第1章 花が散る

第1話 新米刑事、記憶喪失の男を拾うこと

 時期、四月。

 場所、白瀬市駅前アーケード入口脇の蕎麦屋前。


 十三時過ぎともなれば、人通りは少なくはない。平日ではあったが、四月の一日であれば、まだ学生は春休み。大学にほど近い場所であることも手伝い、若者の姿も多く、また社会人や主婦層も珍しくない。

 だがその中で、道を行き交うわけでも、アーケードやその前の店を見たり中に入るわけでも、誰かと待ち合わせするわけでもなく立っている三人の男は、明らかに異物であった。


 ひとりは中年の男で、その年齢らしく髪の毛に白いものが混じり、前髪が後退しつつある。色褪せたスーツの腹もやはり年齢を感じさせるとおりに突き出ていたが、だらしなさが見えるのは腹だけで、小柄なその身には太く厚い筋肉が覆っていた。

 ひとりは若い男である。中年男が服の下に筋肉を隠しているのに対し、こちらはよく観察しなくてもそれとわかるほどの肉体であった。おまけに背が高いので、否応無しに目立つ。精悍といえる顔立ちではあるのだが、その表情には狼狽の色が差し込んでいた。彼もまたスーツ姿だった——もっともその生地は彼の年齢と同じように真新しくはあったが。

 そして最後のひとりは——汚れたジーンズにシャツというラフな格好で、痩せていた。長身の男と比べると、その貧相さがよく目立つ。格好だけではなく、その瞳にもどこか力がない。おまけに靴も靴下も履いておらず裸足となれば、明らかに不審な色が漂っていた。


「こういうときは、保護した刑事が泊めてやるもんだろう」

 中年男——先輩刑事であり、捜査では相棒となる牛草うしくさ刑事が言ったその言葉は、もちろん冗談として発せられたものであろう。そうでなければ、困る。

 白瀬署刑事課、主に傷害や強盗事件に関して扱う強行犯係に配属されたばかりの、長身で筋肉質の若い刑事——犬上大輔いぬがみだいすけが路上で発見・保護した人物は、己の名前や素性、生い立ちなどをすべて忘れていた。そのくせ一般的な常識だとかは覚えている。いわゆる記憶喪失というやつだ。いわゆる。世間でそうそう、記憶喪失などという単語が使われることなどないだろうが。

 犬上は記憶喪失どころか、病気らしい病気もしたことがない。そのぶん怪我は人より多くしている自覚があるので、全体との釣り合いは取れていると思うのだが、そんな彼にとっては、記憶喪失という症状はいかにも胡散臭く見えてしまう。


(同い年くらいか)

 痩せた男——記憶喪失だという人物の覇気のない表情を観察して、己とそう変わらぬ年齢で、おそらくは二十歳前後だろうと検討をつける。学生かもしれない。大学生か、専門学校生か。記憶を失っているのならば、確かめようがないが。

 なるほど記憶喪失で寄る辺がないならば、見つけた人間が保護してやるというのは、一定の規則に則った行動であるように感じる。もし相手が美女ならば、そうですね、と頷いて連れて帰ったかもしれない。いや、どちらにしても無理か。

「おれは寮暮らしです」

 そう言ってやると、ああ、畜生、そうだったか、つまらん、などと返される。独り身の警察官はだいたいが警察寮暮らしなのだから予想ができただろうに、何を期待していたというのか。


 なぜこんな会話をする羽目になったのか。四月。今日というこの日は、派出所勤務から念願の白瀬署刑事課に転属されてからの初の外回りだった。主たる目的は周辺地理を覚えることである。しかし、いわゆる「おまわりさん」ではなく、刑事課の捜査員になったということで、犬上は張り切っていた。何か事件はなかろうかと、不謹慎な期待をしていたくらいで、だから明らかに不審な人物がいれば、それは声をかける。

 見つけたのは、ジーンズに白いワイシャツをラフに着た男だった。手には何も持っておらず、鞄の類もなかった。服には泥や汚れが付着しており、おまけに裸足だ。

「職質かけてきていいですか?」

 同行した先輩刑事にそう問うてみれば、返ってきたのは「いいんじゃない?」という一言で、犬上はその「いい」を許可するという意味だと捉えた。


 季節は春である。頭がおかしいのが多い季節だというが、転機の季節でもある。犬上は刑事課という憧れの仕事場に辿り付いたことで未来に期待を抱いているが、誰しもがそうだとは限らない。失望し、絶望を抱いている人間もいるだろう。その男は、そうした人間に見えたのだ。

 近づいてみても、特段逃げる様子などは見せなかった。どころか、ガードレールに座ったまま顔も上げず、犬上のことをほとんど無視しているように見えた。

 近づいてみて抱いたのは、痩せた男だという印象だった。特に自分と比較すれば、だ——と犬上は思った。犬上は体格に自信がある部類だ。身の丈は一九〇センチメートルを超えているし、刑事という職業柄、また武道をやっていたという経験から、服の上からでも判るほどの筋肉がついている。

 一方で目の前の男はというと、ワイシャツから出ている首や手首は細く、両手の握力を合わせても犬上の片手よりも小さそうだ。自分と同じくらいの年齢のように見えるのにやけに儚げで、座っているので見下ろせる首元には鎖骨が浮いている。肩も薄い。痩せた、力のない男だった。


 なんと声をかけようかと逡巡していた犬上の前で、男がようやく顔をあげた。色のないその顔にある汚れた口から、黄色く汚れた歯が覗いていた。

「きみは……」

「誰ですか?」

 殆ど犬上の問いかけに被せられるようにして男が発した言葉は、しかしこちらの虚を突くつもりはなかったのだろう。犬上へと焦点が合っておらず、自分の裡に篭っているように見える。

「警察なんだけど」と犬上は警戒しつつ、片手だけで警察手帳を取り出して開いてみせる。「ちょっと話を聞かせてもらって良いですか?」

 丁寧語になってしまった。いや、悪くないのだろうか。先月までは制服警官で、そのときは市民に声をかけるときにはできるだけ丁寧になるように気をつけていた。ただでさえ威圧感のある体格で、面相も美形の優男とはいかないからだ。制服警官の相手は、普通は善良な市民だった。

 いまは、違う。捜査官だ。警邏兼周辺地理の理解のために外回りをしているわけで、明確な目標を持って行動をしているわけではないが、捜査官が対応するのは事件であり、相対するのはその犯人だ。であれば、威圧感を与えておくべきかもしれない。いや、しかし、まだ事件性があるのかはわからないし、あったとしても、目の前の男は明らかに不審人物ではあったが、人を殺して逃げてきたという様相ではなかった。


「警察……」男は繰り返し、それから己の足に視線を落とし、目前の刑事へと視線を戻してから、「ああ」と頷いた。ああ、ああ、なるほど、なるほどなぁ。「それは都合が良かった。どうすれば良いか迷っていたんです」

「都合?」

「ぼくは……たぶん、なんですが、いわゆる記憶喪失みたいなんです」

 男が口を歪めて笑ったのを見て、犬上は姿勢こそ変えはしなかったが、筋肉を硬直させてすぐに動けるように全身に力を漲らせた。反応が予想外だったのだ。理解ができないものに対する緊張感が、警戒を促したのだ。本能的な防御反応であり、目の前の男からはそれだけの異常さが見て取れたのだ。


 痩せた男はといえば、犬上の反応など意に返さずに喋り続けていた。自分の記憶が少し前、正確にはいつかは判らないが、少なくとも今日になってから記憶がないこと。荷物は持っておらず、懐にも何も入っておらず、身元を確認できないでいたこと。なんとなく街の地形は頭に入っているのに、歩いていても誰にも声をかけられなかったこと。靴がないので困ったこと。腹が減ったということ。金がないこと。何か食べたいこと。

 勢い良く喋り始めた男を前にして、犬上は先輩刑事を振り返って助けを求めることしかできなかった。

「記憶喪失のやつの支援は警察の仕事じゃないぞ」

 と近づいてきた牛草は言い放った。役所に行け、役所に、と。

「でも役所に行こうにも、身分証明書がないんです」と男がすぐさま応じる。

「ああ、それもそうだな」ふむん、と牛草は顎に手を当てる。「役所で何かしらの手続きをするためには身分証が要るが、記憶喪失ともなると身分を証明どころか身分を知るための一切のものがない、と。これは問題だな。どこで手続きすればいいのか。身元不明人の証明書とかないのかな。市役所でできたりするのか? しかし、市役所の人間が相手をするのは市内の人間だけだろう。市内の人間かどうかわからなければ何もしてくれなさそうだな」


「警察なのに、法律のことを知らないんですか?」

「おれはずっと刑事だ。刑事課で必要ない知識はいらん……」で、あんたは、と牛草は言う。「あんたは、本当に何も覚えてないのか」

「判らないのは自分のことだけでほかのだいたいのことは解ってます。一般常識は理解しているつもりだし、ここが白瀬市だということも知っています。たぶん、ここに住んでいた――住んでいる人間でしょう」

 と男はいやにはきはきと答えた。記憶喪失というのは、こういうものなのだろうか。

「たぶん」と男はさらに言う。「一過性の健忘というやつだと思います。何らかの外的要因……つまり、頭を打っただとか、そういうのか、でなければ心理的な要因によって、記憶が抑圧された状態にあるのではないかと」

「あんたは医者かなんかか」

「そう見えますか?」

「見えんな」と言って牛草は目を細める。「若いな。せいぜい学生だろう。頭を打ったのか?」

「瘤はないですが……」と男は己の後頭部に手をやる。「ちょっと判りませんね。ぼくは、これからどうすれば良いのでしょう?」


「あの、すいません」と犬上は手を挙げてふたりの会話に割り込んだ。「ほんとに、記憶喪失?」

「信用できませんか?」

 という男の問いかけに、犬上は正直に頷いた。当たり前だ、信じられない。牛草が動じずに対応しているのが凄まじい。彼は犬上の二倍ほどの年齢なので、それだけ経験を積んでいて、記憶喪失を自称する人間に出会ったのも一度や二度ではないのかもしれない。

「まぁ、それはそうでしょう。ぼくも記憶喪失の人なんて見たことがないですからね。忘れてるだけかもしれないけど」と男は大仰に肩を竦める。「記憶がないってことを証明するのは難しいですね。悪魔の証明だと思います。逆だと楽なんだけどな。とりあえず、信じなくても良いので、助けていただければ幸いです。差しあたっては、腹が減っているようなので、お金か食べ物を恵んでいただけると助かるんですが……。あと靴も」

 犬上と牛草は顔を見合わせた。放置しておくこともできず、とりあえず署へ連れ帰る以外の選択肢はなかった——これがこの男の対応をしなければならなくなったことの経緯だ。


 記憶喪失の男を発見した駅前通りから東へ五分ほど歩いて北へ折れると、賑やかな通りから官公庁や役所の建物が立ち並ぶようになっていく。その中にある、十字路に面した場所にある六階建ての何の変哲も無い四角いだけの建物が、犬上が今日着任したばかりの白瀬署だ。『白瀬警察署』の看板が埋め込まれた目立たないポールと車庫に駐車されたツートンカラーのパトカーがなければ、地味なビルにしか見えないだろう。刑事課は四階だが、そこに向かう前に備品課で職員に事情を話し、作業用の靴下や長靴を借りる。

 刑事課は外から見れば多少柄の悪い男たちが働いているオフィスにしか見えない。ひしめき合っている机の上を見ても、ファイルやノートの中身を見なければ乱雑な性格の者ばかりいることが知れるくらいのものかもしれない。実際に中に入ると、多少ではなく柄の悪く乱雑な性格な男たちが働いていることがわかる。

 刑事課の強行犯係の机のうち、段ボールがひとつだけ置かれている小綺麗な机が犬上の机だ。綺麗好きというわけではなく、本日着任で荷物を出していないためすっきりしているだけだが。

 駐在所から持ってきた荷の中にカップ麺が入っていた。時間がないときの昼食や夕食用のものだったが、賞味期限が切れていた。日頃は保存食のような面をしているくせに、存外に保たないらしい。期限切れは見なかったことにして、自称・記憶喪失男にくれてやる。


 彼がカップ麺を食っている間に、捜索願との照合もしてやった。一般に、失踪人が出た場合、警察では捜索願を受理するが、対象が幼い子どもや老人などではない限り、積極的に捜索を行うことはない。というのは、自分の足で移動できる人間ならば、本人の意思で家出や夜逃げ、駆け落ちをするということは珍しくないからだ。だから通常は身元不明の遺体が発見されたときなどの照会に使われるくらいである。今回のケースは、相手が生きているので、珍しい捜索願の使い方に属する。残念ながら、目の前の男らしき人物は、捜索願の届け出がなされていなかった。

 頭を打った可能性があり、記憶喪失というのが医学的にどういった状態なのかも判らないので、念のためにと署の車両を使って医者にも連れて行ってやった。

「あの、これ、経費で落ちますか?」

 と、病院で順番を待ちながら、同行してくれた牛草刑事に尋ねてみる。

「これは捜査か?」

「いや……違いますけど」

「じゃあ無理だな。こいつが殺人事件の犯人だとかなら、捜査の一環になるからなんとかなるかもしれんが。とりあえず保険証は忘れたで通そう。あとで持ってくる、で言い張るぞ。いや、医者には正直に話したほうがいいのかな。よくわからん。くそ、うんこだな」

 後半の罵倒はさておき、金銭的なことを考えると、頭が痛くなる。しかし医者から診察結果を聞かされたときよりはましだった。


 診察を終えた医者は、記憶喪失の男を退出させてから、付き添いの刑事だけを診察室へ呼んだ。

「頭部に怪我はなく、脳挫傷などの心配はありません」ただ、と医者は言った。「首に縄目の跡がありました。彼は自殺を試みたのだと思われます」

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