第10話 新米刑事、挑むような目つきの女の手を握ること

 子どもが声をあげて走り回っているのであれば、平和の象徴だという気がする。近寄ってきた子どもを一瞥すれば、睨みつけられたと思って怯えて逃げるのだから、それはそれで平和だ。危険な場所なら、最初から見知らぬ大人に近づいて来たりはしないだろう。

 己の顎を撫でる。市内の運動公園の野球場前にあるベンチに腰掛けて三十分以上待てば、顔も固くなろうというものだ。人を待っているわけだが、予定時刻より前に来ていたので、待たされているというよりは、勝手に待っているという状態だ。だから腹は立たない。

 警察なんていうのは一枚皮を剥いでみれば一般企業と同じようなもので、定時はあるし、土日は基本的には休みだ。だから定時で仕事が終わらないことや残業、休日出勤があるのも当たり前のことで、土曜はたいてい終わらなかった仕事を終わらせるために費やされる。昨日もそうだった。

 土曜が過ぎれば日曜が来るのは警察のみならず同じことで、犬上にはその日曜日、つまり今日なのだが、その朝に予定があった。常なら日が昇るとともに起床するのだが、寝坊するかもしれないと思うと緊張した。寝坊などしたことがないが、あらゆることが人生それまで無かったからといって、今後も無いとすれば、産まれてから呼吸するだけの人生になるだろう。いや、生まれた直後は呼吸すらしていないそうなので、何もできずに死ぬだけだ。だから、そう、これまでにないことは起きる可能性は、あるのだ。犬上はそれを体験している。今だ。


 既にその翌日だ——つまり日曜だ。そうだ。日曜だ。来てしまった。準備も心構えも何も無い。ただ朝、いつも通りに起きて出てきただけである。待ち合わせの時刻より少し早かったが、それは相手を不快にさせてはいけないという心遣いからだ。成熟した大人であれば、当たり前の社会的行動だ。だが心許なさを表に出さないほどに人間はできていない。まだか、まだか、とベンチに座り、待ち合わせの時刻より早いままに待っていた犬上だったが、同時に白河が来ないことも祈っていた。来なければ楽になると思った。

 果たして白河は時間の五分前に来てしまった。

「お待たせしました……おはようございます」

 白河六花は薄いチュニックに短いパンツという軽い出で立ちだった。チュニックはゆったりとしたものではあったが、ワンピースに比べると腹が幾分目立つ。とはいっても、朝食のバイキングを食い過ぎたのだ、と主張されれば納得できないではないとは言い切れないという程度だ。靴も、履き慣らしたスニーカーなら、運動するのに問題も無さそうだ。だが黒のレギンスに包まれた足も、陽に晒されてなお白い腕も、折れそうなほどに細く見えた。改めて考えてみると、これにいったい何を教えろというのだろうと自問してしまう。


 準備運動をしながら、白河六花の身体を改めて頭から爪先まで眺める。

 小さい。

 恵まれた体格であるという自負がある犬上からでなくても、彼女を見たときの第一印象は同じだろう。小さく、弱い。手足などは折れそうなほど細い。犯人探しに歩き回っているわりに白いのは、日傘の恩恵か、日焼け止めをきちんきちんと塗っているのか。日焼けを気にしているのはどうしてだろう。美容に気を遣っているのか。それとも皮膚癌を憂いているのか。事件前は理系の大学院生ということだったから、物事にはなんでも理屈をつけるタイプなのかもしれない。後者だろう。それでも犯人捜しは止めないというわけだ。


 考えても考えても、彼女が犯人を捕まえる姿など思いつかない。それこそ拳銃でも使わない限りは、犯人を足止めすることすら叶わないだろう。

 戦うための技術は教えられる。だが、技術だけで犯人が捕まるなら、刑事は身体を鍛えたりはしない。だのにこの女性は、犯人を捕まえるというのだ。捜すのを止めないというのだ。見れば思い出すなどと馬鹿げたことを言うのだ。

(まぁ、いい)

 どちらにせよ、犯人がそうそう見つかるとは思えない。犬上が彼女に護身の技を教えるのは、彼女の心が健やかになって欲しいからだ。一刑事として、市民が陰鬱な顔でただただ歩き続けているのが耐えられないからだ。ただ、それだけのことだ。


「犬上さん。準備運動は終わりました」

 声をかけられて、反射的に視線を上げた。上げたということは白河の顔から下を見ていたということで、ただ筋肉の具合を見ていた以上の疚しい気持ちは無かった。

「えぇと、じゃあ」

 と犬上は昨晩から何度も頭の中で反復してきた言葉をどうにかこうにか言葉にしようと試みながらもう一度、目の前の女の姿を眺める。見た目だけならそうは見えないが、どこか威圧的で急かせるような物言いは年上だということを確かに感じさせる。高校卒業後に警官となった犬上は、年上の相手に何かを教えるだとか指導するという経験が無かった。

「殴ったり蹴ったり投げたりは教えても仕方が無いので、それ以外のことで教えます」

「仕方が無いですか」

「仕方が無いというか……無理ですよね?」

「その、つかぬ事を訊きますが——」一瞬、白河の視線が上下した。「股間とかを蹴っても効きませんか?」

「蹴っても当たらないでしょうし、当たっても物凄く痛いですけど完全に動けなくなるわけじゃないので反撃されたら危ないと思います」

 やる気満々なのは結構だが、犯人の体格によってはそもそも蹴りが届かない気がする、とまでは言わないでやった。

「でも物凄く痛いんですね」

 などと不穏なことを呟く白河の前に立ち、犬上はここから先のことを考えて深く深呼吸をした。


「とりあえず指取りを教えます」

「指取り、ですか」

「ええと、手を出してもらえますか?」

 白河は素直に己の両手を差し出してきた。嫌がったり、躊躇する様子がなくて、ほっとする。

 裏手に寂れた遊園地を構える運動公園はテニスコート、陸上競技場、野球場などを抱えており、運動するには絶好の場所だ。人気は多く、学生は県や市の大会で使用したり、小学生のマラソン大会のコースにもなったりする。休日だけあり、野球場では小学生であろうユニフォームを着た少年たちが試合の準備をしているが、外周にはネットや金網があるので打球が飛んでくる心配は無い。

 犬上と白河が待ち合わせたベンチは、野球場をぐるりと一周するように舗装されている道の脇にある。実際にぐるりと回ると、三百メートルといったところか。地面がアスファルトなのはよろしくないが、本格的な恰好をしたマラソン練習者から犬を連れた老人、ダイエットのためのジョギングランナーまで、さまざまな人種がいる——そのことを意識しながら、犬上はまた小さく深呼吸をした。


「後ろから掴みかかられたときに、相手の指——できれば小指か薬指を握って動きを抑えます。五本の指を使えば、女性でも男の一本の指よりは強いので、うまく相手の行動を誘導できれば有利になりますし、うまくやればそのまま押さえ込めます」

「はい」

「手本……というか、やり方を伝えます」

「はい、どうぞ」

 さっさとしろとでも言うように、白河は手を軽く振った。早く見本を見せてみろということだろう。わかっている。前置きが長くなったのは、ちょっと準備を整えていただけだ。

 白河の細い指に、犬上は手を伸ばした。


 細く、小さいのは見た目通りだったが、握るまでは痩せ細って骨ばった印象があった。実際は指の腹がふわふわと柔らかかった。

「さっきも言いましたが、こう、手を全部握ると同じくらいの力で握ることになります。これだと勝てません」犬上は勢い余って握ってしまった掌から手を離し、ゆっくりと彼女の指の一本、薬指を握ろうとした。短い指だったので、己の中指までしか彼女の指に触れなかったが。「相手の指を握ります。一本握れるほうがいいです。小指とか薬指のほうが相手の力が入りにくいので良いですが、握れたらどの指でもいいです——いま、指動かせますか? 無理ですよね?」

 白河は無言で頷く。指を掴まれても、彼女の表情に特段の色は見えない。そのことに、犬上は落胆するよりむしろほっとした。あとは己の掌に感じるじっとりとした汗が相手に触れないようにするだけに気を払えば良い。


「これを手の甲と逆方向に動かそうとすると、骨が折れます」

 犬上がほんの少しだけ指に力を篭めると、白河の眉根が寄った。本当に折られるかも、などと思っているわけではなかろうが、さすがに不安さくらいは感じるということだろう。指の感触を惜しみながら、手を離してやる。

「折ったら逃げます」

「逃げるんですか」

 白河は己の指を一瞥してから言った。指をハンカチで拭いたり、アルコール消毒液を擦りつけたりはしなかった。

「逃げるのは駄目ですか」

「できればその場で拘束したいですが、そういう方法はないですか」

「それは………」

 ないではない。そもそも指取りを折れない程度に力を制御できれば、相手の全身をも制御することもできなくもない。だが。

 短い腕、細い指、小さな体躯、栄養失調の妊婦の身体。

「そういうのは、ないです」

「では、あまり役に立たないのでは?」

 真っ直ぐな瞳は四十センチ以上身長の違う犬上を見上げながらも、いつもの挑むような調子を忘れなかった。


 白河は心の底から、言葉通りに思っているわけではないだろう。彼女だって、自分が犯人の男——どんな人物なのかはわからないにせよ、少なくとも彼女より背が低いということはないだろう——のことを独力で捕まえられるとは思うほど馬鹿ではない、はずだ。忘れてしまった記憶の中の男に辿り着くまで街中を歩き続けるというのは正気には見えないが、しかし、いや、正常に違いない。であるならば、この質問は、彼女は犬上のことを試しているに違いない。おまえはこの教授したことをどのように使えると考えているのか、と。

「えっと、警察だって、ひとりで犯人を捕まえようとすることはあまりないです。職務外で襲われたら、まず応援を呼ぶことを優先させます。だから逃げるというのは大事です」

「でも、わたしは追っている相手を捕まえたいのです」

 食い下がる白河を見下ろしても、彼女は気圧される様子を微塵も見せてはくれない。犬上が彼女に危害を加える存在ではないとわかっているからだろう——あるいはやはり、単に馬鹿なのかもしれない。犯罪者と相対するということ、戦うということ、その一切を理解せずに己の背中に正義を背負っていれば神仏が味方をしてくれると信じているのかもしれない。

 そうだったらどんなにか良いだろうと思った。単なる馬鹿なら、犯人が見つからなければそのうち諦めるだろうから。


「とにかく、やってみてください」

 白河の言葉に正面からぶつかるのを避けて、背後に回って彼女の肩の上に手を差し出す。もう少し手を下げれば、薄い肩に己のごつごつとした手が触れるだろう。背後に回ったのは、襲われるときはこういう状況が多いからだ、と言うのを忘れたが、白河は逃げ出さないでくれた。

「あの、握っても?」

「試しにやってみてください」

「じゃあ、握ります」

 握るより握られるほうが肌の感触をより感じられたのは、自分の手が強張らないせいかもしれない。代わりに女の手のほうが少しだけ硬くなったが、それだけだった。

「あの、力を篭めてみて大丈夫ですよ。試しに、相手の指を握ったまま引っ張ったりして、動きを誘導してみてください」

 む、と小さく唸り声が聞こえれば、力を篭めていることは理解できる。この状況が初デートならば上等な握り方だといえるだろう。残念ながら、犬上にはそのような経験はないが。


 あまりに力が弱いので、もしかするとわざと力を込めないようにしているのかもしれない。カマトトぶっているというやつだ。そうだとすれば、つまるところ白河は犬上に非力な女だと思われたがっているということで、それは一般的な価値観に照らし合わせれば、犬上に嫌悪を抱いていないということだ。むしろ好いているといってもいいだろう。

 だが残念ながら白河は真面目にやっているらしかった。犬上は惜しみつつ、指を彼女の柔らかな手の中から抜いた。


「えっと、筋力を鍛えましょうか」

 もっと力を篭めてみろ、とは犬上は言わないでおいた。代わりにと言ってやったのが筋肉の重要さだ。

「力がない女性でも扱えるのが護身術というものでは」

「それでも限界というものがあります」

 言い過ぎだっただろうか、と不安になったが、白河は己の両手を見るだけだった。自分でも、非力さは理解しているのだろう。犬上が幼い頃に習った武道には、鞄や傘といった日常的な道具を使った護身術もあった。しかしそうした道具を使うにしても、この女性は筋力が足りなさすぎるというのが率直な感想だ。

 それでも彼女は——理解しているのに彼女は、やはり犯人を追おうとするのか。彼女が真摯なのか馬鹿なのか、それとも異常者なのか、犬上には未だ判断がつきかねた。

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