枕難民

いとうみこと

第1話

 最初は畳んだタオル。もちろん記憶はない。寝返りが打てるようになってからは、放っておくといつの間にかうつ伏せで寝ているので、窒息死を恐れた母は目が離せなかったそうだ。もちろん枕代わりのタオルは殆ど役には立たなかったらしい。

 記憶にある最初の枕は、当時流行っていた戦隊モノがプリントされた小さな子ども用だった。兄弟喧嘩で投げ合うことはあっても、目覚めた時に頭の下に存在していたことは一度たりともなかった。

 初めて枕の重要性に気づいたのは高校一年の集団宿泊訓練の時だ。布団を並べて友だちと寝そべっている時に、家でどんな枕を使っているかという話題になった。そば殻の枕を足でトスしながら、バイプ枕は通気性がいいだの、低反発は頭が安定するだのと盛り上がったが、相変わらず戦隊モノの綿入り枕を使っていた俺は、適当に相槌を打つしかなかった。

 家に帰ると、早速母親に新しい枕をねだったのだが、客用の枕に余りがあるからと、そば殻の小さな枕しかあてがってもらえなかった。

 その日から、俺はザリザリというそば殻のこすれる音を聞きながら、パイプ枕がどんな爽やかな空気を頭皮に届けてくれるのかを夢想した。別の夜には、低反発の枕にゆっくりと沈み込んでゆく自分の頭を思い描いた。枕は俺を桃源郷へと導く魔法の道具になるはずだった。


 チャンスは大学進学のために親元を離れる際に訪れた。新しい寝具を買ってもらえることになったのだ。俺は自分の野心に気付かれないよう細心の注意を払いながら、枕も新調してもらえるよう画策した。母親には却下されたが、祖母が二千円の予算をつけてくれたお陰で、夢のパイプ枕をゲットできた。

 新居となった古びたアパートの一室で、真新しい枕をカバー代わりのタオルでくるんで布団にのせた初めての夜、俺はなかなか寝付けなかった。興奮したからではない。つぶつぶと頭皮を刺激するパイプが気になって眠れなかったのだ。俺はパイプ枕の良さをいくつも口に出して讃えてみたが、状況は変わらなかった。そして一時間後には、念の為持参したそば殻枕に頭を委ねていた。

 誤解のないように言うが、決してそば殻枕が好きだということではない。マシな方を選んだだけのことだ。


 パイプ枕に失望した俺の次なる狙いは低反発枕だった。しかしこれは貧乏学生の俺にとっては少々高嶺の花だった。俺はバイト代の中から少しずつ枕貯金を始めた。半年が過ぎた頃、ようやく小さめの低反発枕が買えた。

 初めての夜、俺はなかなか寝付けなかった。興奮したからではない……以下同文。そう、またしても期待した寝心地は得られなかった。何かねっとりしたような感覚に馴染めなかったのだ。今回は金額が大きかった分諦めきれずに何日かトライしてみたが、終いにはバイト中に居眠りして叱られるところまできたので、諦めざるを得なかった。

 その後も俺は次々と枕を替えた。食費を削り、バイトを増やし、通販販売実績ナンバーワン、芸能人御用達、ハリウッドセレブ絶賛など、ありとあらゆる枕を試してみたが、そのどれもが俺に快眠をもたらすことはなかった。


 その日もなかなか寝付けなかった俺は、いつものそば殻枕を弄びながら、深夜放送の洋画を見ていた。映画自体はくだらないものだったが、主人公とその恋人が枕で殴り合って、盛大に羽毛が飛び交うシーンに釘付けになった。その時俺は初めて羽根枕なる物の存在を知り、無性に欲しくなった。今度こそ枕難民から抜け出せるような気がした。俺はいつものように枕貯金をして、映画で見たようなひと抱えもある羽根枕をやっと手に入れた。

 初めての夜、俺はなかなか…以下同文。そう、羽根枕も俺を救ってはくれなかった。頭が沈み込んで、枕の意味があるのかと思い始めたら、悶々として全く眠れなかったのだ。


「くそっ!くそっ!」


 俺は羽根枕を両拳で殴り続けた。いつしか枕は綻びて羽根が舞い上がった。俺は狂ったように枕を振り回し、最後に壁に叩きつけて、枕を使わずにそのまま布団にくるまった。


 その翌朝。雀だろうか、軽やかな歌声と共に俺は目覚めた。それはいつもの朝ではなかった。何かがおかしかった。羽が生えたように体が軽いのだ。俺は遠い記憶を辿って、その答えを見つけた。


 そうだ、これが熟睡だ!布団を除けて上半身を起こし、思い切り伸びをした。首も体もどこも痛くない。


 羽毛の絨毯の中で、俺の目から次々と涙が溢れた。俺はようやく分かったんだ。


 俺に枕は要らなかったのだと。


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