第11話 新米刑事、偽造書類を作ること

 月曜からはまた仕事だ。外を歩きまわり、警邏を行い、事件の調査をし、と足を使って動いているうちは良い。

 だが署に戻って足を止め、報告書を書くとなるとどうしても日曜の白河六花とのことを思い出してしまう。

 彼女の細い指では護身術など形にできないことがわかったあとは、筋力をつける努力をしなければいけないという課題が目の前にそびえ立った。犬上は筋肉の鍛え方は知っている。だが、妊婦の身体に負担がかからない鍛え方を教えるのは初めてだ。幸い、白河に会う前に初心者用の護身術やトレーニング方法だけではなく、妊婦の運動に関する本も漁り、読んでおいたため、昨日はひとまず軽い運動をすることで事なきを得たのだが、自分の知識が不十分だということを再確認できた。とにかく、白河を運動させるというのは不安だ。特に筋力トレーニングは身体に負担をかける行為なので、しぜんと力むことになるのだが、力を籠めることは全般的に母体に負担がありそうな気がして、本で調べたはずのことなのに不安ばかりだった。

 不安だったのは、彼女の妊娠周期を知らなかったせいもある。妊娠三ヶ月なのか、五ヶ月なのか、八ヶ月なのかで、どれくらいまで運動を許容できるのかは違うだろうに、それが知らないのでは最大限に配慮するしかなかった。だが調べ直して見ると、おおよその推測はできないでもなかった。


 よくドラマなどで、トイレに駆け込んだ女性が嘔吐したり、しかけたのちに妊娠を示唆するシーンがあって、そういう場合、場面が暗転したあとに病院に行き、妊娠の事実を告げられるわけだが、たいていは妊娠三ヶ月というパターンが多い気がする。サンプルが少ないので思い込みかもしれないが。

 なぜ三ヶ月なのかを妊娠について調べたときに考えたが、だいたい三ヶ月を境にして、悪阻が酷くなるからだろう。話を作る場合、悪阻を気に妊娠の事実を気づかされるわけで、そうすると悪阻の強い時期を妊娠を知る時期として確定するのがわかりやすいというわけだ。

 だが実際のところは三ヶ月経たないと妊娠が発覚しないわけではない。

 精子という弾丸が撃ち込まれたあと、卵管にある卵子に到達して受精卵になったところで受精が成立するわけだが、その受精卵が卵管から子宮に移動をし始める。排卵日、子宮に到達すると着床し、妊娠が成立する。これがおおよそ一ヶ月の間で起こる。妊娠成立するとhCGホルモンだとかいうものが徐々に排出されるようになるらしく、妊娠検査薬はこのホルモンを検知するらしい。参考にした本ではhCGホルモンが具体的にどのようなものかというのも書いてあったが、機能は理解ができなかった。ホルモンというと焼肉屋か居酒屋でしか聞かない単語だ。想像しようとすると、だから白っぽい肉の塊が思い浮かんでしまう。


 まぁともかく、ホルモンが出るのだ。出るのは徐々に、なのですぐにというわけではないが、それで妊娠検査薬で調べられる。検査薬の使い方は調べた本では載っていなかったので、おそらくは妊娠検査薬そのものに説明書でもついているのだろう。実際に購入して見てみようと一瞬思ったが、よくよく考えてみると犬上は妊娠検査薬の使い方についての知識が欲しいわけではなかった。妊婦そのものの扱いが知りたいのだ。

 妊娠検査薬を使うということは、妊娠の兆候があるという自覚があるということになる。ではわかりやすい兆候で何があるかというと、まずは生理が止まることだろう。常なら月に一度はあったものが止まるのだから、相当のことではなかろうかと男性の犬上は思ってしまう。妊娠検査薬など使うまでもなく、一月目、あるいは二月目で気づくのでは、と。

 だが実際のところ、生理不順というのはよくあることらしく、それだけでは判別がつかないということで、妊娠検査薬を使ったり、悪阻が酷くなる三ヶ月目まで待つことになるのだという。悪阻は妊娠四ヶ月目になるとだいぶん改善される場合が多いという。


 さて、白河である。

 彼女の嘔吐について、医者は「悪阻だ」と言っていた。であれば、白河の妊娠は三、四ヶ月目程度なのか? そうだとすれば、彼女の恋人が殺害され、彼女自身が強姦されたのがその頃だ。では、やはり彼女の胎の中の子は犯人の子なのだろうか?

 しかし、三ヶ月で悪阻が酷くなり四ヶ月目に突入すると弱まるというのは、あくまで一般論だ。誰もが当てはまるというわけではない。

 それに彼女の身体——白河の身体、だ。昨日は、可能な限り気づかれないようにしながら、ずっと白河の身体を見ていた犬上だが、本に載っていた参考写真と比べる限り、彼女の腹は三、四ヶ月のそれではない。本に載っていた参考写真では、五、六ヶ月目に近い——ような気がする。四月以前の彼女を知らないのだが、身体の線を隠せるような服を着ていれば目立ちにくいが、じっくり見れば明らかにわかる腹だった。思えば彼女は最初にあった一ヶ月前から身体の線を隠せるような格好だったので、先月から既に腹を気にするような状態だった、というわけだ。

 そういうわけで、五、六ヶ月だ、というのが現在の犬上の推測だ。


 五、六ヶ月目なら、ある程度は胎児が安定している時期——だと思う。おそらく。二ヶ月あたりが絶対過敏期だとかいわれ、薬物等の効果が大きく危険性が高い時期らしく、薬物以外の影響でも同じだろう。推測であるし、やはり気をつけなければいけないのは変わりはないが、気の持ち方がだいぶ変わる。

(それに……妊娠五、六ヶ月なら、事件の日にできた子どもではないということだ)

 強姦されたときの子どもではない——それは犬上にとっては安堵するべき事実であると感じた。それはつまり、彼女の胎の中の子が、陳腐な言い方をすると愛の結晶で、亡き恋人との思い出だということだ——犬上にとってしてみればどちらにしろ他人の子だが。当たり前だ。それを気にすることはないのではないかという気もしないでもない。

 まぁ、子どもが誰の子だなんてことは良い。大事なのは、彼女の身体だ。妊娠五、六ヶ月程度とわかっていれば、調べてその通りの対応ができる。


 問題があるとすれば、その妊娠期間があくまで犬上の推測に過ぎないということだ。犬上は妊婦ではないし、妊婦の知り合いはおらず、これから妊婦になる予定もない。確実なことは何も言えない。身体のことを気にするのであれば、やはりしっかりと尋ねたほうが確実である。

「白河さんは、妊娠何ヶ月くらいなんですかね?」

 いつものように悪戦苦闘しながら報告書を書きつつの問いかけは、隣のデスクの牛草刑事へのものだ。彼は犬上が白瀬署にやって来るよりも前に事件に関わっており、犬上よりも白河について詳しい彼なら、白河に関する詳細を知っているかもしれない。少なくとも彼は、妊娠のことを知っていた。

「本人に訊けよ。おれに訊かれても答えようがない」

「いや、そりゃできないでしょう」

「おまえ、そういう質問は気持ち悪いぞ。いいから手を動かせ」

 と指摘され、素直に黙る。さらに手を動かそうとするが、考え事をしているうちは秩序だった記述などできるわけがない。今日は強盗事件があって犯人を捕まえはしたのだが、犯人の腕と足を折ったので報告書にてそれを弁解しなければいけなかった。


(うーむ、気持ち悪いか)

 報告書から視線が浮き、牛草に言われたことを反芻する。自分は歳若くして未亡人になった女性の妊娠期間を気にかけているわけだ。言われてみれば気持ち悪い行動のような気がする。気持ち悪いという表現はストレートで、先輩刑事であり裏表なく犬上に対応してくれる牛草に言われても、相応に心にくるものがある。

 これを白河に言われたらどうだろう、と考えてみた。

「気持ち悪いです」

 白河の声を思い浮かべた。

 犬上は立ち上がった。勢いで椅子が倒れた。

 直してから、隣の牛草に向き直る。

「ちょっとトイレに」

 足早に同階の男子便所に向かった犬上は、小便器へと向かわず手洗い場に両手をついた。頭の中で何度も白河の——想像の白河の言葉が思い返された。気持ち悪い。思い返したくないのに、何度も何度も反芻してしまった。彼女の表情は、挑むような視線と冷たい声調しか知らない。であれば、再生される言葉の色も凍えるようだった。


 泣きそうになってきたことを自覚すると、実際に瞳が潤んで涙が頬を伝った。泣いたのなんて何年振りだろう。久しぶりに泣いたのに、その理由がこれか。自分は情緒不安定だ、と自覚する。おかしくなっている。

 泣いたのを誤魔化すために顔を洗ったのだが、結果的には頭が冷えた。あるいは、涙を流したことで気分が安定して冷静になったのかもしれない。なんとか報告書を書き終えることができた——二十二時を半ば以上に回っていたが。

「終電には間に合いそうだな」

 と犬上の報告書が上がるのを待ち、最終的な確認をしてくれていた牛草が嘆息した。警察寮に住んでいる犬上とは違い、彼は家に細君を待たせている。とはいえ数十年刑事の妻をやっているのであれば、旦那の帰りが遅くても心配することではないのかもしれないが。

 彼は最後に赤で誤字脱字や表現の修正を書き加えた報告書を突っ返してきた。牛草は報告書の内容そのものについては答えをそのまま示してくれることはなく、常に誘導するだけで、おかげで時間が食うのだが、表現や文法については国語教師かと思うほど厳しい。文法に使う力を内容に使ってくれれば犬上ももっと早く書き上げられるだろうに、そうしないのは彼なりの教育なのだろう。理解はできるが、牛草には家族との時間を優先させてほしいと思う犬上だった。


 残りの修正と係長への提出を犬上に言い残し、牛草は先に警察署を出て行った。捜査一係の窓から彼の背中を追い、見えなくなったことを確認したのち、犬上は指摘された通りの箇所を修正し、印刷した報告書を捜査一係の係長の机の上に置いた。これで今日の仕事は終わりだ。仕事が終わりということは、自分の時間ということだ。

 犬上は己のデスクのいちばん下の引き出しを開き、その中の書類箱の最下部から一枚のファイルスリーブを取り出した。入っているのは二枚の紙。一枚は捜査令状のコピー、もう一枚はそれを元に犬上が模倣したものである。

「礼状でもない限りは、たとえ刑事だろうと個人情報は教えることができない」

 と白河を診察した医師は言っていた。言っていたならば、では令状を用意してやればいいのだ。

 もちろん、令状を取るにはいくつかの段階を踏む必要があり、白河の事件の捜査の主軸が既に県警の手の元へと移ってしまった現状となっては、所轄署の一刑事である犬上が適当な理由をでっち上げて発行できるものではない。

 だが犬上は刑事である。捜査令状そのものは何度も見たことがある。他の事件のもののコピーであれば簡単に手に入る。

それを元に、苦心しながら不慣れなパソコンを操作し、報告書書きの合間を縫って作り上げたのがこの偽捜査令状である。先週の月曜日から作りはじめ、一週間かかってしまったが、出来上がりは相応のものがあり、既に印刷済みで、見本と見比べる限りでは遜色ない。刑事相手では怪しいかもしれないが、そうそう令状など目にする機会がない医者ならば騙せるだろう。


 残りの問題は、署長印だ。さすがに判子は手に入らない。カラーコピーでは、肉眼でも偽物と判別できてしまうような出来栄えになってしまうだろう。そうした理由から、爪楊枝の先を朱墨に浸して筆のように使い、判子の線を模写することにしたのである。

 既に必要な道具は近くの文具店で購入してある。あとは形にするだけだ。幸い、捜査一係のオフィスには現在誰もいない。警察寮住まいの犬上にとって、人に知られずに明かりをつけて作業をするにはここ以上に適した場所はない。

 早速、朱墨を用意して爪楊枝の先を浸す。念のため、まずは何も書かれていない紙で軽く練習をして感覚を掴むことにする。最初から判子の線を模倣するよりは、美術のデッサンのように何度も薄い線を重ねて判子を表現するのが良さそうだ。


 一通り勝手がわかったところで、偽捜査令状に向き合う。

「おい、なにをやってやがる」

 低い濁声に、犬上は飛び上がりそうになった。振り向くと、帰ったはずの牛草が捜査一係のオフィスにいた。

「帰ったのでは……」

「財布を忘れたんだ。くそ、忘れて良かった。おい、こら、くそ、何やってやがる」

 ほとんど引き千切るように偽捜査令状を奪った牛草は、大仰に溜息を吐いた——いや、あながち大袈裟なポーズではなく、彼は歳の離れた後輩に心底失望しているのかもしれない。犬上は刑事としての規則を破っているし、でなくても公文書偽造は犯罪だ。実際に己の行いが人目に晒されてしまうと、自分のしでかした行為に急に背中が冷える思いがあった。あまつさえその相手が直属の上司に相当する牛草だ。


 牛草は殴ったりはしなかったし、怒鳴りつけもしなかった。だが犬上にとっては父親とそれほど変わらない年齢のこの男が明確な失望と落胆を示していることは理解できた。

「すいません」

「実際にそれを使ってたら、すいませんじゃ済まねぇよ……」

 という応答があったので、少しだけ安堵する。何も言ってくれなかったら、どうすればいいのかわからなくなっていたところだ。

「すいません………」

「さっきも言ったがな、訊きたいことがあるなら本人に訊いてみればいいだろうに」

「いや……嫌われたら困るな、と思って」

「こんなことする糞野郎はどっちにしろ嫌われる。ああ、くそう、無駄に出来も良いんでやがる。おい、わかってるのか、おまえは。自分のやったことを」


「すいません」

 牛草はまた溜息を吐いてから、己の机に向かった。椅子に座らずに机上のメモ帳に何か書き付け、千切って犬上に押し付けてくる。受け取ったメモを見ると、簡単な地図と住所が書き付けてあった。

「これは……」

「白河さんが事件前に働いていた店の場所だ。本人に訊けないならここである程度話が訊けるだろ。行けよ」

「はぁ……じゃあ、まぁ、明日にでも——」

「今日行け。くそ、おまえが使い物にならんのでは困る」

「今日っていっても、もう閉まっているんじゃ——」

「店は開いてる。行け。行って訊きたいことを訊いてこい。明日からはまともに働け」

 吐き捨てるような牛草の言葉を受け、犬上は素直に頷いて署を出て行った。

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