第8話 新米刑事、挑むような目つきの女性に護身術を教えることになること

 受付待合所に並んでいる長椅子のうちのひとつに座る。

 春である。休日である。午前中である。病院の外来に来ている患者は、通院であろうか。花粉症か。春の陽気に当てられて薄着になり過ぎて風邪でもひいたか。まだ冷える朝の空気に膝を冷やしたか。でなければ子でも胎に抱えたか。ちらほらと埋まっている長椅子の老人や親子連れ、そして腹の大きい女性と順々に客層を観察してから、犬上は溜め息を吐いた。

(溜め息だ?)

 いや、なんだろう、この溜め息は。特に疲弊しただとか、落胆しただとか、そういうことは無かったはずで、単に驚いただけだ。溜め息を吐くようなことではない。驚いた——という、ああ、それだけのはずだ。

 犬上は己の顎を撫でた。休日はたいてい無精にしているものだが、今日はたまたま朝剃ってきたので、引っ掛かりも何も無い。自分の顎なんて掻いていても面白いことは何も無い。が、することが無い。貧乏揺すりをしながら待つ男の姿は傍から見ればさぞかし滑稽だろう。いや、誰もおれになんて注目しちゃいない。


 少し腹が減ってきた。時刻は十一時半を少し回っている。何度か電光掲示板の数字を見るが、受付前の待合所で示されているのは会計終了の番号だけで、点滴が終了したかどうかなんて教えてはくれない。緊急外来も備える大型病院だけあって、待合ホールは広く、中に喫茶チェーン店まで入っている。そちらで待っていようか、そのほうが余裕を見せられるかもしれないし、などと考える。

「白河さん」

 そう呼ばれたので、犬上は最初、会計の呼ぶ声に反応できなかった。受付へ赴く。予定外の出費だ。


 さらに三十分ほど待って、ようやく白河が待合室にやって来た。近くまで来てから長椅子の犬上の存在を察知したようで、大きな目を見開いていた。ずっと待っていたのが予想外だったのかもしれない。気づかれないままでなくて、良かった。

「いろいろとご迷惑をおかけしました」

 と白河に頭を下げられた。

 会計受付で受け取った保険証を返しながら、犬上はなんと声をかけたものかと迷った。その結果出てきたのは、腹が減っていれば昼飯にしないか、という誘いだった。

「は?」

 昼餉の時刻に近づきつつあったことを考えれば名案だと思ったのだが、実際に口に出してみれば、嘔吐したあとの話題でもなかろうという気がする。いや、口元を歪めて、ただ一音だけを吐き出されたのを見れば、タイミングの問題でもなかったか。

「すみませんが、午後は予定があるので……」

 取り繕うかのように断られた。いつもは挑むような白河の視線は外れていて、それが一連の出来事で気まずさを感じているからなのか、嘘を吐いているからなのかは見当がつかなかった。

「ところで、お会計はお幾らでしたか?」

「いや……大丈夫です」

「どうしてですか?」

 真っ直ぐに問われてしまうと、なぜ己が払うのだろうという疑問が自分自身の中に生じてくる。咄嗟に言ってしまったのだが、いったい何が大丈夫なのか。我ながら意味不明だ。


 金銭を授受して病院を出る。良い塩梅に晴れていて、病院前の道路沿いに生える木々の薄萌黄の中にぽつぽつと撫子色の花弁が見える。かなり散ってしまったが、今年は寒冬で底冷えする寒さが長続きしたためか、桜が残っているようだ。県内でも気仙沼や塩釜であれば、八重桜が時期が少し遅いと聞いたことがある。今から行けば、満開とはいわずとも、八分咲き程度なら見られるだろうか。いや、しかし、予定があるから、と切り返されては、いまからでも花見に誘うこともできそうにない。

「まだお花見もできるんですね」

 白河がそう言葉を投げかけてきた。桜、花見と同じようなことを考えているのだ、となぜだか嬉しくなったが、彼女が視線を向けていたのは病院の手前の道を行き交う若者の集団で、つまりは花ではなく人だった。大学生くらいの男女のグループだ。手には酒や軽食の入っているらしいスーパーの袋をぶら下げていた。

「通りがかかりで大変お手数おかけしてすみませんでした。ありがとうございました」

 頭を下げてから、では、と白河は去っていこうとしてしまう。これで終わりか。せっかく休日に会えたのに、それはない。

 そんな想いが、去っていこうとした白河の手を掴むという短絡的な行動を取らせた。掴んでみると、その体躯どおりに手も小さい。犬上の掌ですっぽり覆ってしまえるほどだ。

 彼女が振り返る拍子に、手を離して一歩下がる。


「何か?」

 今度の白河の表情は、眉間に皺がより、目は細められ、明らかに嫌悪に満ちていた。親しくもない男に急に手を握られたのだから、当たり前だろう。犬上とて、その程度の分別はあるわけで、自分の突発的な行動とこれから為すべきことに混乱しながら、指を持ち上げて道を示した。

「少し……あの、少し、歩きませんか?」

 提案に対して明らかに逡巡の間があった。明らかに不振の色が浮いていたにもかかわらず、最終的に白河は首を縦に振ってくれたが、その理由はわからない。もしかすると、断ったら何をされるかわからない、という怯えからかもしれない。

 白河は家に戻るというので、送っていくことにした。どうせ走っている途中だったから、どうせ何処へ行くにも同じだから、と言って。彼女の浮かべた表情は、迷惑だという感情を表すのをどうにか隠そうとした結果なのかもしれなかったが、一度は承諾したあとはそれ以上に拒否したりはしなかった。

「あの、歩くの……大丈夫ですか? タクシーとか呼んだほうがいいですか?」

 歩くのを提案しておいてなんだったが、病院から白河の家までは歩いて二十分はかかるだろう。いや、犬上の足ではその程度だが、白河の短く白い足ではもう少しかかるかもしれない。嘔吐して点滴を打ったばかりの女には大変な運動のような気がした。

「大丈夫です。体調がそこまで悪かったわけではなくて、単なる悪阻ですから」

 悪阻ですから、と己の妊娠を示す言葉を口にしながら、白河の表情には一切の変化がなかった。彼女の目元から小さな顎へ、喉仏のない喉へ、薄い胸へ、そして腹に視線が落ちる。ゆったりとしたワンピース姿だが、よくよく観察してみれば手足の細さに反して腹は膨らんでいて、小柄なのでさながら飢餓児のように見える。


 これが、いったいどの程度の妊娠期間なのか。見てそれとわかるほど、犬上は女性の体に精通してはいない。彼女の恋人が死に、犯されたのは四ヶ月ほど前だったか。妊娠したのがそれより前ならば彼女の恋人の子なのだろうが、妊娠期間と事件からの期間が同じならば、腹の子の胤は強姦した男のものなのかもしれない。医師は教えてはくれなかったが、白河に問えば答えてくれるかもしれない。

 答えてくれるかもしれない、かもしれないが——犬上は問わなかった。問えなかった。訊けば、まず嫌われるだろうと思ったからだ。

「多少は運動をしたほうが良いらしいですしね……日頃歩いているとは言ったら、お医者さんには褒められました」

 出会ったのは今日で三度目である。一ヶ月前の一度目は、ほとんど会話がなかった。二度目は、記憶から消えた犯人をたったひとりで探そうとしていることを知った。それらのときに比べれば、白河はよくよく喋ってくれているような気がした。心を開いてくれたというよりは、人前で嘔吐してしまったという気恥ずかしさを隠そうとしているのかもしれない。あるいは妊娠していることが発覚したからか、それを取り繕うためか。そうだとすれば、この女性も人並みに羞恥を感じるということだ。こうなってしまうと、初めて出会ったときの見下すような、挑むような目つきは身を潜めてしまっていた。


「ああ、ええ、そうですね」訳知り顔でうなずいておく。「あんまり過剰な運動は良くないでしょうけど、適度には運動をしたほうが身体には良いでしょうね」

「そうみたいですね。だから、まぁ、歩くくらいなら……普段歩いているのも、悪くないのだと思います」

「ああ、ええ、そうですね。でも、ほかにも……」

 犬上は言葉を飲み込みかけ、しかし必死で紡いだ。

「ただ歩くだけじゃなくて、もっとほかの運動だとか、武道というか、護身術というか、そういうのを習ったりだとか……体力作りは兎も角、非力な女性でも使える護身術とかは、おれも教えられますし……」

「護身術?」

 疑問符がありありと見えた気がした。


 おれは、急に、何を言っているのか。


「あなたが、ですか?」

 白河と視線が合う。目だけを動かすのではなく、首を擡げて真っ直ぐにこちらを見てくるその表情は、こちらが見上げられているというのになぜだか見下されているような感がある。隠れていたはずの、初めて会ったときと同じ視線だ。

 犬上は己の言葉を後悔しかけた。が、後悔することなど何も無いのだ、と己を奮い立たせる。

 護身術を教えるということを提案したのは、本気で白河が犯人捜しをしているらしいからだ。実際犯人を見つけたとてどうするのか? いや、それは通報するのだろうが、それでは済まされない事態もあるかもしれない。もちろん警官としての立場からいえば、一般市民が犯罪者を捜し、拘束しようとするなどというのは言語道断なのだが、世の中何があるかわからないもので、特に白河のような女性の場合はひとりで出歩いているだけでも危険だ。だから護身術などは習っておいて損は無いし、刑事というと常に働いているように思われるらしいが、実際のところは休日出勤はあれど、代休はあるし、そうでなければ土日はだいたい休みで、特に趣味も無いので暇だ。やることはない。だから余裕はある。それだけだ。

 犬上は言葉を尽くして語った。


「はぁ」

 白河の視線は歩む先へと戻っていた。

 車線数が多くは無いとはいえ、国道に面した通りである。歩いていけば、右手に高校が見える。左手に接骨院が見える。スーパーが、コンビニがあり、人々が行き交っている。その人々に、己はどのように見られているのだろうか、と犬上はふと思った。懇願するような調子で女を説得する、情けない男ではなかろうか。

「それでは、お願いします」

「はい」

 はい、と請け負いながら、はじめ犬上には彼女の言葉の意味が理解できなかった。意味を理解してからは、白河の考えを想像しようとした。

 本気でこの女性は、己の恋人を殺し、己を強姦した犯人を捕まえようとしているのだろうか。そのために、現職の刑事から護身術を習うだなどという提案を受けようとしているのか。正気なのか。

 正気なら、捕まえられるとは思っていないだろう。頭がおかしくなっているのかもしれない。あるいは捜し始めた手前、今さら後戻りができないでいるのかもしれない。


 どちらにせよ、正常ではない。


 白河の恋人が死んだ事件が起きたのは四か月前だった。その後、頭部に銃撃を受けた彼女がどれくらい入院していたのかは知らない。ひと月、ふた月と大事を取って入院していたのだろうか? いや、頭の怪我は深くはなかったそうだから、きっと体調が戻り次第すぐに退院したのだろう。そうして、幾日も幾週も犯人を捜し歩いているのだ。

 いじらしいなどとは思わない。むしろ愚かで、自分に酔った行為だと思う。そもそもからして、彼女の「犯人に会えば思い出す」などという主張をなぜ信じているのかが理解できない。

 彼女の状態は一種の病気だ。鬱のようなものだ。病院に行くのがいちばんの治療なのだろう。通院しているというのは牛草刑事から聞いたが、それは頭の怪我だか記憶障害だかのほうで、精神に関してではないだろう。しかし心の病の治療のために無理矢理連れて行ったところで継続することはないに違いない。彼女は犯人を捜し続けるだろう。捜し続け、いつしか本当に犯人に出会うかもしれないし、夜の街で暴漢に襲われるかもしれない。事故に遭うかもしれない。そうなったとき、いつでも助けられると思うほど、犬上は刑事という職を過信してはいない。


 五月病は運動によってある程度解消できる、などという話を聞いたことがある。一概に効果があるとはいえないだろうが、事件のことを考えてただ歩き回るだけではなく、もっと違う目的を持って活発な運動でもさせれば、精神状態が少しでも良くなるのではないかという気がした。護身を教えるのは犯人に対処させるためではなく、あくまで運動をし、ストレス解消をさせるためだと思えばいい。妊婦の身体に気を遣える運動となるとどういうものが良いのか調べる必要があるが、何が適切なのかが理解できれば、加減はできる。

 頭を掻く。

 犬上と白河は、刑事と被害者という関係以上には縁も由も無い他人だ。だから他人の犬上が白河を支えてやることはできないし、してやる義理も無い。だから彼女の心を気遣う理由は無い。

 ただ、犬上は……犬上は馬鹿にされたくないだけだ。彼女と初めて会ったときのように、捜査が進展していないと聞かされてこちらを睨みつけたときのように、役に立たないと、そんなふうに蔑まれた目で見られたくないだけなのだ。

 犬上は己が護身術の伝授などという発想に至った理由をようやく自分の中で作ることができた。


 白河を家まで送り届けてからは、市の図書館へと向かった。護身術を教えるために、自分の培ってきた技をどう伝えれば良いかと考えている間、犬上は幸せな気分に浸れた。胎の中の子の父親について言及するのも忘れるほどに。

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