第4話 新米刑事、挑むような目つきの女と再会すること

 室内では高さに注意しないと頭をぶつけてしまうから、上のほうに注意をするのは珍しいことではない。しかし今回犬上大輔が上を見上げたのは、ドアの留め具や戸棚の扉に気をつけるためではなかった。

 一Kのアパートの天井は、寝るスペースのみがあるロフトがある方向に向かって高くなっていて、白い壁紙があるばかりだ。穴が空いていたり、杭が出ていたりということはない。ロフトには引っ掛けるような出っ張りはないし、高さが十分とはいえない。台所にしても、それらしい突起は見当たらない。綺麗といえば綺麗なのだが、手入れが行き届いているというよりは単に日常的に使われていないのであろう流し台だ。


「すいませんね、金も返せなくて」

 と背後から声がかかる。音無春邦である。音無が言ったのは、最初に会ったときに犬上が病院での診察費や食事代を立て替えたからだろう。今日、彼のアパートを訪ねて来たのは、単に彼のその後の具合が気になったからなのだが、音無は金を取り立てに来たと思ったらしい。

「いや、記憶が戻らないうちは急がなくていい。大学生は金がないらしいし」

「そう言ってもらえると、助かります」

 と音無は人懐こい笑顔で笑った。名は取り戻したが、彼の記憶は未だ戻ってはいない。

 玄関には、犬上の革靴以外はサンダルとスニーカーがあるだけだった。脇には靴箱があるが、その上には市指定のゴミ袋が載っている。それだけだ。物の無い家だった。


「あんまりお構いもできなくて、申し訳ないです」

「いや、非番なんで寄っただけだから……大学生活は困ってないのか?」

「これが意外と、記憶がなくてもなんとかなるもんで」と音無は肩を竦めた。

「そうか………」

 犬上は頷いて、しかし続く言葉が見つからなかった。もともとあまり口が達者な部類ではない。音無とは共通の話題があるわけでもない。じゃあ、とだけ言って、アパートの音無の居室を出た。


 二階建ての、小さなアパートだった。それほど新しいわけではないし、壊れそうなほどに古いわけではない。一階と二階で部屋数がそれぞれ四つずつ並んでいる。東側が森に面しているせいか、階段には蜘蛛が巣を作っていたり、黄色のふわふわとした蛾が止まっていたりする。階段の石畳は、所々欠けたり割れたりしていた。

 何処にでもある、珍しくもないアパートで、ただ小高い丘の上にあるので、アパートを降りたところの道路からの眺めが良かった。市内がおおよそ一望できるし、風が心地良い。


(やはり首を吊ったのは、あの家ではない)

 考える内容はしかし、心地良さなどとは無縁のことだった。

 高さが必要な投身自殺や目張りのいる練炭自殺ならともかく、首吊りといえば場所は自宅か樹海と相場が決まっている。だが、あの家には音無が首を吊った形跡は一切なかった。では、外で吊ったのか。

 おそらく、そうだ。そして音無の家を訪ねる前に、それらしい場所は見つけていた。

 音無のアパートから坂を十分ほど下った場所にある神社がそれだ。正月や祭りの時期に賑わう大通りにある国宝指定の神社とは違い、森の中にひっそりと佇むかのような小さな神社だが、鳥居から拝殿に向けて伸びる石階段は。下から見上げても社の屋根すら見えないほどの立派なものだ。

 その階段の中腹、休憩場所としての機能もあるのであろう手水舎やベンチのあるその場所の近くの木の近くに、ロープが結ばれた枝が落ちているのを神社の神主が見つけた。それは犬上が音無と出会った翌日の話で、既に場所も物品も確認済みだった。


 現場に残っていた縄は、明らかに首吊りの跡を匂わせる輪が形作られていた。結ばれた枝は太かったが、成人男性ひとりの体重を支えるには足りなかったのだろう、折れていた。

 神社の敷地内とはいえ——いや、だからこそ、人気がない場所だった。おまけに参道からも社からも距離がある。現場が見える石階段を通らずとも、拝殿横の小道から参拝もできる。神主の話では、催事時期ではない限りは、長い階段を登ってくる参拝客はあまりいないということだった。首吊りの現場を見た者はいないだろう。だが、その神社で首吊りをしたのが音無であることは間違いないだろう。


 なぜ。


 なぜ外で首を吊ったのか、その理由はわからない。

 が、死ねなかった。それはわかる。音無の記憶だけが失われて、それからは亡羊としたまま彷徨っていたというわけだ。そして犬上と出会った。


「本当に、自殺なのですか」

 一週間前、犬上は音無を診察した医者に、そう尋ねたことを覚えている。

 返って来た返答は、少なくとも縄を用いて体重が首にかかるように締めた痕があることは確かで、これはふつう自殺と考えられるが、やりようによっては、他人が自殺に見せかけるためにそのような締め方をした可能性もあるだろう、ということだった。

「自殺に見せかける首の絞め方というのもあるのでしょう? 前に推理小説で読みましたよ」

 などと医者は言っていたが、締め方に工夫などしなくても、結果的に自殺と同じ形式で首が絞まるようにすれば良いだけなのだ。音無の巨体を担ぎ上げて首を縄目に通すのは、同じくらい上背がある犬上でも苦労するだろうが、道具とやり方を工夫すれば非力な者でも可能だろう。


 だが犬上は、音無の首の縄目が自殺によるものであり、その現場は首吊り跡のあった神社だろうと殆ど確信に近い思いを抱いていた。音無という男は、何処か飄々としていて、得体が知れない。それが記憶の喪失によるものなのかは判らないが、あの物がまったくといっていいほどない部屋を見るに、不安感に駆られた。

「あの男は記憶が戻らないほうが幸せなのかもしれない」

 今日見た限りでは、音無の首にはもう縄目などはなかった。一週間経っているのだから、首の痕が消えているのは当たり前だが、彼が再度自殺を試みなかったということは良いことだ。記憶などという、人類にとっては未だ不可侵の領域のことは、無為自然に任せるしかないのだろうが、彼の安寧がこのまま続くことを祈らずにはいられない。


 犬上はぶらぶらと歩いて丘を下った。左手には住宅街が、右手には人の立ち入ることができないほど鬱蒼とした森がある。平日の昼間であるため、人の姿はときおり買い物帰りの主婦や老人、あるいは近くの大学で授業を終えたらしい学生を見るくらいだ。その中で、磨かれた石造りのベンチに日傘を差したまま腰掛けている女の姿はやけに目立っていた。

(傷があるな………)

 最初に会ったときには別れ際になってようやく気づいた傷が、報告書を通して事件のあらましを知ったいまでは目立って見えた。髪に隠れてはいるが、右眉の上に、裂傷とも火傷とも違う傷が。

 すれ違うとき、とりあえず会釈をした。白河から会釈が返って来ることはなかった。彼女は興味無さそうな表情で犬上を見て、すぐに視線を路上に移した。


 犬上が彼女の前を通過してから引き返してたのは、その態度が気に入らないからというわけではなかった。ひとつには、知らない相手ではないとはいえ、直方体の黒石のベンチに腰掛けて行き交う人々を眺める女の姿が不審に見えたからというのがあって、これは刑事としての職業病のようなものだった。

 もうひとつの理由は弱々しく佇む白河の姿が、何処か体調が悪いのではないかと思えたからで、こちらは職業というよりは、男としての使命感からの行動であった。


「どうも」

 と犬上が正面に立って挨拶をしてから、白河は初めて反応を示した。といっても、ちらと視線を返してから、首を小さく動かしただけであったが。

「何をやっているんですか?」

 そんなふうに尋ねようとした犬上だったが、直前で躊躇してしまうのは、不躾な質問だという気がしたというのもあったが、それ以上にこのまま問いかけても無視されそうな気がしたからだ。ここまで反応が薄いと、そもそも己のことが正しく認識されていないのではないかとさえ思えてしまう。彼女と会ったのは一度きりだし、そのときは仕事用のスーツを着ていたが、いまはジーンズを穿いたラフな格好だ。身長差のせいで視線が交錯することもろくろくなかったので、顔を覚えられていなくても無理はない。


 そんな危惧のために、直前で固まってしまった犬上だったが、白河が口を開いたことで心配する必要がなくなった。

「お仕事は」

 短いその言葉に続くものはなかったが、少なくとも白河が犬上のことを覚えていてくれていたということは理解できた。

「いや、今日は代休で非番で休みで……」

「そうですか」

 と犬上の言葉を殆ど遮るように遮って、白河は視線を逸らした。


「これから、大学ですか?」

 と犬上はめげずに問いかける。時間帯は朝というよりは昼だが、大学というものは時間にいいかげんなものだと聞いている。

「いまは休学中です」

「じゃあ……どこかに行かれるんですか?」

「いえ」

「ここでぼぅっとしているんですか?」

「そうです」

 ほとんど会話になっていないような遣り取りであったが、無視されなかっただけありがたい。座っている彼女を見下ろしていると、細い首や鎖骨の形がよくわかる。


 白河という女は、どこか音無に似ているところがあるな、と犬上は思った。人の話を聞いているのか判らないところと、話し相手の思いを汲み取ってくれないところ、それに無気力なところが似ている。どちらも死に掛けている上に記憶喪失の部分があり、白河の場合は大切な人を亡くしているのだから、呆けていても仕方がないのかもしれない。

「どうしてですか?」

「警察はまだ事件の捜査をしているんですか?」

 白河は犬上の問いには答えず、逆に問いかけてきた。返答するのに何か都合が悪いことがあるのか、でなければ質問をすることが犬上の問いかけの返答に繋がるのだろう。そう思って、犬上はまずは質問に答えることにした。

「県警と合同で捜査中です」

「半ば迷宮入りだと、牛草さんが教えてくれました」

 白河は、警察が無力だと言いたいのかもしれない。彼女の挑戦的な視線を真っ向から受けて、犬上はそんなふうに思った。


 その視線はすぐに逸らされたが、今度は無気力に余所を向くというわけではなかった。彼女は目を見開き、道の向こうを見ていた。何か居るのかと思ったが、ただ坂を下りて人が歩いてくるだけだった。大学生だろう。肩掛けの鞄を提げたラフな格好だ。

 彼女はその大学生が犬上の背後を通り、通り過ぎるまでの間、食い入るように見ていたので、初めは同じ大学に通う知り合いなのではないかと思った。しかしそれにしては、相手の学生のほうは、ちらと白河を見やっただけで、無視して素通りしてしまう。なぜ見られているのか解らないとでもいうような、不思議そうな表情だった。白河が小柄な女性とはいえ、睨むような視線であれば、あまり快くも無いのかもしれない。

 なぜ、いまの男を見ていたのか。

 そして彼女が何をしているのか。

 警察官訓練施設で牛草が伝えたかったことは何なのか。


 それらの回答は坂を下ってやってきた学生が消えた先から、またべつの男性がやって来て、その男性を白河がやはり凝視し始めたことから検討がついた。

「犯人を捜すつもりですか」

 犬上がそう問いかけても、白河はまだ男の姿を追っていた。やはり怪訝な表情をして足早に通り過ぎる男の顔が見えなくなってから、彼女は犬上を見つめ返してきた。

 やはり小さな女だ、と犬上は思った。

 単に小柄だというのではない。女性というと、もっと柔らかいものだ。肉付きが良くて、丸みを帯びていて、濡れたようにしっとりしているものだ。ふっくらしているものだ。だがこの女は逆だ。硬くて、骨ばかりで、乾いている。干物や干し首のようなもので、だから小さく見える。


「だって、警察は諦めているのでしょう?」

「おれは諦めてはいません」

「あなたは刑事ではないのですか?」

 と白河は皮肉を言ってきた。

「おれが諦めていなければ、警察が諦めていないのと同じです」

 言いながら、犬上は己が何を言いたいのかよくわからなくなった。浮き上がるままに言葉を返しただけだった。だが白河が視線を逸らしたので、勝った、と思った。よし、この生意気そうな女をひとまずは言い負かせられたぞ、と。

「あなたひとりでは、犯人を見つけることもできないでしょう」と犬上は言い募る。「顔も声も、影一つも覚えていないのでしょう? それなのにどうやって探すんです」

「会えば」

「え?」

 地面を向いたままの白河の小さな声が聞き取れず、犬上は聞き返した。


 会えば、会えば。白河は顔を上げて言う。「会えばわかります。思い出します。たぶん……きっと」

 絶句して、一瞬言葉が出なかった。出たとしても、馬鹿な、だとか、頭がおかしいのか、だとか、そういった罵倒の文句しか出てこなかっただろう。それならむしろ黙っていたほうがましなので、言葉が出てこなかったのはありがたかった。

 彼女が犯人を探しているのだということは予想がついていたが、犯人の顔を思い出そうとしているなどと、自分の記憶が都合良く現れることを期待しているなどとは思ってもいなかった。

「会えば……顔を見れば、きっと分かるはずなんです」

 白河はまだ繰り返していた。拳を握り締めて力説する彼女を見ていると、やはり小さく、硬く、一心で、女というよりは子どものように感じられた。すると子ども相手に論理を押し付けて勝ち誇っていた己が、急に情けなく感じられた。

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