第5話後編 彼女の恋は、満月の夜空のように残酷で美しい

「い、今何て……」

彼女の言葉に、震えた声で俺は思わずそんな言葉を返してしまった。最低な返しであることはわかってはいたが、ぐちゃぐちゃになっている頭では冷静に返すことができない。

「智樹君のことが好きなの……」

うるんだ大きな瞳、上気した頬、その頬から顎にかけて零れ落ちる熱い滴は、彼女の言葉に重みと現実味を持たせ、俺に突き付けた。それはまるで逃げるなと俺に言っているように。

再度発せられたその言葉はどうやっても逃れることはできない。聞かなかったことにできない。明確に回答を出さなくてはいけない。たとえそれがどんなに残酷な答えで、彼女を傷つけるのだとしても。

戸惑う俺の視線は揺れ動き、彼女の顔を直視することはできない。それでも彼女はきっと俺をまっすぐに見つめているのだろう。ただうろたえ、答えを出し惜しみしている情けない俺を、ただまっすぐに――……。

「俺は……」

やっとの思いで開いたその口は、簡単につぐんでしまう。発した言葉は暗闇に飲まれた公園と同じように飲み込まれていた。なんて言って答えたらいいのかわからない。きっと彼女は俺の答えをわかっている。わかっていて彼女は言ったのだ。今じゃないと、告白のタイミングがないと思ったから、彼女は言ったのだろう。

だからこそ、俺は真剣に彼女の言葉に返さなければいけないのだ。今さっきまで話してきたように、俺の一番大切な人に対しての想いを、彼女に伝えなければいけないのだ。さっきまではただ大切な友達に伝える言葉だった。しかし今からは一人の好意を寄せてもらっている人に対して。

重みが違う。考えれば考えるほどその事実は重く俺にのしかかり、固く、きつく俺を縛っていく。

次の言葉を出せずにいる俺に対して彼女は催促するかのように俺の手にそっと手を添える。

「智樹君が朱里さんのことをどんなに想っているかはわかってる……」

震える声。うるんだ瞳。先ほどと何も変わらない彼女。しかし、彼女の声には少しの力強さをはらんでいた。それは踏みとどまった俺の代わりに進んでくれたかのように。もしくは――……

「でも、私は智樹君のことが好きなの!!智樹君が朱里さんのことを大切にずっと想っているように!私も智樹君のことを想っている!誰にも渡したくなんかないの!!」

逃さないために、彼女は言葉を重ねるのだろう。臆病で停滞ばかりしてしまう俺を逃がさないために。事実、彼女の言葉に揺れ動く俺の視線は彼女に定まり、逃げれなくなる。

「涼香のことは大切に想っている……。でも……」

依然まっすぐに見つめる彼女の瞳に、俺の臆病は吸い込まれていく。

「俺にとって、朱里が一番なんだ。涼香のことも大切に想っているけど、それは朱里ほどじゃない……」

彼女の眼を見てはっきりと返す。今の俺にためらいや戸惑いはない。

彼女にとってこれは慈悲のかけらのない残酷な答えだと思う。しかし、これ以外の言葉は不要だと思ったのだ。優しさなんてものは必要ない、彼女は答えをわかっていて告白したのだろう。それは今しかタイミングがないから。そして、きっぱりとあきらめるために。

ならば俺の出す答えは決まっていて、それに優しさなんてものは必要ないのだ。

「そっか……、そうだよね。わかってたの……、わかってたのに、ごめんね。私、ずるかったよね?」

「そんなことはないよ。ただ俺のあきらめが悪くて、ただ一方しか見れてないだけさ」

悲しく、はかなげに笑う彼女は、一瞬遠い記憶の朱里と被る。しかし、それはこの熱い、どうしようもないほどに熱い後悔と懺悔の高鳴りが見せた、蜃気楼のようなものなのだろう。

「やっぱり、智樹君は優しいね」

そう言って涙をぬぐう彼女の言葉に、俺はどきりと大きく心臓が波打つのを自覚した。

「それはっ……!違うっ……!!」

俺は優しくなんてない。ただ一つのことしか見えてなくて、周りなんて一切見えてないただの馬鹿野郎だ。大切なものを傷つけたくないとか、手放したくないとか言っておいて、大切な友達を傷つけた、大馬鹿野郎でしかない。優しさなんて、かけらもない。ましてや、涼香から優しいなんて言われる資格なんて持ってはいないのだ。

強く、固く握りしめたこぶしを、涼香は優しく包み込む。

「優しいよ、智樹君は。やっぱりね」

「……っ!!」

そう笑う彼女はどこまでも透き通って見え、圧倒的なまでにきれいだった。そんな彼女に何もしてやることはできず、ただ傷つけることしかできなかった自分がどうしようもなく情けなく、そしてそんなセリフを言わせる自分のことがどうしようもなく嫌いになる。

そして何より嫌なのは、被るのだ。忘れることのできない、たった一人を見つめている幼き頃に。どうしようもなく恋焦がれ、その身を焼き尽くそうとも気にも留めないその姿に。

自己嫌悪と自己否定の吐き気に耐えながら、絞り出すように否定する。

「そんなことはっ……!ないっ……!」

そんなことはあってはいけない。俺は涼香のことを無意識に傷つけていた。そんな言葉はかけてはいけない。優しく、美しい彼女がそんな姿にかぶってはいけない。

これは一方しか見れていなかった俺に対する、一度手放したくせに無様に執着を見せつける俺に対しての罰なのだろう。

ならば俺はその罰を甘んじて受け入れる。善人になろうとなんて思わない。あろうとも思わない。ただの悪人になったってかまわない。涼香のことを傷つけた悪人であることに否定はないし、事実そうである。

ならば俺はこのまま悪人のまま、彼女の中に存在することを望む。彼女の想いにこたえることはできず、かといって突き放すこともできない。情けないことに、変わろうと思ってもすぐには変われない。人間の本質なんてものは簡単に変えることはできないのだ。

それなら彼女に嫌われるのが一番だ。そしてその好意を壊してしまおう。彼女の想いには絶対にこたえられない。

ならばいい顔をしても涼香がつらいだけ。自分の中にある醜さ、みじめさ、醜悪さをさらけ出すのが一番だ。そのほうが彼女もあとくされがなくていいだろう。ただ、悪い夢を見ていただけ。ただそれだけで終わることだ。

彼女に嫌われるため、俺は自分の情けなさを、自分の本心をこたえるのだ。醜悪で傲慢で自己中心的な俺の本音を聞けば彼女も嫌になるだろう。なってくれなくては困るのだ。

「俺は、ただ嫌われるのが怖くて、そんな言葉しか言えないんだ……。優しいとかなんてことは全くない、朱里だけが大切だと、朱里さえいればいいだなんて口では言ってるけど、涼香のことや、ほかのみんなのことを捨てることなんてできない。みんなにいい顔をしていたいんだ。みんなから好かれて……、そして朱里を一番愛して、愛されたいんだ」

醜く、ゆがんだ想い。どこまでも醜悪でいびつすぎる想い。言葉を口から吐き捨てるたびに、口の端がいびつに歪んでいく。ただ、自らのいびつさ、醜さ、傲慢さをぶちまけていく。

そんな俺をただ彼女はまっすぐに見つめている。今にも目をそらしてこの場から消えてしまいたい俺とは違って、どこまでも真剣で、どこまでも優しい、愛おしいものを見る目で、彼女は見つめてくる。それがより一層、俺の忘れていた羞恥心と忘れたかった自尊心を刺激する。しかし、逃げることはできない。俺は自分を叱咤するようにさらに口をゆがめる。

「幻滅しただろ?俺はただみんなにいい顔がしたかっただけの人間だ。病的に臆病で悲しい人間だ。誰からも愛されていないと満足しない人間だ。たった一人を病的に愛しながらも、その他から愛されないと気が済まない。そんな俺をお前は優しい人間だなんて言えるのか?いえるわけないよな!?こんな醜悪で独善的でみじめで傲慢な人間!!幻滅するだろ!!きらいに――……」

「……ならないよ」

「……あ?」

嫌悪するでもなく、侮蔑するでもなく、ただ愛おしくこちらを見つめる。その顔には微笑みを浮かべ、その両手は俺の頬に添えられ、その瞳はまっすぐ、ただまっすぐに見つめる。その献身的な、妄信的な、病的な一途すぎる想いは、尊敬や愛情をごった煮にして恐怖すら感じてしまう。

なぜ?なぜ彼女はそこまで俺に対して好意を持てるのだろうか。ここまで醜く、無様な男のどこに好意を持つ要素があるというのだろうか。

 わからない。ただ、わからない。だがそれが、きっと恋なのだろう。ただまっすぐにその人が好き。どんな見た目だろうが、どんな中身だろうが、どんな運命を背負っているだとか、誰を愛しているだろうが、関係などないのだ。

 彼女は微笑みながら、俺の目をしっかりと見つめて言う。

「だって、智樹君は優しいんだもん。そうやって、無理に私に嫌われようとしてる。無理して、私の好意を壊そうとしてる。そんな不器用で、自分よりも相手を優先してあげている智樹君が好きなの」

 その声はいつくしむような声。彼女の知る俺をすべて愛するような声。彼女の知った俺をすべて、愛するような声。

「あの話をきいて、告白をするずるい私にやさしい言葉をかけてくれる。振って、そのまま帰っちゃえばいいのに傷つくであろう私を放って帰れないような智樹君が、どうしようもなく、私は好き」

 その声は包み込むような声。弱さを、醜さを、卑怯さを包み込んでくれるような、大きく、寛大な声。

「無意識に見せる悲しい表情も、たまに笑う顔も、ふとした時に見せる優しさも、みんなみんな、好きなんだよ」

 その声は悲しく、明るい声。かなわない想いと、変わらない想いのはざまに揺れる、そんな声。

「私は、どうしようもなく、智樹君のことが好きなんだよ」

 その声は、どこまでも愛してくれる、そんな声。何よりも深く、何よりも大きな、そんな慈愛に満ちた愛を告げる、そんな声。

「ほかの誰でもない、代わりがいないくらいに、智樹君のことが好きなんだよ!嫌いになんて、なるわけないんだよ!そんな簡単に嫌いになる恋なんて、私はしないんだよ!」

 その声はどこまでも切実で、涙にぬれている。その悲痛にも似た声は昔、聞いてことがある。何よりも聞きなれた声で。

 涙を流す彼女を見て、俺は過去の自分と重ねる。

きっと彼女はとらわれるのだろう。手放せない想いを胸に、とらわれ続けるのだろう。変わらない現実、変えられない過去。その中で悩み続けるのだろう。

だから、俺はそんな彼女を突き放さなければいけない。朱里が俺にしてくれたように、しなくてはいけないのだ。いや、朱里以上に強く突き放さなければいけない。もう二度と追えないように。

その恋は同様にいばらの道だから。進む自分を痛めつける、いばらの道なのだから。覚悟を決めようが関係なく、心も体も痛めつけるそのいばらは、彼女が経験していいものではない。その道は俺だけで十分なのだ。

「俺も、そんな恋はしない」

 その声にこもるのは愛情。向けられる相手は目の前にいる涙を流す少女ではない。想い馳せる、とらわれの彼女。

「俺は朱里だけしか愛せない。朱里のためだけに人生を費やせる、そんな恋をしたんだ」

 この言葉に彼女ははかなげに笑うと、大粒の涙をこぼす。

「知ってる。だって、それが私の好きな智樹君だもん」

 その言葉を聞くと俺は彼女に背をむけて公園から出る。それはもう話し合いは済んだから。これ以上はもう、ここにいてはいけないのだ。

「また、明日学校で」

 振り向かずにそう告げる。後ろから彼女の泣く声が聞こえて、思わず振り返りそうになる。しかしそれをこらえて、早足にその場を去る。

 その行為が正解なのか、不正解なのかがわからず、誰かに問いかけたくなる。しかし、それを問いかけても意味はない。彼女にしてあげられることすべてが正解であり不正解なのだから。

 このたとえようのない胸の痛みを、朱里も経験したのだろう。視界に映る桜は夜空の光で淡く光り、俺の心と対照的に美しかった。



 智樹君の去った公園で私は年甲斐もなく泣きじゃくっている。理由は簡単だ。失恋したから。それも無様で、みじめで、卑怯に。振られることなどわかっていた。私ではない他のだれかを見ている、見続けている彼を好きになったのだから。

 それでも伝えてしまったのは私の自己満足からか、無謀で無策で、肥大化してしまった自意識からくる自信なのだろうか。わからない。でも、それでもひとつわかることは、振られてもなお、私は彼のことが好きで、このことは変わらないということだ。そして、彼もまた、変わらないということだ。

 優しい彼を困らせて、結局私は何を得られたのだろうか。小さな満足の代わりに、最愛の人を困らせて。まったくもって私はみじめだ。

 体の水分が全部出てしまうのではないのかと思うほど涙がこぼれる。それと反対に、彼への想いがたまっていく。

 どうして私を見てくれないのかといった不満は一切わかず、ただ、好きの気持ちがあふれていく。風化することのないだろうこの気持ちは赤々と燃え光っている。

 どう、この気持ちを持っていこうか。かなえられないこの想いを、どこに持っていこうか。一生胸に抱えておこう。私には捨てることができないものなのだから。それほどに大切で、大きなのもだから。

きらきらと輝くその初恋は、夜空に輝く月に似ている。私の夜空で輝いて、他の星が輝くのを許さない。許してくれないのだ。

これ以上、瞳からこぼれないように私は上を向く。その眼前に広がるのは私の夜空によく似た空。違うことはただ一つ。簡単には明けないということだ。

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