第14話 新米刑事、記憶喪失の男の先輩の引越しの手伝いをすること
「音無くんは、だいぶ明るくなりましたねー」
焦げ茶色の長方形のテーブルの上の湯呑みを両の手で包み込むようにして握る女の肌の色は濃く、彫りの深い顔立ちである。聞けば、東南アジアの出身らしい。小柄で瞳が大きく、愛嬌のある容姿をしているのだが、立場を考えれば、彼女の隣に座る音無春邦よりも歳上であることは間違いなく、となれば犬上よりもまた歳上ということになる。
「最初は思いましたねー、ハズレだなーって。暗いし駄目だなーって」
女の声に乾いた笑いを返す音無も、女も、服装はTシャツにGパンと、動きやすい軽装だった。テーブルの上に置かれた皿から女が口に運ぶのは薄く切れ目が入った牛タンで、箸は苦手なのかフォークを使っていた。
「急に来なくなったときは、あー、辞めちゃうひとかー、って思いましたねー。でも来るようになってからは良かったですねー」
音無の前にも、犬上の前にも置かれている牛タン定食は三千円超。高級というほどではないが、日頃の昼食料金に比べれば何倍も高い。県の名産とはいえ、食べる機会は滅多にない。それが自分の金ではなく、他人の金で払われるということに対して、遠慮の気持ちとありがたいという気持ちが混在していた。
それでも、食べれば、美味い。美味いなら、余計なことを考えるべきではないという気もする。そもそも、正当な働きの対価なのだ。
「犬上さんに助けてもらったって聞きましたよー。今日も助けてもらいましたねー。ありがとうございます」
「いや……すいません、ご馳走になります」と犬上は改めて礼を言うことにした。
「ぜんぜんオッケーですねー」
「未来の教授先生ですからね」
と音無が言うのは、彼女が音無と同じ大学院の卒業生だからだろう。彼女は犬上と同じ研究室の博士課程の学生だったが、つい数日前にその過程を終えて卒業し、母国へ戻るのだという。大学に行ってない犬上にはそのシステムはよくわからないが、博士課程というものは、研究や論文の進捗によって、卒業が三月にならないというのはままあることらしい。
「わたしの国は博士号持っている人が少ないので、帰れば楽勝ですねー。偉くなったら音無くんを雇ってやってもいいですよ」
と胸を張る彼女はパティと名乗り、それが苗字なのか名前なのかもよくわからなかったが、聞けば名前でも苗字でもなく、ニックネームなのだという。よくわからなかったので、とりあえずそういうものなのだと。納得しておくことにした。
犬上が日曜の昼にパティに昼飯を奢られているのは、彼女が母国に帰国する前の部屋の片付けを手伝っていたからだ。なぜまったく関わりのない人物の引越しの手伝いをするのかというと、音無の頼みである。先日、白河六花のかつてのアルバイト先を訪ねたときに犬上は音無を共連れにしたが、そのときの返礼として頼まれてしまったのだ。
「お金は出せないけど、昼飯奢るくらいならしてもらえると思いますよ。この前はおれが手伝ったわけですし、いいじゃないですか」
曰く、パティと音無の研究室にも他に手伝えるような学生はいないでもないのだが、引越し作業をする日は、学会だの、旅行だの、アイドルのコンサートだので、音無以外に手伝える者がおらず、彼だけでは手に余るということだった。
手伝ったから手伝ってくれ、という理屈は、店で金を払ったんだからいいじゃないかと言い返したのだが、すると彼は「自分が飲み食いしたぶんは返すから手伝ってくれ」と来た。どうやら本当に人手を求めているらしい。
「まぁね、おれは友だちとかいないんで、研究室のひとが駄目だと、ほかに頼るひとがいないんですよ」
それは記憶喪失だから、というわけでもないかもしれない。犬上が音無と出会ったとき、彼の首には自殺の縄目の跡があった。彼は自殺しようとしていた。頼れる友のひとりでもいれば、自殺など思いとどまるところだろう。
そういうわけで、日曜日に白河に筋肉トレーニングと護身術を教えたあと、午後から夕方にかけて部屋の片付けと引越しの手伝いをした。もともとがガサツな人間だという自負がある犬上としては、女性の部屋を片付けるのには苦労しそうだという気がしたが、幸い荷造りはほとんど済んでいるらしく、犬上と音無のすることといえば、段ボールや冷蔵庫などの大型家電を部屋からアパートの前に置かれたレンタカーに移動させることだった。家電は他の学生にあげてしまうので、一度大学へ持っていくらしい。
一通りの作業が終わり、こうして夕方には駅前の牛タン屋で夕餉を奢ってもらえる運びとなった。飯を奢ってもらえるとは聞いていたが、もっと安い店を想像していた。
「犬上さんのお手伝いは助かりましたから、美味しく食べてください。お金は気にしないで。音無くんとは違って、すごく頼りになりましたねー」
「パティさんだって、ろくに働かなかったじゃないですか」
と音無が不満そうに言った。
「わたしは女の子だからいいんですねー」
とおどけるパティを見て、日本語に慣れた外国人というのは本当にこんな喋り方をするのだな、と犬上は思った。これまで外国人とは、中高の英語教師か、派出所勤務だったときに道を聞かれたときにしか会ったことがないが、前者はほとんど日本人と変わらないくらいに話せていて、後者は単語しか言えなかったものだ。
「そういえば、犬上さんはどういう……えーと、事情で手伝ってくれることになったんですか?」
パティは無邪気にそう尋ねてきたが、どう説明したものだろう、と音無を一瞥する。女性に、軽い部類とはいえあのような店の話題を出すのは良くないような気がする。
「言えないようなことですか」とパティは首を傾げた。
「いや、えっと、捜査上の話で……」
「あー、あー、大丈夫です。わかりますねー。タイの男、半分はゲイ。もう半分もゲイになる」
わかっていない。間違いない。
「犬上さんはポリスですよ、ポリス」と音無が説明した。
「あー、警察官ですか」
「パティさん苦手でしょ。よく捕まるから」
「二段階右折は難しいですねー」
「で、その仕事中に、ちょっとおれが手伝ったんです」
「漫画みたいですね、いいですねー」
とにこにこと相槌を打ちながら食事を続けるパティを見ながら、ふと犬上は気づいた。博士課程の学生だったということは、白河六花と同じだ。白河は、確か、理学研究科だっただろうか。博士課程の二年生の一月に事件に遭遇し、それから大学院を休学している。博士課程が何年間で卒業するものなのか知らないのが、卒業したのだからパティは彼女と同級生か、少し上ということになるだろう。彼女に関する話を聞いてみても良さそうだ。幸い、写真は持っている。捜査資料に含まれていたものを、いつも見られるように携帯で撮影したものだ。
「ついでに聞いておきたいのですが」腹が満たされたあと、食後の茶を飲みながら、犬上は携帯電話を開いてパティに写真を見せた。「この女性のこと、知っていませんか?」
携帯電話を両の手で受け取ったパティは、数秒その画像を見たあとで返してきた。
「六花ちゃんですねー」
「知っていますか?」
「同じアレなので」
「アレ?」
「えー」
助けを求めるように、パティが音無を見た。
「研究科ですか?」と音無が言う。
「あー、そうですね。研究科です。理学研究科、だから。いろいろ、オープンキャンパスのときとか一緒にやりますし。一年下なんですけど、良い子でしたねー。でも、何かあって、来なくなっちゃったって、先生が言っていましたねー」
「それは……今年の一月くらいから?」
「そうですねー」
「それまでに、彼女の口から何か……えっと、怪しい人物がいたとか、そういう話を聞いたことはなかったですか?」
「うーん……」とパティは唸って眉根を寄せた。「ちょっとわからないですねー。あんまり、喋るわけじゃない子でしたね。良い子だけど」
「そうですか………」
がっかりしながら、もしパティが白河のことをよく知っていたのだとすれば、果たして自分は何を聞くつもりだったのだろうと自問した。
怪しい人物がいたかどうかだとか、そういった捜査に関する話をしたいのであれば、パティから聞くより、白河本人から聞けば良いのだ。彼女が失ったのは、犯人の顔だけで、そ以外は事件当夜の出来事を覚えているのはずなのだから。
であれば、情報量よりも情報入手経路を重視しているのだ。己はよほど白河に知られずに彼女のことを知りたいと思っているのだ、と自己分析をする。
(おれは………)
最近は、いや、一ヶ月前に白瀬署勤務になってからというもの、白河のことばかり考えている。落ち着かない。あまり居心地が良い状態ではない。そう思いながら、犬上は茶を口に含んだ。
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