第2話 新米刑事、挑むような目つきの女に出会うこと
厳しい坂だった。
勾配がそう険しいというわけではないのだが、アスファルトの坂は酷く長い。白瀬市は坂の多い町だ。駅前の繁華街はそれほどでもないが、少し郊外にいけば急激に坂が増え、その両脇に住宅や公園、田園風景が並ぶ長閑な街だ。とはいえ江戸時代の城下町から発展、近代化した都市であれば、地方中枢都市として十二分の人口と経済圏を抱える。であれば、事故も事件も多い。
「呼吸が停止し、脳が酸素欠乏状態に陥ったことが、健忘の引き金になったのかもしれません」
黒いアスファルトが続くのを見ていると、しぜんと医者の言葉が思い出された。記憶喪失の男の診察をした医者の言葉だ。
注意深く上から視線を向けてみれば、確かに首に痕が残っていた。彼自身には見えないだろうし、ワイシャツを着ていたので外からは襟で隠れているため気づかなかったのだ。
「どうでしたか?」
病院で診察室から退室したあと、己が首の縄目に気付かぬ男は首を傾げたものだ。犬上は、正直に医師の診察結果を告げるべきかどうか迷ったのだが、結局彼には告げずに、牛草刑事にだけ話した。
「そうか」
の一言が帰ってきただけだった。どうすれば記憶が戻るかは兎も角、記憶喪失の原因そのものについてはあまり興味がないらしい。
しかし医者の話では、すぐに記憶喪失が戻るような簡単な治療方法はなく、投薬とカウンセリングで徐々に戻していくか、何か外的な刺激を与えてやるしかないらしい。
「じゃあ殴ってみるか」
と牛草は言ったが、外的な刺激というのはそういうことではなく、例えば彼の本当の名前を教えてやるだとか、そういった記憶を揺さぶるような情報を与えてやるということなのだという。しかし犬上たちは彼の名前すら知らないわけで、どうしようもなかった。
ひとまず白瀬署の中では比較的多くの市民と触れ合う機会が多い生活安全課に男を預け、犬上と牛草は本来の職務に戻った。つまり現在は警邏という名目での地理確認のための見回り中である。
思い起こされるのは、何か判ったことがあったら教えてください、と告げて生活安全課を出ようとしたときの課の捜査員の、そんなこと言われても困る、と言いたげな表情である。やはり彼を最初に見つけた犬上が、どうにかして彼の名前や住所を発見しなくてはならない。でないと、彼は路頭に迷うことになるだろう。そうなったら、警邏の警官がまた彼に職務質問をかけることになって、二度手間だ。とはいっても、手がかりがほとんどないので彼の正体把握は難航しそうだが。
「連れて来るべきだったか」
などと後悔の念が頭を過ぎる。というのも、服以外の所持品を一切有していなかった以上、手がかりになりそうなのは彼の容姿だけなのだ。身長が並で痩せ型となれば昨今の若者には珍しくはない風態とはいえ、市内に住んでいるのであれば、友人知人が声をかけてくることもあるだろう。それで空振りなら、兎に角あの男を見たことがないか声をかけていけば、しぜんと探索範囲が狭まるだろう。
しかしいまは職務中で、男の正体を探るのが本来の職務とは離れているとなれば、そう簡単にはいかない。刑事は社会人なうえ、法的にはともかく、会社人だ。下手に身分を悟られないようにという理由もあるが、恰好は安物ながらサラリーマンのようなスーツで、署のことは会社と呼ぶ慣例になっている。職務外の行動は容易には行えない。昨日までは制服を着ての派出所勤務であり、今日から所轄署へ異動となった犬上は、スーツ姿がいまいち慣れないのだが。
現在、まだ事件の対応中ではなく、進行形で捜査中の事件もないということは、あの男を連れて歩いて手がかりを探しても良さそうなものだが、先輩刑事である牛草からの許可がおりなかった。「何かあったとき邪魔だから」ということだ。曰く、市民はみな犯罪者予備軍のようなものなので、いつなんどき事件が起きてもおかしくないのだという。市民が犯罪者とは、あまり穏やかな言い方ではない。
「いや、予備軍だ。予備軍で良かったね、ってこと」
牛草曰く、犯罪者予備軍というのはむしろ優等なことで、犯罪者予備軍というのは守らなければいけないのだという。
予備軍というのは、つまり罪を犯すかもしれないが、まだ実行していない人々のことだ。実際に犯罪に手を染めていないなら、どんなにかいかがしい人間でも、悪行を考えていても、それは構わないのだという。
「想像するだけなら、犯罪じゃあねぇだろう」
むしろ、想像するだけに留めているのだから、優等だ、と。
ならば牛草から見れば、杖を突いて歩く穏和そうな老人も、ランドセルを背負って追いかけあう小学生も、日傘を差してこちらに歩み寄ってくる女性も、平和な犯罪者予備軍ということか。そうした目で見ているのか。これまで派出所で市民の助けになろうとしてきた犬上としては、すぐにそんなふうに切り替えることはできない。あるいはもっと単純に、思想は弾圧できないということなのだろうか。
そんなふうに考えていたときに、連続した電子音が鳴った。牛草の携帯電話だ。
「大学からだ」と牛草が携帯電話のディスプレイを見て呟く。「見つかったのかもな」
犬上と牛草は、記憶喪失の男は大学生か予備校生かもしれない、と検討をつけていた。古い風習ゆえか、大学や予備校といったものは警察のことを嫌いがちではあり、警察権力を笠に着て、などということはできないのだが、写真を渡して該当する生徒が存在しないかどうか調べてもらう程度のことは行ってもらえた。手がかりが容姿だけということで、照会に時間がかかったようだが、電話を受けた牛草曰く、T大学の学生だということらしい。彼は携帯電話を首に挟んで応対しながら、メモ帳に何某か書き付けている。
牛草が電話をしている間、犬上は周囲をぐるりと見回した。と、先ほど視線を留めた日傘を差す小柄な女性と目が合った。若い女だ。女の表情は、刑事が来たから犯罪行為を行うのは止めよう、などと考えているようには見えず、刑事がいるということは何か事件が起きているのだろうか、などという好奇の色も含んではいなかった。
ではどのような表情をしているかというと、そこにあるのは睨むような視線だ。挑むような、だろうか。なぜ。そもそも、犬上も牛草も市井に溶け込むためのスーツ姿なのだから、警察関係者だとは一般人にはわからないはずだ。牛草の知り合いかと思ったが、彼は電話に集中していて、女性を見ていないので、判然としない。正体がわからないので下手に声をかけることもできず、しぜんと睨みあう形になってしまう。
「ああ……こりゃどうも」
と電話を終えた牛草が女性に目を留め、頭を下げる。倣って、犬上もようやく頭を下げた。
どうも、と女性からも声が返ってくる。容姿に反してよく通る、小さいながらはっきりとした声調だった。
じろりと女の視線が動き、また犬上に戻る。初対面なので、睨まれる謂れはない。単に見知らぬ人間を観察しているだけなのかもしれない、と肯定的に受け取りながら、犬上はその視線を真っ向から受けとめてやった。
女だ、とわかりきった感想を抱いてしまう。視線を受け止めて逆に観察し返しているときに、か細い足首だの手首だのが目に入ったからだ。男の身体とは明らかに違う。女性の身体だ。白く透けるような肌に栗色の肩元までの髪で、挑むようなその目つきがなければ、もう少し可愛らしく見えるかもしれない。
「うちの若いのです。今月配属されたばかりで………」
と牛草が犬上を示して女性に説明をした。彼の濁声は、犬上に投げかけるものよりも明らかに優しい色を孕んでいた。
いまだ女性の正体は掴めなかったが、犬上は念のため敬礼をして名乗る。「本日から白瀬署の刑事課に配属されました、犬上大輔巡査です」
「そうですか」
女性の反応を聞いて、犬上は顔が引き攣るのを抑えられなかった。なにが、そうですか、だ。気の無い返事にしても、もう少し言い方があるだろうに。初めは射抜くようだったその視線は伏せられていて、犬上のことも、知人らしい牛草のことさえも見てはいない。つまり、興味がないということか。どうでもいいということか。
「買い物帰りですか」
牛草が尋ねると、女性は無言で一度頷いた。片手にエコバッグを提げているからには、そうなのだろう。牛草の問いかけも、関係性はわからないものの、無難な世間話のそれだ。流れは理解できる。
だが「犬上、家まで送って行ってやれ」と牛草が命令をした理由は理解できなかった。
なぜですか、と当の女性を目の前にしては訊けないし、自分で送ればよかろう、とは言えない。代わりに犬上は「大学からの連絡は?」と問いかけて抵抗を図った。
「ああ、うん、とりあえずそれらしい人間は見つかったから、一旦大学に直接出向いて確認してくる。そういうわけで、あいつのことは対処しておくから、おまえは送ってやれ。荷物は持ってやれ。じゃあな。頼むぞ。
後半の女に向けた二言以外は殆ど言い捨てるようにして、牛草刑事はせかせかと足を動かして立ち去ってしまった。
路上に残されたのは犬上と、白河と呼ばれた女である。彼女も牛草の背を見送っていたが、彼の姿が見えなくなると、犬上の顔を見上げて買い物袋を突きつけてきた。持てということだろう。厚かましい女だと思ったが、牛草が持てと言っていたから、犬上が上司の言葉に従いやすいようにしてやろうという気遣いかもしれない。精神の安定のためにそんなふうに肯定的な見方で己を誤魔化しながら、荷物を受け取る。
家はどちらなのかと尋ねる前に、白河は坂を下る方向に歩き始める。歩幅が違うのですぐに追いつくが、追い越して前を歩くわけにもいかず、だからといって従えられるように後ろから尻を眺める気にもならず、犬上は白河の横を僅かに半歩遅らせて歩いた。
白河というこの日傘の女に関して、牛草は何も言わなかった。何も言わなかったということは、特段の気遣いが必要な相手というわけではないということだろう。だからといって気安くできる相手かというと、少なくとも牛草の側から気を遣っているのは明らかなわけで、粗雑な言葉を投げつけて今日会ったばかりの先輩刑事に迷惑はかけられない。
そんな思考の結果として坂を下る犬上と白河の間には、沈黙だけが漂うこととなった。まだ十五時を少し回ったところで、脇の道路にはときたま車が行き交い、道には主婦や若者、子どもが歩いており、穏やかだ。犬上は張っていた気を少し緩める。会話がないだけ、観察はしやすかった。
斜め後ろから見下ろしても、やはり女だと、当たり前のことを思う。白河のゆったりしたワンピースは、前から見るよりも後ろから見たほうが身体の線がわかりやすかった。掴めば折れそうなほどに線が細くて、しかし不思議と視線の向きが高い女だ、と犬上は感じた。大柄な犬上と比べなくても小柄といえる体格のせいかとも思ったが、単に空を見上げているのかもしれない。何か面白いものでもあるのかと犬上が視線を追従すると、青空の中に一条の光が駆けた。流れ星だ。晴天の青空の下でも、見えるときは見えるものだ。
「流れ星を見ていたんですか」
と言うと、白河は足を止め、また殆ど睨むような目つきで犬上を見てきた。
犬上がそのまま視線を受け止めていると、彼女は視線を前に戻し「たまたま見えただけです」と言って、また歩を進め始めた。
坂を下って、途中で道を細道に折れると傾斜がなくなる。片側にコンクリート塀が連なり、もう片側は側溝に水が流れる道を歩いていくと、二階建ての白い壁のアパートに辿り付いた。小さな駐車場があり、見てくれは小奇麗だ。まだ建てられて数年も経っていないだろう。どうやらここが、白河の棲家らしい。牛草と別れて歩き出してから、十分と経っていない。まだ陽は高く、いくら相手が女性とはいえ、わざわざ送り届ける必要があったとも思えない。
アパートの敷居を跨いだところで白河は振り返り、手を差し出した。握手でもしたいのかと一瞬勘違いしかけたが、寸でのところで買い物袋を差し出すことができた。
「それでは………」
最初の勢いは何処へやら、ほとんど消え入りそうな声で挨拶をして頭を下げる。そして頭が持ち上がったとき、ふわりと風が吹いた。昼過ぎの時刻には心地良い軽やかな風は、白河の髪を揺らした。露わになった額に、何かが見えた。傷跡だ。右のこめかみに走るその跡は歪で、改めて意識すると髪が被っていてもその傷跡は目立って見えた。
踵を返し、白河はアパートの中へと歩いて行く。犬上はその背を見送ろうとして、この場で立ち尽くしているのでは執着しているように見えるかもしれないと、急いで踵を返す。
早足で白瀬署に戻ると、署の一階の地域課に向かう廊下のところで牛草を捕まえることができた。
「おお、犬上、戻ったか」と牛草は言った。「あの男だが、確認が取れた。やっぱり間違いないな。T大の学生だ。名前は、
牛草が喋っている間に、地域課の前まで到達する。記憶喪失の男(牛草曰く、音無というらしい)は、地域課の壁に接して置かれたパイプ椅子に座り、所在無げな様子だった。犬上と牛草の存在に気付いている様子だが、特にこちらに向かってくる様子はなく、暈けとした表情をしている。
「ちょっと待ってもらっていいですか」
と犬上は閑散とした様子の地域課に入ろうとした牛草を引き留める。
「あの白河さんという子は、なんなんですか?」
「子ってな……」と牛草は眉を顰める。「あの子はおまえより五つだか六つは年上だぞ。おれが言うならともかく、おまえが、子、はねぇだろ……。おまえ、ちゃんと失礼なく送り届けたか」
失礼なく、かどうかは判らないが、とりあえず送り届けはした。
牛草は溜め息をひとつ吐き、人通りのない廊下で説明を始めた。「おまえが来る前……三ヶ月くらい前だな。強殺があってな」
強殺というのは強盗殺人事件のことだ。
「あの子の恋人が殺された。いや、同棲していた男が、だ……」
「事件は解決したんですか?」
「どころか、犯人の目星さえついていない」と牛草は肩を竦めた。「いちおう捜査中の事件だからな。あとでおまえにも資料を見せようと思っていたんだ」
「いちおう、というのは?」
「さっきも言ったが、犯人の目星がついてない。行きずりの犯行みたいなもんで、物証が少ない。あと、殺人があったうえに、凶器が凶器だからな……。うちの管轄で起きた事件なんだが、結局は県警の預かりになった」
基本的には市町村単位で存在する警察署から捜査員が派遣され、捜査を行うわけだが、事件が凶悪なものであったり、警察署単位では対処できないような規模であった場合には、県警が乗り出してくる。
「何か県警が対応するような理由があったんですか?」
「だから、凶器が特殊だったんだよ」
「特殊?」
「銃だ」
と牛草は人差し指と親指が垂直になるように立てた。
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