第2章 真紅の道

第7話 新米刑事、汗臭いままに挑むような目つきの女性に近くこと

 壁は病的なほどに白い。


「妊婦さんに過剰な運動をさせてはいけませんよ」

 壁だけではなく、テーブルも白かった。並ぶリングファイルの表紙は半透明の白で、おまけに医師の白衣も白い。顔色も。運動不足だ。あまりに白いので、言われる台詞には現実感が無い。的を射ていないからだ。仕方が無い。

 目の前の丸眼鏡の医師は、おれをどういう立場の人間だと考えているのだろう——犬上大輔いぬがみだいすけは考えた。病院に連れてきた以上は少なくとも知り合いで、白河六花しらかわりっかと犬上の顔は似ていないから、きょうだいだとは思わないだろう。いい歳だ。では夫婦だとでも思っただろうか。そうなのだろう。犬上は己の手をぎゅっと握った。掌は汗をかいていた。

 こんなことになったのは、やはり休日だった。


 五月。白瀬署の刑事課捜査一係に配属されてから一ヶ月がたった休日、犬上は朝から走っていた。

 走るのは好きだ。刑事は事務仕事もあるが、捜査員として現場に出る必要がある以上は、やはり基本となるのは体力だ。いや、事務仕事とて、続けていれば体力を要するのだから鍛え続けることは必須であり、しかしながらそんなことは関係なしに犬上は走っているだけで楽しかった。住まいである警察寮の近くの運動公園からスタートして、そのまま公園の中を何周もすることもあれば、公園を出てから自由に街を回る場合もある。公園の中も街中も、日によって風景が変わっていて、人々の声や虫や鳥の音が耳に入ってきて、雨が降り風が吹いて、平和であったり事件が起きたりして、飽きない。

 そしてその日は、風景の一部が華やいで見えていた。

 場所は地下鉄の駅の近くだった。日陰のベンチで日傘を閉じて、白河六花は駅から出入りする人々の姿を、あの食い入るような目で見続けていた。じぃと目の前の通行人にだけ焦点を当てているので、道路の反対側にいる犬上には気付いていないらしかった。


 階段を降りて地下鉄の駅に入り、中の自販機で飲み物を買う。喉を潤しながら、さてどうするべきかと考える。駅を歩道橋代わりに使ってしまえば白河のいる側まで回れるのだが、己の身体があまりに汗臭いのだ。走っているだけで間は良いものの、止まってみると自分でさえ敵わないのだ。おまけにタオルで拭っても汗がぼたぼたと垂れているのだ。であれば、印象は悪いに違いないのだ。

 それでも犬上が白河の側の階段を登ることを決断したのは、単に彼女を近くで見たいと思ったからだった。

 白河はゆったりとしたワンピースだった。日傘を差し、あの睨むような目ではなく穏やかな微笑みでも浮かべていれば、相応のお嬢さんにも見えるのに、浮かんでいるのは不快の色だ。

 おれは近づいただけでこんな顔を浮かべられるほどに嫌われているのか、いや、やはりこの格好のせいかと己の決断を後悔しかけた犬上だったが、白河が自分のことを見ていないことに気付くと鬱屈した感情は蓋の中に押し込められ、代わりに不安感が押し寄せてきた。己の格好を気にせずに駆け寄る。大丈夫ですか、とそんなふうに問うまでもなかった。いまや彼女は口元を抑えて俯き、もともと白かった顔色は蒼白に染まっていた。

 学生時代、犬上は剣道部に所属していた。激しい部活動の中で、部員にこうした色が浮かぶのは見たことがあった。警察官となってからは、何度も。特に夜の繁華街などで多い。過去に思いを馳せて一瞬硬直したものの、まだ白河が我慢できていること、最も近くにあるトイレが地下鉄の駅構内にあること、そこまでにかかる想定時間を考えるや、白い脇の下と膝の裏に腕を滑り込ませて走った。階段を駆け降り、駅に駆け込み、改札機を飛び越え、公衆トイレの前まで来て一瞬迷い、結局男子トイレのほうに入ることを決断したのは、単純に個室の空いていそうな割合が多そうだったためだ。幸いトイレの中に利用者はおらず、個室もすべて空いていた。


 洋式便所の前に軽い身体を下ろし、便座の蓋を開けると同時に白河が嘔吐した。小さな頭越しに見える胃液と唾液と消化途中の食物が混ざった吐瀉物はクリーム色で、赤や黒は見えない。血は混ざっていないので、内臓に損傷があるというわけではなかろう、と判断する。

 気になることがあるとすれば、いやに嘔吐物の量が少ないことだった。見た目からして細く小さい白河の身体だったが、実際に抱えてみれば、見た目以上に軽い身体だった。

 午前中で、未だ人が少ないのは幸いだった。白河に嘔吐させている間にもトイレに人が入ってくることはなかった。無人駅ではあるが、監視カメラは作動しているだろうから、改札機を飛び越えたことはインターホンで駅員を呼び出して謝っておいたほうがよいだろう。女性を抱えて男子トイレに入ったことも。


「犬上さん……」

 喘ぎながら吐瀉物の残った唇で名を呼ぶからには、白河は己をトイレまで連れてきた男のことを認識してくれたらしい。膝を便所の床につき、便座にもたれかかったままで「ありがとうございます」と礼を言ってきた。それは、いい。良いことだ。

問題は、原因なのだ。

 素人目でも、彼女の身体は栄養失調気味だと判断できる。だが陽気に当てられて嘔吐するほどに体調を崩すほどには見えない。激しい運動をした様子はなく、冷や汗はかいていたようだが身体は熱っぽくはなかった。吐瀉物を見ても内臓に異常がありそうには見えない。では食中毒あたりか。だがこの痩せ細った身体は、食事をそれほどまともに摂っているようにも見えない。飲み過ぎというわけでもなかろう。

 いや、それよりもこの女の場合は原因となりそうなものがあった。喘ぐ白河の右眉の上には、裂傷のような傷跡が残っている。彼女はかつて、頭に銃弾を撃ち込まれた。傷。衝撃。記憶を失うほどの。

(まさか、脳に………?)

 銃弾は頭蓋骨によって弾かれて、脳には損傷がなかったらしい。だが銃弾の傷跡がいまになって彼女の脳を蝕み、血管を圧迫して脳梗塞を引き起こしていないという保証はどこにもない。


「白河さん、何か嘔吐の原因となるようなものは思いつきますか?」

「いえ………特には」

 視線を逸らす白河の身体は、一刻の猶予もないほどおかしくなっているのかもしれない。再度白河を抱きかかえるや、駅を飛び出してタクシーを呼び止めた。病院はそう遠くはなく、救急車を呼ぶよりも早い。そんな判断からだった。

 救急外来を持つ市民病院に来た。そして事情を説明して緊急で診察をしてもらった。その結果が、これだ。妊婦だ? つまり、嘔吐は悪阻ということか。なるほど、それなら命に関わる異常が起きたわけではないのだから安心で、だが犬上の頭の中は駅のトイレのときよりも深い混乱の嵐が渦巻いていた。


 誰の子なのか。いや、どちらの子なのか、というべきか。

 出てきそうになった言葉をぐっと飲み込み、白河の状態を問う。本当に妊娠しているのか、嘔吐はそれによるものなのか、頭を怪我したことがあるが脳に問題は無いのか、と。

「ああ、頭の傷ですね。あんまりにも心配だということなので断層写真を撮りましたが、異常はありませんよ。嘔吐は妊娠からくる悪阻の症状ですね。体調不良も相まって、嘔吐してしまったようです」

「あの……妊娠は何か月目なんですか?」

「あなたは彼女とはどういうお関係ですか?」

 よほど犬上は挙動不審だったのだろう。いや、尋ね方が悪かったか。

 丸眼鏡の医者に問われ、返答に迷った。迷ってしまった。迷ったら、その時点で正直に返答しているようなものだった。

「そういったことは、個人情報ですので……」

「自分は白瀬署の犬上と申します」すかさずランニング中でも携帯していた警察手帳を取り出した。「彼女とは捜査中の事件の関係者で――」

「そうですか」

 と相槌を打たれてしまえば、それ以上の追及ができない。個人情報だからだ。守秘義務があるからだ。令状も無しに、守秘義務の適用範囲たりえる事情は明らかにできないからだ。

 それでも手帳を見せつければ勢いで押せるかと思ったのだが、そう思い通りにはいかなかった。丸眼鏡の医師の視線には、幾分かの敵愾心が見て取れた。刑事が嫌いなのか、でなければ個人情報を是が非でも聞き出そうとしたのが透けて見えたのかもしれない。


「念のため点滴を受けてもらっていますが、そろそろ終わるはずです。あとは会計をどうぞ。お疲れさまでした」

 そうして話が打ち切られてしまえば、白いテーブルの上から関係がありそうな書類を引っ掴む、というわけにもいかなかった。恰幅の良い腹にでも拳を叩きこんでやれば悶絶させられそうだが、そんなやり方をすれば間違いなく大事だ。白河が寝ているであろう、カーテンが引かれた寝台を一瞥してから、診察室を出た。

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