小さな幸運

小早敷 彰良

第1話

大人なら誰しもが味わっているであろう、ぼちぼちの朝だ。

それで良い、と私は伸びをした。

いつからかはわからないが、「幸福の次には不幸が来る」ということを、私は確信している。

大きな幸福を感じる程、最高の瞬間を迎える程、後に反動がくる。

大学に合格した翌日には交通事故に遭い、就職に成功した次の週には、恋人には別れを告げられた。

幸福は人生に荒波を起こす。

だから、身に余る幸福はいらない。

目指すべくは、乗り切れる程度の幸運、だ。

だからこそ、今朝もぼちぼちであり、幸運な日だった。

さらに小さな幸運を味わうべく、キッチンへ向かう。

ポットには昨晩用意しておいた湯が入っており、コーヒー1杯分には足りる量が余っていた。

コーヒーを用意しようとしたところで、玄関のチャイムが鳴る。

私は首を傾げた。

こんな朝から、約束なしに来訪するタイプなんて、知り合いにほとんどいない。

配達も今日は頼んでいない。

怪訝な顔でドアを開けると、はたして、青ざめた顔の友人が立っていた。

硬い髪質の短髪をハーフオールバックに整え、長身を屈め、眉根は寄って険しい顔つき。

服装は黒いジャケットにコート。

格好は、いつもより少し洒落ていて、腕には大きな紙包が抱えられている。

「どうしたの、こんな朝から。貴方ならいつでも大歓迎だけどさ」

友人の来訪に、私は驚きながらも、歓迎の意を述べる。

この友人の稀有なところは、価値観が同じという点だ。

彼は、「幸福の後に不幸がやって来る」ことを知っている、数少ない私の友人だった。

「とりあえずあがってよ。コーヒーでも飲む?」

「ああ、頂こう」

1杯だけ残っていたお湯を使って、彼にコーヒーを淹れる。

これで私の分のコーヒーがなくなったが、もちろんこれは、彼の来訪という幸運の反動だ。

私はポットにお湯を用意し直す。

振り返って、至近距離にいる彼に、思わず仰け反ってしまった。

よくよく見ると、彼の青ざめようは尋常ではなかった。

「すごく顔色悪いね。大丈夫? 市販薬ならあるから持ってこようか」

彼は答えずに、紙包を押し付けて来る。

「これを」

「それは」

ひゅっ、と喉が鳴る。

こんなに焦ったのはいつ以来だろう。

私の顔色もきっと酷いことになっているはずだ。

包みを開けた途端、新鮮な香りがあたりいっぱいに広がった。

目にも鮮やかな赤が、視界を華やかに彩る。

「そう、これは」

「赤い薔薇の花束、だ」

「誕生日でもないのに」

「ああ、ふつうの日曜日なのに」

メッセージカードらしき紙片が、薔薇のブーケの中央に刺さっている。

見落としていたが、包みも細かい意匠で細工が施されており、何時間見ても飽きないだろうと断言できる出来栄えだった。

「なんでこんなことを」

「自分でもわからん。見かけた次の瞬間には買っていた」

「なんて、浮かれポンチみたいな」

彼はダイニングテーブルで項垂れていた。

「俺は元々こんなタイプじゃないんだ」

憐れみに口元を押さえてしまう。

「しかもだ、渡せて幸福を感じている、俺は」

「なんてこと」

しかし、私も彼を憐れんでばかりにもいられないのだ。

数日前にしまっておいたプレゼントを、私は彼に渡す。

「そういえば、私も貴方に、これを」

「これは?」

包装紙を破った彼が絶句する。

「靴下、しかも手編みかこれは」

「一番使い勝手の良いものを、と思って」

驚きの中に喜びを隠しきれない表情を見て、私の胸にも歓喜が沸き起こる。

「嬉しい?」

「ああ、もちろん!」

2人で笑顔を向けあってから、ハッと気づく。

「まずい、幸福すぎる!」

大きな幸福の後には不幸があるものだ。

こんな、薔薇の花束を貰った上にプレゼントを喜んでくれる、なんて最高の幸福、どれだけの不幸で賄えるのか。

「明日は雷雨の中、徒歩での出勤を迫られるかも知らん」

「いやいや、突然に薬のない急病にかかるかも」

彼のことを考えるあまり、人生の法則をすっかり忘れていた。

自分の迂闊さに悔恨の念が尽きない。

しばらく項垂れていたが、彼が唐突に言った。

「もっと上があれば、最高じゃない」

何を言う、と目を向けた私に、彼は誇らしげに言う。

「今味わっているのが最高の幸福だとしたら、この後に来る不幸の大きさは大変なものだろう。ならば、逆に、もっと上の幸福を味わってしまえば、今回の幸福は小さな幸運に収まるのではないか?」

私は目を見開いた。

「なんて、天才的な発想なんだ」

「よし、そうと分かれば」

彼はどこかへと電話をかけ始める。

その途中で私に声をかけた。

「もちろん、今日一日付き合ってくれるな?」

「ああ。貴方に幸福を味合わせた責任は取るよ」

「よし、薔薇の花束を渡した時より嬉しい」

私は、さっさと料理を始める。

「明日用のお弁当も作るから、今日は目一杯遊べる」

「最高だ」


そう、最高の幸福なんて、こうやって回避できるのだ。


「いっそ泊りがけで遊ぼうか」

「ならオールナイトシネマがあったはず。私も貴方も好きな映画がかかっている。眠くなったら、映画を観ながら寝れば良い」

「最高か」


そして私たちは、明日味わう最高の目覚めに、また頭を抱えることとなるのであった。

「好きな相手が、朝起きて一番最初に見られるなんて、こんな幸福あって良いのだろうか」

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小さな幸運 小早敷 彰良 @akira_kobayakawa

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