第9話 老練刑事、新米刑事を値踏みすること

 市民の認識では、刑事の仕事というのはもっぱら犯罪者を追いかけたり、格闘したりするものだ。もちろんそうした仕事もないではないが、全体から見ればその割合は小さい。

 刑事が相手にするのは犯罪者だけではない。もっと大きな枠組み——犯罪そのものなのだ。もちろん犯罪という大きな括りの中には犯罪者が占めている部分もあるのだが、全体から見ればその割合は小さい。

だから多くは事務処理なのだ。犯罪を調べ、犯罪を記録し、犯罪への対処を記す。それが主な仕事で、となれば向き不向きも出てくる。牛草は十代で警察官になってから、腹が出てきたこの齢になるまでの間、刑事を続けてきた。となればある程度は向いているのだろうと思う。でなければ、仕事を続けるうちに、犯罪に関わることに慣れてきたのか。なんにしても、仕事を継続できたのは幸福なことだと思う。

 この男はどうだろう、と春から強行犯係の捜査員になった男を見やる。整然と、あるいは雑然と並んだ事務机やその上のファイル類のおかげで会社のオフィスのようにも見える白瀬署刑事課のオフィスで、犬上大輔はカップラーメンの容器を片手に、書類に書き物をしていた。


 犬上という男の刑事としての資質は、いまのところは十分とはいえない。

 警察官として駄目というわけではない。体格は十分過ぎるほどで、性格は温和、些かそそっかしい部分も無いではないが、己のそうした欠点もわかっているようである。真面目で、弱者を思いやる心がある。単純に言ってしまえば、優しい。優しいだけで力が伴わなくては軟弱なだけだが、彼の武道の腕前が群を抜いていることは、この一ヶ月間の勤務の中でわかっている。

 だから、駐在警官としてはこれ以上無いほど優秀なのだ。警察犬でもいい。真面目で優しく強いならば、犬としては優秀だ。だが刑事は駐在警官ではないし、犬でもない。犬では刑事の職務はこなせない。なぜならば犬の手ではペンは握れず、キーボードは叩けず、報告書は書けないからだ。

 ファイルや書面が重ねられた机に向かう犬上の手は、箸を持つときは動いていたが、ペンを持つときは止まっていた。報告書を書かせ始めて、何分経っているだろうか。

 警邏中に起きた事件だった。コンビニ強盗だ。単純な事件だが、状況次第では市民に危険が及んでいてもおかしくはなかった。そうならなかったのは、事件発生直後、つまり駅から歩いて数分の繁華街裏手の細路地にあるコンビニのレジ前で強盗が店員に刃物を突き付けようとしたその刹那、目の前を通りがかった犬上が店内に踏み込んで犯人を投げ飛ばしたからだ。

 店員が強盗の存在に気付くよりも素早い早業で、コンビニ前の自動ドアを本来の速度よりも早く開けられようとしたために、枠が歪んでしまった。

 自動ドアのことは、いい。受身も取れずに床に叩きつけられた犯人の肩が脱臼し、肋骨が折れたことも。


 問題は、状況によっては周囲の市民や自身を危険に晒していたかもしれないのに、同行していた牛草の指示を仰がず、犬上が単独で行動したことだ。

「あれが最善でした。あのとき、犯人はおれたちに気付いていませんでしたし、店員と犯人の距離もまだ開いていました。もたもたしていたら、店員を人質に取られる可能性もありました。だから自分は行動しました。何か間違っていますか」

 こんな言葉が出てくるのも、予想できていた。自分も通った道だったからだ。三十年以上昔は、牛草も駆け出しの刑事だった。だから、彼の気持ちはわかる。己が行為を咎められることが、己が立場を理不尽に感じる気持ちが。

「何か間違っているとか、悪いだとかは言ってない。だから、報告書を書けと言っているんだ」

 そう言ってやって書かせた報告書は酷いものだった。

 いや、何も文章そのものが下手だとか、単語の使い方がおかしいだとか、漢字を間違えているだとか、そういったところが指摘したいわけではない。内容が、あまりに犬上が口頭で述べた通りなのだ。

 つまり、正直過ぎる。


「書き直し」

 と報告書を突き返してやると「おれは間違っていません」と来る。

 まずその大前提が間違っているのだ。犬上の取った行動は、刑事として間違いだった。本来であれば、牛草と相談をし、周辺状況を確認したうえで犯人と相対すべきであったのだ。それは変えられないし、でなくても職場の先達である牛草が間違いだと言ったのならば、それは間違いなのだ。

「だからといって、おまえの行動が駄目だった、と言いたいわけじゃない」

 というより、ベストの対処だった。犯人以外は誰も怪我をしなかったし、物的被害も自動ドアだけだった。犯人の怪我にしても、すぐに治る。

 だから最適な行動だった。刑事の定められた行動からは逸脱していたというだけで。

 基本的に決められた範囲で職務をこなす駐在警官とは異なり、刑事の仕事はマニュアル通りに、とはいかない。常に法規から逸脱しているか、良くてスレスレだ。でなければ、犯罪とは戦えない。敵は法の外に出ようとしている存在だ。きっちりと決められた線の中で動いていたら、負けてしまうのだ。

 だから、定められたルールを逸脱した行動を取らなければいけない。

「だから、おまえの行動は間違っているのだ」

 そして間違った行動を取らなければいけないのだ。犬上の言う通り、いちいち正しい行動をしていたら周囲に被害が出る可能性があった。だから多少ルールを逸脱してでも行動に出なければいけない——その後処理のために報告書がある。というより、そのための報告書だ。言い訳をする機会を与えてもらっていると思ってもいい、などとまで言ってしまうと流石に胡散臭いだろうか。


 犬上が先走った行動をしたのは事実で、変えられない。犬上がその場の判断で行動をしたというのも、いい。

 が、だからといって謝らないわけにはいかない。

「謝る?」

 本来は相談すべきだったと、冷静に対処すべきだったと、そう書けというのだ。

 口だけ、文章だけの謝罪? それでいい。なぜなら、謝罪を口にできるうちは、己が行為がルール上は正しいものではないということを認識できているからだ。客観視できているということだ。その「正しくない行為」に罪悪感を覚えるかというのはまた別の問題で、というより他人の感覚や感情に関しては、人間が断じられる範囲を超えている。だからそんなことは問題にしない。とにかく非は認めておけ。

 説教が長くなった。だいたい、こうした苦言は長引けば長引くほど、効果が弱くなってしまうものだ。言いたいことはすべて最初に言ってしまっているからだ。長くなればなるほど、不純物の割合が増えていく。


 後輩の刑事が不満そうにしているのは、後始末で書類を書かされるというのはつまり怒られているからだ、という解釈になってしまうからだろう。駐在所での経験があるとはいえ、その前は学生だったのだから、まぁ、こんなものだろう。

 一先ずこの場は牛草の言うことを聞いておかなければ何も解決しないということを悟ったのか、犬上は報告書の書き直しにかかってくれた。その背中を眺めながら、牛草は彼のデスクの上に積まれていた単行本サイズの本に視線を留めた。初心者向け、誰でもできる、簡単、などという甘い謳い文句で修飾された本は、どうやら護身術を扱ったものらしい。背表紙に記号の入ったシールが貼られているからには、図書館で借りてきたものだろう。屈強な男が今さら護身術を学ぶだとかいうことはありえないので、誰かに教えでもするつもりなのか。他に積まれた本のタイトルにマタニティなんとかだとか、妊婦がどうこうだとかいう文字が入っていれば、すぐに相手は想像がついた。


「犬上よぉ、あの子に惚れたか」

 びっ、と厭な音がした。見れば、牛草の手で赤を入れられ、清書のために書き直されていた書類が中央で破れていた。似たような質問を先月もしたような気がするが、そのときとは明らかに違う反応だ。

「なんですか、何がですか」

「白河さんに何か頼まれたのかも、だとかと思ったんだが……」

「いや……」

 いや、まぁ、と犬上は破れた書面を丸めて投げ捨てる。狙い違わずそれは塵箱の中に入った。

「それは、そうですが」

「なるほど、そりゃ良いことだ」

 白河六花にとって犬上の存在は、良い気分転換になるだろう。犬上にとっても、刑事事件の被害者と会うというのは、悪い経験ではない。事件の裏に被害者がいるというのを知識以上に知らなければ、刑事としてはやってはいけない。

 刑事は儲かるわけではない。楽でもない。他人から感謝されることも少ない。やりがいがあるかどうかも怪しい——だが誰かがやらなければいけない。やらなければいけないことなのだが、厭々やっているようでは、そのうち潰れる。やらなければいけないということを理解しない場合でも、潰れるか、使い物にはならなくなる。やらなければいけないことがあって、それを自分の使命のように感じなければいけない。自分に適した、与えられた仕事であって、その仕事に自分が関わることで、何かが悪い段階から少しでも良い段階になる——少なくとも多少はマシになると、マイナス百からマイナス九六程度になると、そんなふうに思えるようにならなければいけない。信仰のようなものだ。哲学と言い換えてもいい。理屈ではなく、しかし快く生きるために必要なものだ。少なくとも牛草の場合、そんな哲学があったからこそ刑事を続けることができた。犬上にもその哲学を持って欲しい。現在の彼は犬のようなもので、敵がいるから飛びついているだけだが、それではそのうち無理がくる。犬では刑事にはなれない。信仰とタイピングのための指先を持って、初めて人間の刑事になれる。


「あの、牛草さんは………」

 しばらくの沈黙があってから、半人前刑事の犬上がそんなふうに切り出そうとしてきた。してきたが、言い淀んだ犬上の二の句はなかなか紡がれない。だが牛草には、彼の眉間の皺で何を考えているかがありありと理解できた。

「白河さんの妊娠のことか」

 牛草が先回りしてやると、犬上の表情がぎくりと固まった。言いたいことを言ってはくれたが、実際に言葉に出されると困る、といったところか。

「いや、それは、まぁ……とにかく」と犬上の言葉は煮え切らない。彼が白河の生い立ちや現在の状況についてどこまで知っているのかはわからないが、他人である牛草の口から聞くべきない内容ではないと考えた結果の煮え切らなさなのだろう。「いや、さっきの話ですが、惚れたとかではないです。ただ、なんだかあのままにしておくと良くなさそうだったので、簡単な護身術を教えることにしただけです」

 若い刑事が白河六花に殺人事件の被害者に肩入れする以上の感情を抱いていることは明らかだ。まぁ、微笑ましいことだとは思う。仕事に支障を来すことがなければ、だが。


「そうか」と牛草は頷いてやった。他人の恋路に口を出すほど若くは無い。「護身術ね。おまえ、あんまり無理させるなよ。妊婦の扱いなんて、わかっていないだろう?」

「それは、勉強しています。それに、そんなすぐに好きになったりするわけないじゃないですか」と、既に終わった話題を言い訳がましく犬上は続けていた。「そんな、何度か会っただけですし、向こうからすればただの刑事なわけですし……でなくても、事件から半年くらいしか経ってないんですから、まだ昔の恋人のことが心の中にあるに決まってるじゃないですか」

「そういうわけでも、ないと思うがなぁ………」

 牛草はぽつりと返答した。

 四ヶ月前の事件で殺された男と白河の関係は、牛草が彼女を心配する理由とも無関係ではない。

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