第13話 新米刑事、挑むような目つきの女と筋トレをすること

(つまり、少なくとも妊娠五ヶ月ということだな)

 先の話を総合すると、白河が自身の妊娠を知ったのが事件当日なら四ヶ月前で、妊娠発覚している以上は少なくとも一ヶ月経過しているだろうから、少なくとも五ヶ月。犬上の「五、六ヶ月」という予想から外れていない。

 ただし、この予想は早い方にはずれることはないが、遅いほうにはずれる可能性がある。最大の危惧は、最初に彼女が自身の懐胎を知ったのがどの時期かと言う問題だ。一ヶ月や二ヶ月で検査薬を使ったのなら予想は正しくなるが、そうではないのならもっと長い妊娠期間である可能性もある。

 記録によれば、白河は二十七歳だ。それはつまり、犬上の五歳年上ということだが、いわゆる「良い歳」に分類される年齢だろう。女性にすれば、焦り始める年齢かもしれない。犬上にはそれくらいの年齢のほうがちょうど良いと思えるのだが、周囲からとやかく言われるのであれば、焦りは仕方がないものだ。加齢によって出産のリスクが増えることも考えれば、理解はできる。であれば、彼女は身体的に何か異常が起きたと気づいてすぐに検査をしたかもしれない。それなら、やはりこの推定は正しいはずで、しかしあくまで推定でしかないのであれば、やはり正しいことを知るためには本人か本人を診察した医者に訊くのがいちばんだ。しかし医者は教えてくれず、捜査令状を偽造するのは止められてしまった。つまり本人に訊くしかない。訊くのは自分は彼女に護身術を教えるためにここにいるのだが、身体に障らないような鍛え方を考慮するにあたって、どのくらいの状態なのかを知る必要がある。だから尋ねるのは何もおかしくはない。


「護身術を教えたいのですが、どれくらいの運動がしても良い範囲かを知るためには、妊娠何ヶ月か知っておきたいと思います」

 六花のかつての仕事場を訪れてから三日後の日曜日、犬上は待ち合わせ場所となっている公園で、淀みなく言えるように何度も練習した言葉を口にした。

 してしまった。

 口にしてから、どっと汗が流れ出るのを感じた。

 そもそも白河に知られずに彼女のことを知るために、かつての仕事場を訪ねたり、公文書偽造したりまでしようとしたのだ。それなのに、結局直接尋ねるという、もっともやりたくはないことをやってしまった。それなのに、なぜこんなことを口に出してしまったのか。昨夜、喋る内容を紙に書いてから繰り返し練習しているときに気づかなかったのか。


「お医者さまの話では六ヶ月ということです」

 予想に反してあっさり、あまりにもあっさりと答えられてしまった。気持ち悪いと言われることはなかった。準備体操をしている六花の表情にも変化がなく、しかしそれは努めて無表情を保っているのかもしれない。腹の中はわからない、などというレトリックを考えていると、しぜんと視線はその膨らんだ腹に向いてしまう。

 すぐに視線を戻したつもりだったが、その頃にはもう六花は準備運動を終えて、犬上のことを睨んでいた。

「今日はどうすればいいですか?」

 そんな問いに、ああ、と頷くだけでも声が上擦らないようにするのに気を遣った。


 先週は体力や筋力をチェックし、簡単に相手の指を取って動きを制御する方法を教えようとした。が、彼女の筋力はあまりにも弱かった。犬上は刑事で、女性というと同僚である。一定以上の武道を修めた女性ばかり見ているので、もしかすると六花が女性としては普通の部類なのかもしれない。

 護身術というのは弱いものが身を守るための方法だ。強いものは筋力にものをいわせれば良いのだから、弱いものにこそ使わせるべきなのだ。だが六花の力は犬上の予想を超えていた。もちろん、悪い意味で、だ。生半可な護身術を身につけさせたところで、敵を激昂させて逆に危険に陥らせそうな気がする。

 だから筋力がいるのだが、走るのは駄目だろう。激しい運動は良くない。彼女には圧倒的に筋力が足りないわけだが、筋肉トレーニングで力むのも良くはないはずだ。何を教えろというのか。

 教えることがないなどということになれば、その時点でこの週にたった一度の機会さえもが失われてしまう。だから犬上は必死に考えてきた。

「とりあえず歩きましょうか」

 ふたりで公園のランニングコースを歩く。日光を避けられるように配置された木々のおかげで日差しは強くなく、コースにはゴム材が敷き詰められているために膝にも悪影響が少ない。


 六花の歩みは遅い。いや、動作自体はきびきびとしているのだが、歩幅が犬上とは違いすぎる。表情は生真面目で、早足気味なのは犬上に合わせようとしているのかもしれない。まっすぐに前を見ながら早歩きをするその姿は、なんとなく可笑しさがある。

「今日は先週みたいな、動きの練習はしないんですか?」

 急にその目がこちらを向いたので、犬上は足を止めそうになった。早足のせいか、息が荒い。

「今日はその前に筋力トレーニングをしようと思っているんですが、身体を温めてからのほうが効率が良いので……えっと、身体に負担をかけない筋トレの方法と、この前の指取りの方法をもうちょっと教えようかと」

「はぁ………」

 いまの「はぁ」は溜め息ではなく単なる相槌のはずだ、と犬上は己に言い聞かせようとしたが、期待外れに感じられているのかもしれないと思えば焦燥感があった。軽い気持ちで護身術の練習に承諾したものの、期待していたような効果はまったく得られそうもないし、もう止めようか、などと思われるわけにはいかない。犬上は六花とのこの時間を継続させたかったし、彼女には楽しんで欲しかった。なにせ、日本臨床スポーツ医学学術委員会の妊婦スポーツの安全管理基準にも「楽しく長続きするもの」が望ましいとされているらしいのだから。


 とりあえずは新しいものを導入するのは興味を惹かせるのに大事だ、ということで、ウォーキングを終えたところで、置いておいたボストンバッグから道具を取り出す。

「とりあえず指と手首の力を鍛えましょう」

 手の力を鍛えるハンドグリッパー、回転させて手首の力を鍛えるパワーリストボールなどを使い方を教えながら手渡す。

「あまり力まなくていい負荷のものにしたので、力まずに指や手首が鍛えられると思います」

 道具の使い方の説明を聞く白河の瞳はいつもより大きく開かれていて、器具に興味を持ってくれていることがわかった。彼女は理系の大学院生であったというから、もしかすると見たことがない道具はそれだけで面白いと思ってくれるのかもしれない。少なくとも犬上と会話をしているときよりは、興味を持っているように見える。


「これはなんですか?」

 道具のうちのひとつ、中央に糸巻きのついた棒を握って問いかけた。糸の先には錘がついた道具で、犬上も名前はなんというのか忘れてしまった。

「これは、こう」と犬上は実践して見せてやる。「腕を水平に伸ばしてですね、ぐるぐると」

 腕を前に向けて水平に伸ばすのは、それだけで筋力を使うし、さらに手首の力だけで糸を巻き取るのにも訓練になる。

「なるほど」

 と言いながら、受け取った道具で白河も実践する。手を伸ばした段階で既に腕が震えているくらいなので、十分な効果が期待できそうである。


「これは……いくらくらいするものなんですか?」

「もともと持っていたものなので、お金とかは特に」

 答えながら、返答はこれで良かったのだろうか、と自問する。白河は、道具の金を払うなどとは言っていなかったが、それを言いたかったのだろう。しかし回り込み過ぎたような気がしないでもない。何を言っているのかこの男は、などと思われやしないだろうか。

「そうですか………」

 思案気な顔で白河は手の中の道具を見つめた。やはり気を急いた返答になってしまっていたか。それとも、もともと持っていたというのは一部は嘘で、ハンドグリッパーなどは白河のために握力が弱いものを買い揃えたということに気づかれてしまったか。


「あなたは………」

 視線が犬上を射抜く。初めて出会ったときの挑むような視線とは少し違う、どこかもっと深いところを覗くかのような視線だ。犬上は蛇に射すくめられる蛙のように固まるのを感じた。

「筋トレが趣味なんですか?」

 犬上は震えた。これは自分に対する興味を示す問いかけだ。こんなことは初めてだ。なんだ、筋トレが趣味だと? そうだ。それで、ここからどうやって話を広げればいい? 果たしてこれは外聞の良い趣味だろうか。あまり——もちろん多少の初期投資は必要だが、あまり金がかからない趣味というのは好感が持たれるものなのではなかろうか。しかし学生の頃、同じクラスの女子生徒に似たようなことを問われ、肯定したら「汗臭い」と言われた。汗臭い。そうだ。少なくとも今はそうだ。しかし今は白河も同じで、であれば汗臭いとは言われないだろう。問題は印象が良いかどうかで、そこがわからない。署か寮に持ち帰ってじっくりと検討したいが、許されないだろう。


「そうです」

 とりあえず頷いてから、しかし筋トレという趣味は白河の趣味とはかけ離れているだろうなと気付く。彼女の趣味はなんだろうか。運動ではないことは間違いない。読書か。尋ねたらそんなことを言いそうだ。趣味の不一致は男女間で問題になりうるのではないか。

 何かフォローの言葉を言おうかと思ったが、既に白河の視線は手元のトレーニング器具に戻っており、犬上への興味を失っているように見えて、それで、だから、何も、犬上は言えなかった。


 トレーニングを兼ねて鍛錬の具体的な方法を教えたあと、先週と同様に護身術を教えた。実演をしながら指を握ったり、握られたりした回数を数えた。終わってから、白河を飯に誘った。

「いえ、今日は………」

 逡巡したあと、曖昧に言葉を濁して断られた。先週誘ったときは、即断だった気がする。今日は、という言い方も含めて、多少は進歩しているような気がした。そう思おうとした。

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