火遊び
三津凛
第1話
飯が炊き上がる。カネ子の掌は厚い。飯の熱さをものともしない。朝の冷えた膜を割るようにカネ子は厨を行ったり来たりする。味噌汁の鍋も沸いて湯気を立てる。カネ子は汁椀にさっさとよそおって卓に並べる。
それから、カネ子はせっせと稲荷寿司を詰め込む。そうする内に清五郎がむっくりと起き上がってくる。無精髭を生やして、まるで熊のようだ。
カネ子は無言で味噌汁をかっこむ清五郎を横目で見た。
清五郎は必ず昼飯に稲荷を食べる。カネ子はこの油漬けの皮が好きではなかったが、清五郎は好きだった。炭坑夫のくせに清五郎はあまり食の太い方ではない。朝も味噌汁くらいしか啜らない。カネ子も今では諦めている。
清五郎は無口だ。今朝も振り返らずに弁当の包みをぶら下げて出て行った。カネ子は清五郎が炭坑へ出かけた後は畑に出て土を耕し、握ってきた稲荷寿司とたくあんを昼飯に食べる。その後は掃除をしてきっちり2人分の夕飯を作ってひたすら清五郎の帰りを待っていた。
こうした繰り返しは、カネ子には退屈さよりも安心を感じさせた。カネ子は元来、そういう女である。
清五郎は夜は決まってカネ子の布団に潜り込んだ。特に優しさがあるわけでもなかったが、カネ子はこのぶっきらぼうな抱き方が嫌いではなかった。布団は擦り切れて、中の綿も縮んでぺしゃんこになっている。おまけに丈も足らない。そんなせせこましい中でカネ子は鞠のように弾む清五郎を見上げた。カネ子が貧しく不潔ながらも幸せを感じるのはこういう時だった。
その男と出会ったのは、カネ子がちょうど昼飯を広げる頃だった。男は見慣れない顔だった。炭坑を抱える村には不釣り合いなほど、白い顔をしている。カネ子は胸でも病んでるのかもしらん、と不審に思った。
「そいつは美味そうな稲荷だ」
見かけによらず、男は高い声をしていた。カネ子は男を見上げながら、ぶっきらぼうに返した。
「ただの稲荷寿司だよ」
「それがいいんじゃねえか。あぁ、腹が減った」
カネ子は胡乱げに男をじろじろと眺めた。男は臆することなく、カネ子の手元を除いている。冷えて固まった、清五郎の稲荷に米をあらかた盗られて痩せて小さな稲荷が3つばかり並んでいた。
「お前さん見ない顔だけれど、どこの人だい。役人じゃあるまいね」
「……まあ、そんなとこさ」
男は笑ってはぐらかした。見れば見るほど白い男で、このあたりの男にしては線が細かった。だが見たところ病人というのでもないらしい。
眉が女のように優美に弧を描いて、美男子である。カネ子はほんの少しこの男に好意を持って「ひとつ食べるかい」と稲荷寿司を指差した。
「いいのかい?」
男は露骨に歓んだ。それが無性にカネ子を捕らえた。
「ただの稲荷だよ……」
「それがいいんじゃねえか」
男は気安く稲荷をつまんで美味そうに食べた。
「俺は油揚げに目がないんだ。うまいうまい」
「……まるでお狐様のようだね」
男はそこで不思議な風に笑った。胡桃のような喉仏がころころ震える。
カネ子も目を落として稲荷をつまんだ。飯はぼそぼそとしているし、揚げだっていいものではない。カネ子は少し恥ずかしく思った。
気がつくと男はどこかに消え失せて、カネ子は呆然と畑の中に立ち尽くした。
それから男は昼飯時に決まって現れるようになった。
カネ子の方も、ほとんど話さない清五郎と比べてよく喋る男の方に親しみを感じるようになった。そして稲荷もこんな見すぼらしいものでは駄目だと、精魂を込めるようになった。飯をふっくらと詰め込んで、男はそれをことの外歓んだ。
清五郎が男の存在に気づく気配はなかった。夜になると決まって胸元に潜り込んでくる様子は相変わらずだった。カネ子はほっとして、それを受け入れた。頭の片隅ではぼんやりと稲荷好きのあの男を思い浮かべながら。
男の所在ははっきりとしない。だが幽霊というには男ははっきりとして、物怪というには優しすぎた。カネ子は間をおかず男を好きになった。
「最近は稲荷がやけにしっかりしているな」
「気のせいじゃないか」
「旦那に怪しまれるだろう」
「まさか、あの人はそんな細かい男じゃないよ」
こんなやり取りをする頃には、カネ子は自分のとは別に男のために昼飯をこさえて畑に出て行った。これが不貞になると、カネ子は思わなかった。
不思議と男とカネ子の関係は村人の口にのぼらなかった。カネ子はそれを単純に幸運なことだと歓んでいた。
だがある日、男はカネ子を襲った。
痩せた土を背に感じながら、カネ子は悲愴をまるで抱かなかった。むしろ随分前からそれを待ち望んでいたような気さえする。
男はたったひとこと、「お前は可愛いね」とだけ言って、あとはすべてを乱暴に済ませた。
カネ子が起き上がると、男はぼんやりと畑に座り込んでいた。ふとカネ子は視線を広がる痩せた土地に目を向けた。今年は土が痩せていて、作物の肥えが悪かった。そのせいか、枯草の束が畑には目立っていた。
「今年はまた凶作そうだね」
男は妙に老成した声色を出した。
「そうだね……まだ山が掘れるもんだから、いいけれども」
「ふん」
男は頷いた。
しばらく無言でいると、男が不意に後ずさった。カネ子は不思議に思って男が見ていた方に身を乗り出した。
束ねられていた枯草の束が勢いよく燃えていた。煙はもうもうと天に昇っていく。むせるような臭いがすぐカネ子のところにも届いた。誰かが慣れない野焼きでもしたのだろうか。それにしても周りには誰もいない。それに枯草の束はやたらめったらに放り出されたままで、これでは山火事になりそうな気配だった。カネ子の胸が早鐘を打ち始めた。
今村には女ばかりである。炭坑夫たちが帰ってくるには幾分早い。火はすぐに畑一面に広がった。蛇の舌のように揺らめきながら、枯草の束を捕らえていく。その中から、子どもの泣き声がはっきりと聞こえてきた。女たちが半狂乱になる中で、熊のようなものがさっと飛び込んでいった。
清五郎だった。
カネ子はぼんやりとまだ鼻に残る焦げ臭い匂いを嗅いでいた。清五郎は大火傷をして布団に寝かせられている。医者は幾分顔をしかめながら包帯を巻いていく。幸いに火は村人たちに消されていた。結局子どもは見つからなかったそうだ。屍体も出なかったし、行方不明になった子どももいなかった。だが確かにカネ子は子どもを見た。不義の相手の男は炎を見た途端に霧のように消えてしまった。子どもの泣き声がしているのに、なんと意気地のない卑怯な男だろうとさすがのカネ子も憤った。炭坑帰りの清五郎が脇目も振らずに火の中に飛び込んだのとは対照的だ。
清五郎は芋虫のように身体をよじりながら唸っている。
「一晩乗り越えられれば、まあ大丈夫でしょうな。炭坑夫は頑健だから、そう思い詰めずに看病しなさい」
医者は乾いた口調で言った。カネ子はしつこいほど頭を下げ、無理に茶漬けまで出して医者を見送った。
「何かあったら、すぐに呼びなさい。今夜は2軒隣の村井さんのとこに泊まっているから」
医者は少し迷惑そうにカネ子に言って帰った。
清五郎と2人きりになると、カネ子はまたぼうっとした。飯を食べる気もせず、時折唸る清五郎に冷たい茶を飲ませてやった。らい病患者のように顔も腕も脚も包帯だらけの清五郎は不気味で、おまけに急に唸って身をよじるのがカネ子には恐ろしかった。だがそれがあの勇敢さを誇示するような感じがして、カネ子は不思議な愛おしさを今さら夫に感じてもいた。
夜も更けた頃に、戸を叩く音がしてカネ子は三和土に降りて開けた。
そこには男がいた。相変わらず白くて女のように柔和な顔をしている。相貌にはどこも悪びれた様子がなく、当たり前のような顔をして立っている。
「お前さん、真っ先に逃げたくせによくも、まあ……」
カネ子は早速男を詰った。
「まあまあ、そう言わずに」
男の物腰はあくまで泰然としていて、淀むことがない。
「気の毒なことになったとは思っているよ。ちょうどわたしには医術の心得があるからね、特に火傷は得意なんだ。診てあげようと思ってね」
「はあ」
カネ子はしげしげと男を眺めた。そういわれるとこの男には白衣以外似合わぬように思えてくるから不思議なものである。男は堂々と上がりこむと清五郎の前に座った。迷うことなく包帯を解いていく。
「火傷の一番の治療はこうして焼けた皮膚をみんな剥がしてしまうことさ」
男は薄く笑いながら、清五郎の焦げた皮膚を剥がしていく。途端に清五郎は凄まじい声を上げた。
まるで発条仕掛けの人形のように身体をしならせ、よじる。その様が恐ろしく、次第にカネ子もあまりの異様さに目を塞いだ。男は手を止めず淡々と皮を剥がしていく。
清五郎は「いっそのこと殺してくれ!」と泣き喚いた。カネ子はただ震えて、隅にうずくまることしかできなかった。
どれほど経った頃だろうか、清五郎は喚き疲れたのか次第に静かになっていった。男は静かに包帯を巻き直している。カネ子はその背中を、無心に畏敬の念を持って眺めていた。
気がつくと、男は音もなく居なくなっていた。カネ子も疲れて、少し寝た。
蚊の飛び回る音で、カネ子は俄かに起こされた。まだ清五郎は静かなままである。寝ているのか、物音ひとつしない。カネ子は静かに厨に立つと、こっそり茶漬けを食べた。
夜明けの星が昇る頃、カネ子は何気なく清五郎の方を見やった。泣き疲れてカネ子の瞼はぼんぼんである。その腫れて膨らみ切った視界に見馴れたはずの清五郎が横たわっている。カネ子は喉をしぼって仰け反った。
清五郎の顔は蝋よりも白く、和紙よりも透けていた。それは恐ろしい、この世のものではない色だった。カネ子は大泣きして、まだ明けきらない夜を騒がした。
すぐに医者が駆け込んできて、患者を見るとカネ子に怒鳴った。
「この野郎!どうして患者を弄った!」
包帯は明らかに素人が巻き直したものだった。医者は苛々としながら、女が後ろで喚くのを聞いていた。包帯を解きながら、露わになった患者をひと目見てさすがの医者も絶句した。
患者は生皮をすっかりと剥がされてそこにいた。火傷の皮膚よりもさらに新鮮な皮膚がそこにあった。だがそれは異様な光景だった。人間の仕業ではない、恐ろしい魔物かあるいは神の所業にしか思えなかった。
妻は半狂乱のまま震えている。
医者は優しげに聞いた。
「……誰が、こんなことをしたんだ。まさかお前さんじゃあるまい」
「……知り合いの男が、見舞いに訪ねてきた。医術の心得が、特に火傷の治療には自信があるからと……それからのことはあまりにも酷くて、よく覚えてない」
カネ子はさすがにあの男との関係を詳らかにすることはできなかった。医者はカネ子の動揺に気づくことなく、ただ機械的にその男の特徴だけを聞き出していった。
あまりに奇怪なこの事件は警官の介入するところとなり、その男も村中総出で探された。だが一向に男は見つからなかった。そんな騒ぎの中で、カネ子は清五郎を仏にして葬った。それは周りの村人も呆気にとられるほど鮮やかなものだった。幾分、薄情さも感じるほどカネ子は気丈だった。
カネ子は内心で男がひょっこりと戻るか、見つかりでもすれば道ならぬ関係が露見してしまうかもしれぬ、と恐れていた。だからこのまま夫を殺したあの男が見つからなければいいのにとさえ祈った。それが、カネ子をして気丈にさせたのだ。
男はついに見つからず、カネ子もそのうち大阪の方へ働き口を見つけて村から出て行った。その後の行方は誰も知らない。
事件が村人の口にものぼらなくなった折、酒に酔った誰かが思い出したように呟いた。
「あれは狐の仕業だったのかもしれぬ。狐にとって人間の火傷の皮膚やらかさぶたは大層な薬になると爺さんから聞いたことがある。だからあれも、狐がやったかもしれんなぁ」
それを聞くと別の誰かは笑って、別の誰かは背筋を寒くした。
それからまだ酔いの回っていない誰かは声の主に、はて聞きなれない声色だことと首を傾げた。だが酔っ払いの嬌声に、そんな疑いはすぐに霧散してしまった。酒の肴に稲荷寿司が並んでいる。
「カネ子は目があまり良くなかったろう、だから化かされたのかもな。気の毒なのは清五郎だよ」
そう言って、そいつは異様に白い歯を見せて笑った。
「哀れ、哀れは夫なりけり……恐ろし、恐ろし、歓ぶは獣ばかりなり」
男は嗤って節をつける。
山の峰からコオンと獣の鳴き声がした。
火遊び 三津凛 @mitsurin12
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