第12話 新米刑事、記憶喪失の男とともにキャバクラに入ること
煌びやかなのに暗く感じるのは、照明の角度が広くないからだろう。照明装置の位置が低かったり、ところどころ障壁で隠しているせいもあるかもしれない。天井は白く、掃除は行き届いている。そこからさらに視線を下げていくと、肩紐で吊った丈の短いワンピースや日常生活では着難いような胸元の空いたドレス姿の女性が目立つようになる。男もいるのだが、そちらはTシャツジーパンというラフな格好からフォーマルなスーツまで幅が広く、年齢もまちまちなのに対して女は若い者ばかりなので対照的だ。胸元や肩、太腿の肌色が見えているのは目の毒で、犬上の視線はどうしても天井か、でなければ床へと向いてしまう。
ウェイターの男に案内された席はレストランのボックス席のようだが、シート同士が平行に並んでいるのではなく、コの字型になっている。
「犬上さん、これ、どこに座るんですかね」
と後ろから男の声が犬上に質問を投げかけた。犬上だって知らない。が、突っ立っていても仕方がないのでコの字の平行に並んでいる側の片方の奥の方に座った。
「あんたはそっちに」
「なんかそれだと、女のひとを囲うようになりません?」
「そういうもんじゃないのか」
「逆じゃないですか? 店員さんが男を逃さないようにするのが目的なのでは」
どっちだっていい、どうせ本来の意味での客ではないのだから、と言ってしまうと、犬上の同行者——音無春邦は言われた通り犬上の向かいに座った。
「犬上さん、さっきも言いましたけど、おれ、金はそんなに持ってないんですが」
「とりあえず、おれが出す……」と受け答えながら犬上は己の財布の中を見た。「いや、おれもあんまり金は持っていないが。だからあんまり注文しないで」
「はぁ、まぁ、それはいいですけど」
こんなことになったのは、牛草から渡された『白河六花が働いていた店』であるはずの場所にあったのは駅前の風俗店だったからだ。地図を確認し、店名も確認し、何かの間違いではなかろうかと店の周りを一周してみても似た名前の店名などほかにはなく、であれば牛草がこの店に誘導したのはどうやら間違いないらしいというところまでは理解した。
なぜこの店に誘導したかという疑問に対する仮説は二つで、ひとつは牛草が犬上を騙しているという可能性。白河のことでうだうだと悩んでいることに業を煮やし、ほかの女でその欲求を解消せよと言っているのかもしれない。しかし彼ならそういった店には直接連れて行きそうな気がする。それにこの店は風営法の第二条で閾となっている十ルクス以下というほどには暗くはないが、風俗店ではあるものの、より直接的なサービス接客のセクキャバだとかピンサロではなく、性的接触のないキャバクラだ。連れていかれるなら、前者のほうが好ましい。
もうひとつの仮説は、本当にこの店が白河が働いていたという可能性であったが、犬上にはそれが信じられずに立ち尽くしてしまっていた。
「犬上さん?」
そんな折に投げかけられた声があった。聞き覚えがあるとは思ったものの、即座に誰のものであるかを思い出すことはできなかったが、振り向いてみればすぐにわかった。音無春邦である。パーカーにジーパンというラフな格好であり、視線はどこか——いつもぼんやりとした男ではあるが——宙に浮いていた。なるほど酒の匂いがするからには、呑んでいたらしい。
聞けば大学の研究室の飲み会が終わったところで、これから帰路につくところだという。犬上は反射的に「いま、忙しいか」と尋ね、半ば無理矢理に彼を店の中へ連れ込んだのだった。
「何か捜査なんですか? ここの人に聞きたいことでも?」
「まぁ、いや、そう」と歯切れの悪い返答になってしまったことを犬上は自覚した。「捜査は捜査なんだけど、通常業務じゃない。うちの署で捜査する範疇ではなくなっているから。県警の預かりになっている。だから仕事終わってから来た」
「よくわからないんですが、あれですか? よくある、所轄署と警視庁の対立みたいなのがあって、おれたちは足で捜査するぞ、みたいな」
「対立はしていないけど、まぁ、そのようなものかもしれない。だから捜査権限はないし、経費で落とすこともできない」
「まぁ、なんとなくわかりました。で、なんでおれが一緒に?」
「ひとりだと入りにくい」
「なんですか、それは………」
「だから不可抗力なんだが、関係者に関する情報はあまり聞かないように」
「聞かないようにって言われても、この距離だとそれは難しいような……」
「できる限り、聞かないようにしてくれ。でなければ、忘れてくれ」
「まぁ、努力しますけど……おれはここで飲んでいればいいんですよね?」
「飲まないでいてくれるともっとありがたい」
「いや、多少は飲みますよ。せっかく来たんだし……こういう店って、何時くらいまで開いているんですかね」
「風営法だと二十五時までだな。まだ大丈夫」
腕時計で時間を確かめながら、なぜこの男と一緒に来てしまったのか、と犬上は自問した。答えは即座に出せる。ひとりでは心細かった。そして、近くにいた。
思えばこれ以上ないほど適当な人材である。地元ならともかく、この辺りの知人となるとどうしても仕事関係になる。職場の人間にあまり知られたい店ではない。音無であれば、職場の人間とは無関係なうえ、同性で歳がほとんど同じというのも良かった。あまり気遣わずに済む。
ウェイターが注文を聞きに来る——飲み物の注文ではなく、女の注文だった。こうした指名にも料金が上乗せになるのだろうか、という疑問は質問できず、犬上は警察官であると名乗らないままで「一年以上継続的に勤務していて、出勤回数が多い人物」を指名した。
「なんですか、いまの」
とウェイターが去ってから音無が訊いてくる。
「ここに勤めてた人の話が聞きたいんだ……だから細かいことはあんまり聞かないでくれって」
「いや、やっぱり聞こえますよ、この距離」
「聞いてないふりでもしててくれよ」
「犬上さん的には、それで満足なんですか?」
「ほかに方法がないだろう。耳を塞いでてもらうわけにもいかないし」
「塞いでたら酒が飲めませんからね」
「二の腕と掌で両耳塞げば片手が空く」
などと言い合いながら料金のシステムを卓上に置かれた説明書きを見て調べているうちに女が来た。肩も膝も露出したワンピース姿で、化粧は濃かったが年齢はそこまでいってはいないように見えた。とはいっても若くも見えない。せいぜいが三十代前半だろう。
愛想の良いその女——遥と名乗ったが源氏名だろう——に、犬上は正直に自分が刑事であり、事件について調べるためにこの店に来たということを説明した。
「ということは……お客さんではない?」
と小首を傾げる女に対し、「いや、客としては来ていますが、いろいろと話を聞かせてもらいたいと思って……」と犬上は応じた。敬語になってしまった。いや、丁寧語なのは問題ではなく、話を聞きたいときはいつもこうなのだが、なんだか下手に出ているようになってしまったような気がしないでもない。
「お金は払う?」
「まぁ、飲んだぶんは」
「うん」と遥嬢は満足そうに頷いてにっこり笑った。「ええと、じゃあ何を飲みますか?」
これは職務中だろうか。ならば飲むわけにはいかないのだろうか。それを考えかけて、どちらにせよ、相手の女にまともな捜査をしていると思わせるならば飲まないべきだろうし、自分の理解のためにもそうするべきだろう。話の内容を忘れてしまい、また話を訊くために音無を捕まえて同行させるのは馬鹿馬鹿しい。
割高の烏龍茶に口をつけながら、三ヶ月まえまでこの店に白河六花という女が勤務していたかどうかを尋ねる。
すると返って来た反応は「あなた、本当に刑事さんですか」というものだった。
「は?」
と頓狂な声をあげてしまった犬上に対し「だって、前に聞いたことを訊いてくるので……いや、警察は何度も同じような話をさせるっていうのは知っていますけど、六花ちゃんが勤務していたかどうかなんて、明らかにわかりきっていることを尋ねてくるなんて………」
では犬上ことをなんだと思っているのか。白河のストーカーか。そう思うならそうで、疑るようなことは言わないほうが身の安全なのではないか、と言いたくなったが、言葉にすれば脅しのような文句な気がしたので控える。
自己紹介をしたときに見せた刑事手帳をもう一度見せてやり、そこに書かれている名前や貼り付けられた写真が間違いなく犬上を示していることを懇切丁寧に説明してやった。
「じゃあなんであんな周りくどい聞き方をしたんですか?」
とあくまで食い下がる嬢に、犬上は考えた。嘘を吐くことは容易く、騙し通すのは難しい。もともと自分は嘘が苦手な部類だ。
「捜査は捜査で」と犬上は断片的に真実を語ることに決めた。「うちの所轄で起きた事件だったんですが、事件が特殊だったので県警の捜査に指揮が移って、それで……そのあと捜査が進展しないままだったので、こちらで独自に捜査に乗り出したんです。情報が十分に伝わっていないのは、単におれが四月から刑事になった人間だからです。県警に指揮権が移ってしまった事件なので、あまり細かい情報が伝わっておらず、だから確認するような訊き方になりました」
「それで?」
「それでって………」
これ以上説明が必要か。足りないか。何が足りないというのだ。
「事情はまぁわかりましたけど……それで、刑事さん? どうして自分の手から離れたっていう事件を捜査するんですか? ほかにも解決していない事件なんてたくさんあるんじゃないですか? どうして刑事さんが自分の仕事場の手を離れた六花ちゃんの事件を再捜査しているんですか? こんな夜に。夜勤ならともかく、もうお仕事は終わりの時間じゃあないんですか?」
「それは………」
遥から視線を逸らすと、音無がいた。ハイボールを飲みながら、こちらを興味津々な様子で伺っている。こっちを見るな。
「おれはですね、先日、白河さんに会って………」
会って、なんだ。言葉が続かない。
すると遥が大袈裟に溜め息を吐いてから言った。「だいたいわかりましたよ。刑事さん——刑事さんだってことはもう疑っていないですよ——あなた、六花ちゃんのことが好きなんですね」
「いや、違いますよ。行きがかりで会って上司から話を聞いているうちに事件が未解決のままでいるのが許せなかっただけで、個人的な事情は一切関係ないです」
「そんな急に早口になられても……」
早口になったつもりはない。正直に思ったことを言っただけだ。いま言葉が急に出て来たのだ。
「ま、いいですけど、あなた……犬上さん? は、お酒は飲まないんですか? 飲めない方?」
「いや、そういうわけじゃなく、酩酊すると困るので……仕事中ではなくても捜査中だし」
「あちらの方は飲んでいますけど」と遥は音無を一瞥する。「あなたはそんなに酒が弱いんですか? 飲むとすぐに正気を失くすとか」
「そういうわけじゃ……いや、あいつは知り合いで、刑事ではないです」
「そうなの?」と遥は首を傾げる。「まぁ、それはいいです。では、賭け事とかはしますか? パチスロとか競馬とか」
なんだ急に、とは訝しみつつ、しかし下手なことを言ってまた詰問されたら堪らないので、おとなしく答える。「いや、自分はギャンブルは好きではないので………」
「ふぅん……」遥も己の酒に口をつけ、テーブル越しに犬上をじろじろと眺め回してから「何歳ですか?」などと訊いて来た。
「二十二歳ですが……」
「わっかいなぁ」
と反応するからには、やはり相応の年齢らしい。この女性を納得させるためには、もう少し言葉を連ねないのかもしれない。
「確かに若いかもしれませんが、おれは派出所から真面目に勤めていますし、勤務態度が認められた結果、希望していた刑事課にも配属されました。頼りないと思わないでください」
少し無遠慮だっただろうか、と思わないでもないが、若いというのはそれだけで舐められる。これでいいのだ、と犬上は自分に言い聞かせた。ここまで来たのだから、情報を引き出さなくては、と。
「年収は?」
「は?」
「年収。刑事さんって、派出所の警察官とかよりお給料良いんですか? 若いとやっぱり微妙?」
「なんでそんな……」
「先立つものって、大事じゃないですか? 前のアレみたいなのは困るし」
「前のアレって………」
「六花ちゃんの死んだ恋人」
わけのわからない切り口ではあったが、唐突に興味の惹かれる話題になった。六花の恋人。そう、彼女と同棲していたという男。そうだ、同棲していたくらいだ。でなくても恋人なのだ。彼女は男を愛していたはずなのだ。だから殺され、それでなく犯され、憤り、悲哀を抱えながら、記憶から抜け落ちた犯人を追い続けているはずなのだ。
だが目の前の、六花をよく知る女はこう言うのだ。
「あの男が死んだのは不幸中の幸いだったけどね……」
と。
「ちょっと待ってください、あの……どういうことですか?」
「どういうって?」
「あの男っていうのは……白河さんの死んだ恋人のことですよね?」
「だから、そう言っています」遥は大きく溜め息を吐いた。「あの子は頭が良いとは思うけど、男関係はダメなんだよなぁ……」
「白河さんとその恋人は、仲が悪かったんですか?」
「恋人っていうのもなんだかなぁ、って思いますけどね。ヒモっていうか……うーむ、ヒモは女のほうがバリバリ稼いでいる場合ですよね。六花ちゃんは学生だったわけだし、微妙に違うか。まぁ、ダメ人間でしたよ。それでも六花ちゃんは、いつかは良くなると思っていたみたいですけどね。なんでダメ男に引っかかる女ってああいうこと言うんだろ。頭良いけどアホなのかな」
犬上はこれまでこの事件に対して思い描いていた構図が土台から崩れていくのを感じた。白河六花という女がだんだんと——いや、もともとわけがわからない女だったが——理解できなくなっていくのを感じた。
テーブルの向かいの音無を一瞥する。酒に口をつけてはいるが、聞き耳を立てているように見えないでもない。犬上の視線に気づいてか、彼は肩を竦めた。この距離なら話は聞こえてしまうのだから仕方がないだろう、とでも言いたいのかもしれない。
「とりあえず……ええと、すいませんが、白河さんが最初にこの店に来たときのことから話してもらえませんか?」
犬上は音無のことは諦め、居住まいを正して遥に向き直った。彼女はメニュー表を持ち、にこやかにその中の酒を指差す。大丈夫だ、なんとか払える範囲内だ、と唇を噛んで、彼女のために酒を注文した。
「六花ちゃんがここに勤め始めたのは二年くらいまえからだったかな」気分良さそうに酒を飲みながら、遥は語り始めた。「最初はねぇ、なんでこんな子が、って思ったんですよ。だって、大学……じゃないや、大学院の学生さんっていうじゃない? 大学生でっていう子はけっこういますけど、理系の大学院生の子ってのはあんまりいないかなって思いますよ」
確かにそうかもしれない、と犬上は思った。刑事の彼にしても、こういった場所は彼女に相応しくないと感じる——だからこそ、彼女がここで働いていたということを最初は間違いだと思ったのだが。
「店ではどんな具合で……」
「わりと人気はありましたよ。ちょっと口下手だけど、可愛いし、いつもにこにこしてるしね」
(にこにこしている……?)
犬上は無表情か不快そうな表情か挑むような表情の白河しか見たことがない。にこにこした彼女など、想像できない。
「あと、お店の役にも立っていましたね。さすがっていうか、パソコンが得意だから、売り上げと在庫管理の手動でやってた部分を、なんかパソコンでばしゅばしゅやってくれて、かなり楽になったって店長が言ってましたよ」
「彼女がこの店で働き始めた理由は……」
「その彼氏が借金したから。いちおうあの子、奨学金貰っていて、自分ひとりで生活するには苦労しない程度だったらしいんですけどね……あの無職のアホ男のせいで働かなくちゃいけなくて」
「働かされてた?」
「本人はそうは言ってなかったけどね、でも、そういうことでしょ」
仲睦まじい、結婚を控えた恋人の片方が殺され、片方が強姦されて殺されかけた——そんな事件だと、犬上はずっと思っていた。だが、その前提は間違っていたということか。
「いちおう、仲は悪くはないというか、六花ちゃんは、いつか良くなると思っていたみたいだけどね。なんだろう、あの子は、いわゆるダメ男好きなのかな。まぁ、最後は別だったけど」
自分はダメ男の分類に含まれるだろうか、と犬上は考える。少なくとも借金はないし、定職にもついている。六花が自分のことを睨むような目で見るのは、ダメ人間の素養がないからだろうか——と考えかけ、いま着目するところはそこではないと首を振る。
「あの、最後、って……?」
「あの子が最後に仕事に来た日。だから、えっと、事件の日だね。出勤してきたとき、喧嘩したらしくてすごく泣いてて——殺してやりたいって言ってたから……。それまでは、ダメ人間だけど、いつかは良くなるだとか、悪いことはなかなか言わない子なのに」
犬上は、六花とその恋人の間での喧嘩の原因について考え、それを確かめるために尋ねた。
「あの、喧嘩の原因というのは………」
「子どもができたんだけど、堕ろせって言われたって」
予想通りの答えが返って来た。
「その子は、本当に、その、死んだ恋人との子どもだったんですか? たとえば………」
「ここは性的接触は禁止ですよ」
と遥はにっこりと笑ってから、真面目な表情に変わった。
「まぁ、客を繋ぎ止めるためにやっちゃう子もいますけど……あの子はそういうタイプじゃないからなぁ。あの男のなんでしょ。正直ね、喧嘩の話を聞いたときは、良い薬だって思ったんですよ。六花ちゃん、視野狭窄というか、周りが見えていないかんじで、馬鹿だなって思ってたから、ようやく冷静になったかなって。でも……事件の話を聞いたときはそれまで溜まりに溜まったストレスが爆発して、あの子がほんとに殺したんじゃないかって思っちゃいました」
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