等に見える。

 狭い玄関には、たったいま音無が脱いだ靴以外にはサンダルが一足置かれているだけだ。靴箱の中は見てはいないが、中には何も入っていなくて二足しか靴を持っていなくても驚かない。というか、以前はそうだった気がする。玄関を入ってすぐ台所があり、ほとんど玄関で靴を履いたまま調理しなければいけないのではという位置にコンロが二つあり、ひとつには鍋が、ひとつにはフライパンが乗っていた。コンロ周りはいくらか油汚れはないではなかったが、眉を顰めるほどに汚れているわけでもなかった。水周りも。ひとり暮らしにしては上等だ。


 部屋の持ち主はシンクの隣にある、電子レンジが上に乗った冷蔵庫に買ってきた食材を詰めていた。犬上も持っていた酒を入れる。

「とりあえずなんか作りますか……いや乾杯が先かな」

 二本だけ缶の発泡酒を持っていく音無に続き、台所の奥の開きっぱなしのドアから居間に入る。最初に来たときと同じく、相変わらず簡素な部屋ではあったが、洋服箪笥の隣に小さな木製ボックスが増えていて、中には雑誌のようなサイズの本が入っているのが見えた。窓際には掛け布団が無造作に跳ね除けられた状態の布団が敷きっぱなしで、そこには紛れもない生活感があった。首吊りの縄もなく、人間が生きている空間だった。


「そういや、おれの部屋ってテレビとかないんですけど」

「おれの部屋もないよ。寮だから」

 発泡酒の缶を開け、乾杯、と缶を打ち合わせた。

「ラジオならありますけど」

 と座ってすぐに立ち上がるや、音無は洋服箪笥の上に無造作に置かれた雑多な物品の中から黒い携帯ラジオを取り出した。アンテナを立てて電源を入れてテーブルの上に立てる。日頃使用しているのだろう、チューニングをせずともラジオからは音楽が流れ始めた。

「まぁ、男ふたりだけだといかにも侘しいからな」

「そうしたのは犬上さんでしょう」

 苦笑しながら、音無はテーブルへと戻らずに発泡酒の缶を持ったまま台所へと向かった。料理をするらしい。


「なんか手伝うか」

「犬上さん、料理できるんですか?」

「できない」

「なんで手伝うって言ったんですか?」

「言うだけ言ってみた」

「なんか食っててください」

 素直に座して言う通りにする。待っている間は包丁を叩いたり電子レンジを稼働させたりする音のほかは、ラジオから流れる音声と音楽だけが漂っていた。


 しばらくしてから音無が運んで来たのは、切ったフランスパンの上に味付けがされたチーズや野菜の載ったものや、薄切りの蛸の味付けサラダのようなもので、見る人が違えば相応の料理名が出てくることが予想されるような小洒落たものだった。

 しかも、見た目だけかと思いきや、美味い。

「こういうやつと一緒に飲むのって、発泡酒じゃなくてワインとかなんじゃないか」

 素直に褒めるのは癪だったので、犬上はそんなことを言ってみた。音無は苦笑して「いちおうワインも買ってありますよ。すごい安いやつ」と冷蔵庫から赤ワインを取り出した。

「おまえ、こんなに料理するのか」

 料理ができる男はもてないらしいぞ、と犬上は言いたくなった。

「するというか、たぶん最近になってからなんじゃないですかね」

「なんだ、その曖昧な言い方は」

「いや、昔のことはわからないんでね……そのへんの本は」と音無は洋服箪笥の隣のボックスを指差した。「おれが貰ってきたり、買ったりしたもんですから……だいたい古本ですけど」

 であればここ一、二ヶ月の間に彼は料理を趣味とし始めたのか。それにしては美味いと思ったが、もともと素質があったのかもしれない。犬上が本を適当に手にとってぱらぱらと捲ると、料理のレシピにいくつかの書き込みがあった。音無の書き込みだろうか。それとも古本ということだから、前の持ち主のものか。


「実は………」

 本棚を見ながら、ぽつりと音無が呟いた——呟いたが、その先が続かない。

「実は、なんだよ」

 と犬上が先を促すと、音無は逡巡する様子を見せてから続きを話した。

「いや、実はゴールデンウィークの間に実家に帰ったんですけどね、歓迎されたんでちょっと吃驚しましたよ」

「そりゃ、歓迎はされるだろ」

 親子なのだ。血の繋がった関係なのだ。ならば歓迎されて当然だろう、と一般的な家庭で生まれ育ったという自負のある犬上は言った。

「いや、なんかこう、夢見が悪くて……女性に死ね死ね言われる夢を見たりしたんで、あんまり好かれてないんじゃないかな、と思いまして」

 ラジオからは歌が流れていた。愛をくれ、そうでなければクリスマスまで生きられない。どんな歌詞なのか、少し酔いが回り始めていたせいで、全体像が把握できない。

「それは……」犬上は既に発泡酒から切り替えていたワインに切り替えていたが、そのグラスを置いた。「記憶を失うまえの記憶ってことか」

「いやまぁ、単なる夢なのかも……どうなんでしょうね。まぁ、親の記憶かなって思って……あと、あんまり出来が良くなかったんでね、だからまぁ、そういうわけで、戻っても、あんまり歓迎されないんじゃないかな、とか思っていたんですが……」

「出来が悪いって、旧帝大だろ。よくわからんが」

 地元大学で音無の通うT大が旧帝大というものに含まれているのは知っているが、それ以外のことはよく知らない。しかし大学のランク付けとして上位のものだということくらいはわかる。


「そういうのじゃなくて……あれじゃないですか」

 音無は苦笑いをしながら、己の首元に指をやった。その意味するところは、酔った頭でもすぐにわかった。

「おまえ、知ってたのか」

「最初の、犬上さんと会った日に気づきましたよ。風呂場に鏡もあるんでね、見れば明らかに怪しい跡があるし……厭でもわかりますよ」

 言葉の内容はともかく、言い方は批難するようではなかった。視線はどこか遠くを見ていて、音無は老人が古い記憶を噛みしめるかのような表情だった。

「なもんでね、まぁ、自殺するくらいだから、あんまり素行が良くなかったのかな、とか思って……。素行が悪いもいろいろですけど」

 彼の昔の性格は知らないが、おそらくは刑事である犬上が平素使う「素行が悪い」という言葉に適合するような人間ではなかっただろう。だが、彼が言わんとしていることは理解できないでもない。社会不適合者だったということだ。

「パティさんとかからは、人が変わったようだとは言われましたけど、具体的にどう変わったのかは教えてくれなかったんですよね」

「まぁ、いまのほうが良いんじゃないか。前のは知らんが」

「たぶん、そうなんでしょうね。だから……いや、だからってわけじゃないんですけど、わりと怖いですよね。記憶が戻るのが」

 音無は空になったグラスを横へと押しやり、新たに発泡酒の缶を開けた。先日も思ったが、この男は見た目によらず酒が強い。


「戻したくはないのか」

「戻したいと思っていると思いますか」

「まぁ……戻らないほうがいいんだろうな」と犬上は先週パティという音無の先輩と飯を食ったときのことを思い出す。いまの彼はけっして人格的に問題がある人間ではない。些かぼうっとしてはいるが、立派な人間だ。そして犬上にとっては、友人かもしれない。

「たまに通院しているんですけど、あんまりはっきりした話は聞けないんですよね……記憶を戻さないままの方法とか、記憶が戻ったらいまの人格はどうなるのかとか、そういうことがわかればいいんですけどね、こういうのって怪我とか病気と違って、こうすれば治るとか、そういうのが確立されていないもんで」

 やはり記憶が戻れば、以前の音無に戻ってしまうのだろうか。専門家でさえわからないのであれば、素人である犬上にはわからない。

「まぁ、記憶を戻したくないんだったら、そういう昔のことは避けておいたほうがいいんじゃないかっていう気はするな。昔の話を聞かないとか、そういう記録を見ないとか」

「そのへんはまぁできる範囲でやってますよ。幸い日記とかつけていなかったみたいですし、友だちもいないみたいなんで過去の話は聞こうにも聞けないわけで、すごい、もうね、駄目だなこれはと、我ながら思いました」

 いやぁ良かった、と笑う音無を見て、いまはおれが友だちだと言えるけどな、とでも言おうかと思ったが、酔っていることを自覚したのでやめた。


「犬上さん、そんな話はともかく、なんで今日は飲もうとか言って来たんですか?」

 なんでだ。なんでだっけ。食べて飲みながら話していたため、徐々に頭が鈍くなっていた自覚がある。なんで飲もうとした? なんで音無と? 友だちだ。だから当たり前だ。いや、しかし、にしてもきっかけがあったわけで、なんだっけ。

 そうだ。六花だ。白河六花だ。

「昼、白河さんと飯に行ったんだ」

「へ?」と音無は首を傾げた。「誰ですか? 白河さん?」

「知らんだろう」犬上は笑ってやった。「だから良い」

「なんですか、それ……。あ、もしかして先週パティさんに訊いていたひとのことですか? ん、待てよ、前に無理矢理同行させられた店でそんな名前が出ていたような……」

 くそ、こいつは意外と鋭いな、と犬上は舌打ちをした。

「せっかく知らないから話しているというのに」

「なんか知られると困る相手なんですか……? 写真あるんだったら見せてくださいよ。この前も見られなかったし」

「厭だ」

 と跳ね除けたのは、もし見せたら音無に白河のことを気軽に喋ることができなくなるということ以上に、もし彼が六花のことを好きになったらたまらないという危惧もあったからだった。


「わかるか。そういうことだ」

「ぜんっぜんわかりません」と音無は苦笑した。「とりあえずわかったのは、犬上さんがそのひとのことを好きだということだけです」

「いや、そういうわけじゃない」

「そういうわけじゃないのに、昼飯に誘えたというだけでわざわざ話したがったりしないでしょう」

「そういうわけじゃない」

 ただ小柄なくせにこちらを見下すような目つきが気に入らなかったのだ。役立たずだと言いたげな態度を見返してやりたかったのだ。犯人を探して街を歩きまわる姿を見て自分が何かしなければと思ったのだ。妊娠していると聞いたとき、どうにかしてやりたいと思ったのだ。いまはそれで、ただ、どうにか——どうにかしてやりたいと思っているのだ。そう言いたかった。言ってやりたかった。だがあまり多くを話すと個人情報に関わるということで、刑事としての倫理観と単に音無に白河のことを知られたくないという気持ちが最後の制止となった。

「そういうわけでしょう」

 喉を鳴らして笑う音無は、トイレにと立ってしまった。憮然として飲み食いをすることしかできなかった。缶を空にすると、もうテーブルの上に酒は残っていなかった。冷蔵庫に取りに行くために立とうとしたとき、酔いが回っていたせいでよろけそうになった。慌てて洋服箪笥に手をつく。体格の良い犬上が体重を預けると、壁との間に隙間があったらしく箪笥がずれた。そして何か、ことりと音がした。

(なんだ?)

 何かが箪笥の裏で落ちたような、そんな音だった。上から箪笥と壁の間を覗くが、暗くて見えない。箪笥をずらして横から手を入れると、肘まで入ったところで指先が硬いものに触れた。そのまま引っ張り出すと、出て来たのはB5のリングノートだった。


「なんだ……?」

 ノートだ。それはわかる。他人の家の、もしかすると個人情報が書かれているそれを、なぜか犬上は無意識に捲った。酔っていたからかもしれない。あるいは何かを——何かを感じ取ったのかもしれない。

 犬上はノートから視線を離し、台所のほうを見た。トイレは台所の隣だ。音無はまだ戻って来ていない。ノートに視線を戻す。これは日記だ。おそらく。本棚は新しいが、タンスは違うはずだ。最初からあった。彼が、記憶を失う前から。記述内容を見ればわかる。書かれている文字は、筆圧がやけに強く、直線的で、神経質な字。

 書かれていたのは、とある女性を襲おうとする計画だった。

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