第6話後編 彼と彼女の想いは立夏のごとく湧き上がる


 なんてことはない。心のどこかに残っていた想い。ただ俺はそれを消したいだけ。真実の愛だなんて臭いセリフを吐くつもりもないし、そんなものを追うつもりも存在を認めているわけでもない。

 ただ、俺は覚めたいだけなのだ。忘れられない白昼夢から、初恋から。なにも、今も好きだなんてことはない。ああはいったが、実際のところ本当に好きというわけではないのだ。ただ、長年思い続け、負けを自覚し続けたこの想いは負け犬のごとき醜いみじめさで、俺の心の端に縋り付いているのだ。

 はがれず、忘れず、色褪せず。むしろあの頃の感情に、情景に自分勝手な色を付けて、残っているのだ。

 だからこそ、俺の目的はただ一つ。この自分勝手な初恋を終わらせることだ。完全に、完璧に、還付無きに。俺の敗北で、失恋で終わらせることが必要なのだ。それが、陽菜に対してできる俺の誠実というものなのだ。心の底から愛しているからこそ、心の底に残せないものがあるのだ。

 ふと、陽菜の方を見ると今にも泣きそうな顔をしている。

「そんな顔するなよ、陽菜。なにもお前のことが嫌いだなんて言ってないだろ?」

「言ってるようなものじゃない。女にとって、一番じゃないってことはどうしようもなく辛いことなのよ」

 泣きそうなのを我慢して、彼女はそういう。心のどこかで彼女からの好意を信じ切れていなかったからなのだろうか、その言葉に驚いてしまう。

「驚いた、お前からそんな言葉が聞けるなんてな」

「なに?私が女じゃないって言いたいの?」

「そう突っかかるなよ。ただ、お前にとって俺はそんな大した存在じゃないって思ってたからな……」

 これは本心だ。始まりは互いに心の隙間を埋めるためだった。本当は好きだなんて感情を抱いているのは俺だけで、陽菜は惰性で好きでいるのではないのかと思っていたのだ。だからどうしようもなく、通じ合ってることに固執しようとしてしまう。わかっていると、知っていると、子供みたいにこだわってしまったのだ。自分だけ、自分だけにと、そうこだわっていくうちに、理想だけを追い求めるようになったのかもしれない。完璧に彼女を愛するということに。

 この自己満足的、自己中心的な考えは、自己にとどまっていたようで、彼女は呆れたような、怒ったような、両方にもとれる表情をしていた。

「そんなわけないでしょ。始まりは違っても、過程がどんなにひどいものでも、今の気持ちは変わらないものよ。私は、健斗、あなたが好きなの」

 だからなのだろうか、その陽菜の言葉はどうしようもなくうれしいものだった。自分と一緒の気持ちでいてくれることに、俺はどうしようもなくうれしいと感じてしまうのだ。

 そしてそれと同時に、こんなにもはっきりと気持ちをぶつけられずに遠回りしかできない自分が情けなくなってしまう。

「だとしたら、俺はやっぱり曲げられない。俺は俺自身のために、このまま進むしかないんだ」

 そう、曲げられない。これが、これだけが俺のやり方なのだ。小さいころから、あのころから変わらない、臆病でこだわりすぎる自分にはこのやり方しかないのだ。

「そこまで、朱里のことが好きなの?」

「はは、そう思うよな。実際、なんとも思ってはないんだよな……」

 当然そう思うだろう。だが、実際は違う。互いに想い合っているからこそ、俺は心に縋り付いているこの醜い思いを取り去らなければいけないのだ。心置きなく、陽菜を愛するために。

「何が言いたいの?」

「そのままの意味だよ。好きだと、心の端で言ってるんだ。でも、それは端であって底からではないんだよ」

「……意味が分からない」

 意味深の言葉に彼女は訳が分からないといった顔をする。そうもなるだろう、俺だってよくわかっていないのだ。ただ、心の端の方で残っている想い。どうしようもなく、なくなってくれない想いなのだ。だからこそ、俺は笑って答える。

「だろうな、俺もわかんないからな」

「健斗……」

 きっとその笑顔は痛々しかったのだろう。彼女の表情はひどく辛い顔をしている。

「中身のない、好きという殻だけが残ってるんだ。いつまでたっても風化しない、殻だけが残ってるんだ」

「それって、忘れられないってことでしょ?朱里のことが……」

 どうしようもなく苦しい胸を握りしめながら言葉を絞りだす。いっそこの心臓ごと握りつぶせたらと思うほどに。

「そういうのとは、少し違う」

「どう違うのよ?」

「あの時の感情が、ただずっと忘れられないんだ。その感情を忘れるのに、必要なんだ。智樹と、朱里が結ばれて、ちゃんと終わらせることが」

 忘れなければ、忘れなければ。ただそう思う。完璧に愛さなければ、そこには本物の愛が生まれないから。完璧でなければ、またあの頃のように信じることができなくなってしまうから。自分が完璧にならなければ、それが手に入るはずがないのだから。

「なんでそこまで……」

「そうしないと、陽菜のことを完璧に愛せないから……」

 朱里や智樹のように、互いを信じ切って愛し合っている。そんな形の恋愛こそが本物なのだ。本物でなければ安心できない、そうでなければなにも信じることができない。

 変わったようで、あのころから何一つ変わっていない。俺はただ見た目が変わっただけで今も、何も変わらずにおびえているのだ。だから、求めてしまうのだ。

「健斗……、馬鹿じゃないの?」

 そんな俺の吐露に帰ってきたのはそんな呆れと怒りと、やさしさのこもった言葉だった。そらしていた視線を元に戻し、陽菜の顔を見るとその表情はとてもやさしく、愛おしくこっちを見るような顔だった。

 その表情の意味が分からず、ただ震える唇をごまかそうと口を動かす。

「な、俺はお前のことを想って……」

「好きな相手のことを想うんだったらどこかおしゃれなとこにデートにでも連れてきなさいよ」

 少し怒ったように、冗談めかして言う。その言葉に俺は言葉を詰まらせる。

「それは……」

「そうやって想ってくれるのは女の子としてうれしいけど、行動にも示してくれないとわかんなくなるでしょ?」

 母親に怒られるような、優しい声。そんな陽菜を見ていて、ただただ好きだなという感情がわいてくる。

「確かに、そうだな」

「健斗は、完璧を求めているかもしれないけど、私はそんなことはないの」

 彼女は空に浮かぶ満月をまるで太陽を見るかのようにまぶしそうに見上げる。その姿は夏に輝く美しさに似ていた。

「不完全で、危うくてもいい。たまに喧嘩するのだっていい。でも――」

 そう言って俺の方をまっすぐにみて、にかっと笑う。

「最後には笑って、好きって言いあえるような、そんな関係に、私は健斗となりたいの」

 その笑顔はどうしようもなく可愛くて、愛おしくて、きれいで、守りたいものだった。何よりも大切で、どうしようもなく高鳴る、この苦しい胸は、きっと彼女にも伝わっているのだろう。なぜなら、こんなにもうるさく、自分の中で響いているのだから。

「お前のことを好きになってよかったよ……」

「奇遇ね、私もよ」

 そう言って笑いあう。

陽菜の言った関係というのは、なんて心地いいものなのか。自分が目指して苦心していた完璧さなんてものが馬鹿らしく思えてくる。完璧だとか、特別だとかは必要ないのだと思わされる。今、ただ必要なのは最愛の相手が最愛であるということだ。俺が今、誰よりも陽菜を愛しているという事実だけで、たったそれだけでよかったのだ。

 そうわかっただけで、この胸の中にこびりついていたものはなくなり、過去の、臆病で、一人ぼっちで、どうしようもなくみじめだった自分が消えていくのがわかった。

 今、目の前に自分と同じように自分を愛してくれる人がいる。それだけで俺は満足だったのだと、今になって自覚したのだ。

「健斗にはちゃんと伝わっていなかったんだってわかったから、ちゃんと伝える」

 そういって深呼吸をしてまっすぐこっちを見つめる。

「私は涼香や朱里に負けるような想いで好きになんてなっていない」

 そのまっすぐな瞳は俺の心に突き刺さる。

「私は健斗がどうしようもなく好きなの。最初はお互いに負けた傷を慰めるために隙あったのかもしれない」

 始まりはお互いにそうだったのだろう。行き場のなくした想いと、共有できる唯一の相手。必然的に近づいていったのだ。

「それでも、今はただ健斗だけが好きなの!この気持ちだけは偽物でも、誰かに負けるものでもない!」

 その告白はまっすぐで、熱く、きれいなものだった。俺は、ただまっすぐに見つめ返す。

「俺も、陽菜を好きな気持ちはだれにも負けない」

 そう宣言する。一生違うことのない誓いとして。

 二人を照らす月は、炎陽のように輝き、熱く想いを燃やさせる。



 代り映えのしない、小学校一年生のころから変わらない、真っ白な病室の中で、私は少し笑いをこぼす。窓から見えるきれいな満月を見て昔のこと思い出したからだ。

 満月をバケツに捕まえたといって持ってきた幼馴染の少年のことを。あの時はバカだなっていって笑ったと。

 そうクスクスと笑っていると、ふと頬がぬれていることに気づく。しまったと思て袖で滴をぬぐう。まだ後悔や未練が残っているのだと自分に対して辟易する。

 自分で突き放し、切り捨てたくせに、まだ心の中に残っている。みじめに、未練たらしく心の中に残している。そんな図々しい自分を叱咤するかのように頬を叩く。

 あれから何年たっているのだろうか。数えることをやめたためすぐにわからない。少しだけ、彼のことを思い出してみる。

 元気で優しくて、すぐに照れるけどそこが可愛くてかっこいい彼のことを。今はどんなふうに過ごしているのだろうか。背はどれぐらいになったのだろうか、きっと今でもかっこいいのだろう。

私も前と比べてだいぶ成長したし。背も伸びて、胸も少しは大きくなった。自分の胸を持ち上げて自慢げに胸を張る。

見た目がどれだけ変わっても、きっと彼は優しいままなのだろう。優しく、可愛く笑うのだろう。

彼はまだ私のことを覚えているのだろうか。私のことを、思っているのだろうか。そんな想像をすることがどんなにおこがましく、醜悪で最低なものなのかをわかっている。それでも、私は考えてしまうのだ。

 どれだけ見た目が変わっても、どれだけ月日が経とうとも、私は彼のことが好きなままなのだから。

 この想いを胸の奥底にしまい込み、ふたをした。したと思っている。けれど、そんなものは気休めにしかならない。

「会いたいなぁ……」

 彼のことを考えているとふと、言葉が漏れだした。その言葉に私はあわてて口を紡ぐ。言葉にしてしまったら、今の自分が意味のないものになってしまうから。

 やっとしまい込んだ想いを、また表に出してしまうともろく、壊れてしまう。

 必死に湧き上がる想いを抑え込み、私は手元にある本を見る。「チボー家の人々」、最後に彼から返された本だ。きっとこれを読んでいたからこんな風に思い出したのだろう。

 最愛だからこそ、私は離れたのだ。不幸になる未来しか用意されていない私たちなら、一緒にいなければいい。互いに忘れて、お互いの道を歩めばいいのだ。

 彼は数多ある輝かしい未来へと進み、私は短い一本道に進むのだ。それがいい、それでいいのだ。彼まで私と同じ短い道を歩ませるわけにはいかないのだから。

 私は一人でこの短い道を歩ききる。短いくせに、つらく長い道を。それでも、私は嫌とは思わないのだ。最愛の人が幸せに過ごしてくれるのなら、私はそれで構わない。忘れて、あの笑顔を私じゃない誰かに向けてくれることが、心からの願い。

 自分を殺せる恋をしたのだ。これほどの幸せはないのだから。

 窓から見える桜を見下ろしながら私はそう強く思う。手元の本は大粒の滴でぬれていた。




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