第5話 新米刑事、先輩刑事と記憶について考えること
「そんなに変な考え方じゃあないのかもしれんな」
車窓の向こう光が流れていく。色とりどりの光は車のライトであったり、家屋の灯であったり、外灯であったりする。
犬上大輔はつい先ほどまで、そうした眩く、明るい光に照らされた場所にいたわけだが、そこは闇の世界でもある。なぜならば、闇と光が混じり合う場所で動くのが犯罪者であり、刑事だからだ。事件が起きるのは光に包まれた空間の中でも、身動きが取れない闇の中でもない。まばゆく明るい中では身動きが取れないし、闇夜には誰も近づかない。光の中に生まれた闇、あるいは闇の中に差し込んだ光の中で起きるのだ。
外に出ていたのは事件の対処のためだが、白河六花の事件ではない。別件の、市内で起きた傷害事件だった。傷害とはいっても、酔っ払いの喧嘩程度であり、怪我人や物品の破壊はなく、身内が出てきて嗜めてくれたので、逮捕も拘留もせずに済んだ。
帰路、報告書の内容に関する口頭での打ち合わせがひと段落したのち、非番の日に白河と出くわし、彼女が記憶がないままに犯人を捜そうとしていることを話したのだが、牛草から帰ってきたのは白河を擁護するような反応だった。
「どうしてですか?」
と犬上が問えば、「よくあるだろう、頭をぶつけて記憶喪失になったやつが、また頭をぶつけて記憶が戻るとか、そういうの」と牛草は返して寄越した。
「おれは体験したことはないです」
「映画とかな、そういう話ね。インディアンの儀式をやって、変な液体飲んだりとか、そういうショック療法もある」
成る程とは思うし、確かに物語ではそんな筋書きのものもありそうな感じがするが、実際にそうしてショックを与えて記憶を戻すような映画は見たことがない気がする。ではどうして記憶の戻し方といえばそんな方法を想起するのかといえば、実際に実行されることはそうそうなくても、提案だけはされるからだろう。何もしないよりはしないより良いわけだが、そんな単純な方法で記憶が戻ってくれるはずがない。そうだ、記憶とはそういうものだ。朧げで、あやふやで、しかし自己を保つのに重要な、貴重な存在だ。白河はそれを、一部とはいえ失った。そして彼女は、失った記憶は犯人を見さえすれば思い出すと主張している。
「失った記憶を元に戻すためには、そもそも記憶が何処にあるか、ってのを考えなきゃならん話になる」
「脳でしょう」
「おまえ、そうやって人の話をぶち切るなよ」
と牛草は言うが、犬上には流れ行くテールライトの中に記憶があるように思えないのだから、仕方がない。赤信号で止まっていたが、色が変わったのでアクセルを踏み、再発進する。
「何かを見て思い出す、ってことがあるだろう。たとえば財布を開いてみて、そういえば先月買った宝籤は当たったかな、と思い出すだとか。財布に宝籤が入ってなくてもな。そういう場合、財布を開いて思い出したんだから、宝籤の記憶は財布にあったとも考えられるだろう」
「宝籤、買ったんですか?」
「物の喩えだ。一例だ」
「当たったんですか?」
「三百円」
「財布見なくても思い出す場合は?」
「そういう場合も、何か外の要因があって思い出すもんだろう。たとえば、宝籤のCMがやってたとか、宝籤売り場に来ただとか、金がないことを思い出したとか。だからそういう場合は、それぞれに記憶が詰まっていることになる。そういう記憶が視覚だとか聴覚だとかを通して脳を通じ、明確に考えられる形になるっていうふうにな」
「結局脳を通しているんだから、屁理屈ですね」と犬上は返す。
「そういう考え方もできるってことだよ」と牛草は鼻を鳴らした。「なんかの本で読んだんだ」
反対車線から右折車がぎりぎりのタイミングで交差点に入ってきた。犬上はアクセルを緩め、右折車を通す。牛草が悪態を吐いた。
しばらく沈黙が続いた。
犬上は少し躊躇ってからアクセルとともに疑問を投げかけた。
「どうして白河さんに、警察は事件の捜査を諦めているなんて言ったんですか?」
「そこまで直接的に言ったわけじゃあなかったんだけどな」
と牛草は殆ど犬上の心を一から十まで理解したかのような返答を寄越した。
牛草の言葉の続きを待つ。もうすぐ警察署だ。帰れば報告書を書かなくてはいけない。面倒臭い。書きたくない。話を途切れさせたくない。白河の事件に関することが、もっと知りたい。
「おれも前に会ったんだよ」と牛草がひとつ溜め息を吐いて、諦めたように言った。「おまえと同じように、非番の日だったか……。ひと月くらい前かな。ひとりで街中をうろうろしてた。あの子には、ほんとに頭が下がる」
「捜査は本当に進展してないんですか?」
「進展してたら、あの子にそう言ってやれたんだが……。下手な嘘は吐けなかったわけだ」
と牛草は肩を竦める。
周辺住民どころか被害者自身からの目撃証言なし、犯人を特定できるような物的証拠はあれど、犯人に結び付けられるものはなし、関連犯罪もなし。捜査が行き詰るのも解る。
何よりも、銃犯罪を重大に捉えた県警が指揮を執っていたのに何の手がかりも見付からなかったのだ。県警が無能ではないことは理解しているし、でなくともそれだけ多くの人員が投下されたのだ。それで駄目だった。
だが。
「どうにかなりませんか」
犬上はそう問わずにはいわれない。どうにかできないか。事件を解決してやることはできないか、と。
牛草は鼻を鳴らして笑う。
「なんだ、おまえ、あの子に恋でもしたか。可愛らしい子だからな。年上だが」
恋?
牛草の言葉に、犬上は心の底から驚いた。成る程、そういう考え方もあるか。確かに、誰かの悩みを解決してやりたいというのは、その誰かに好意を抱いているからと考えるのがふつうかもしれない。だが犬上は、そんなこと考えもしなかった。
思い出すのはあの小柄で痩せた白河の、人を見下したような目つきばかりで、犬上はそれを見返してやりたかった。おれは、警察は、無能じゃないのだぞ、と。それだけのことだ。それだけ。
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