第1話後編 こうして物語は終わり、後悔は残っていく
いつの間にか俺は眠っていたらしい。図書館の開放的なガラス張りの壁からは夕日がさしていた。
「懐かしい、夢だったな……」
あの後、俺は疲れがだいぶ溜まっていたのか、次の日までずっと眠ってしまった。そして、起きた時にはもう朱里はいなかった。その代わりとしてか、きれいにされた病室に、一通の手紙だけが残されていた。
その手紙には、今までの感謝の言葉と、自分はきっと助からないと。そして、もう連絡は取らない、会わないと。そう、書いてあった。
そして、最後の言葉。『命を懸けて、君のために死ぬ』。これはきっと『チボー家の人々』の言葉からのものだろう。
そんな手紙に俺は「なんで……」と、そんな言葉が、寂しくなった病室にこぼれ、染み込んでいったのを覚えている。
どれも、俺の人生に意味があったころの話だ。そして、意味をなくしていった話でもある。
「そろそろ帰るか……」
俺は重たい腰を上げて家路につくために図書館を出る。暖房が利いて暖かい図書館を出ると冷たい風が俺をなでる。
だんだんと暖かかった自分の体が心のように冷め切っていくのがわかる。
幸せだった過去に、忘れ、捨て去った思い出にいつまでもすがっていてはいけないことぐらいは自分でもわかっている。
あの頃はもう帰ってこないのだから。
「ほんと、俺は見た目が成長しても中身は何にも成長してないよなぁ……」
誰も返事をしてくれないのがわかっているけど、そう問いかけたくなった。もしかしたら答えてくれるかもしれないと思ってしまったからだ。そんなわけないのに……。
俺はそんな女々しい自分に辟易しながらため息をつく。そして俺は家路についた。
五十嵐家は母親と俺の二人しかいない。父親は俺が物心ついた時から海外へ出張していて、一度も帰国しておらず、まともに顔すら覚えていない。
このことでよく周りから同情されていたりし「さびしくないの?」とよく聞かれる。そんな問いにいつも俺は「もともといないものだと思ってる」と答える。
実際、その生活に慣れていて特に気にしたことはないし、何不自由もしていない。
ただ、自分の家はそういう家庭なのだと思っているだけだ。
「ただいま……」
誰もいない二人で住むには広すぎる一軒家に俺の声はむなしく響く。母親は趣味で喫茶店を近所で経営している。意外と繁盛しているようだ。
「五時半過ぎか……」
俺は今の時刻を確認したあと、今日は使わなかった通学カバンを自分の部屋に置く。
何かしようにも俺には趣味もなく、特にすることがないのでただベッドに寝転がり時間をつぶす。
こういう時、本当に自分には何もないのだと思う。
あの頃は、朱里がいた時は、いつも朱里のこと考えていたし、朱里から薦められた本を読んでいたのだから。思い返してみると暇だと思うことはなかった気がする。朱里のことを思い出していた今だからそう強く思う。
そんな今の俺は人生に意味を見いだせない。部活にいくら打ち込んでも、どれだけいい成績をとっても、朱里以外のだれかといても、この虚しさだけは消すことができない。いつまでも俺の中にいて俺の心をむしばんでいる。
朱里に薦められて始めた読書もしなくなった。朱里と唯一共通の話題として話せることなのに、それすらしなくなっていった。する意味がなくなっていった。
生きている実感がわかない、生きている意味が分からない。
「つまんない人生になっちまったな……」
自虐的に呟いて見せるが何も変わらない。変わるわけがない……、だって、こんな呟きは四年前から何回もやっているのだから。
そう、あの時から―……。
四年前、朱里が東京に病院を移してすぐに俺は電話をかけた。病院の電話番号は親から聞いて直ぐにわかった。
「読んだよ……手紙」
「智樹……」
その声に驚きや落胆は込められていなかった。俺が電話をかけることが分かっていたかのように答える。
「どうして、急にあんなこと?」
「急じゃ、ないんだよ」
「え?」
俺は朱里の口からそんな言葉が出るとは思っていなかった。だからこそ、その言葉は俺の中で消化することができなかった。
「な、なんで?」
何がいけなかったのかわからない。
俺の問いに朱里は何かをこらえているような声で答えた。
「だって、私は智樹がいるとダメになっちゃうから……」
「それってどういう……」
何がいけなかったのか、わかってしまった。朱里の言葉を聞いて。いや、本当は手紙を見て薄々わかっていたのかもしれない。
「俺は朱里にとって邪魔なことだったってこと……?」
意地の悪い質問だってわかっている。答えはもう、自分の中では出ている。でも、朱里から直接聞かない限り、認めることができない……。
「……」
朱里は答えない、答えてくれない。
「俺との会話は楽しくなかった?」
この質問も、違う。
「……」
朱里はなお、答えてくれない。
「答えてくれよ……!朱里から直接聞かないと俺は納得できないんだよ……!納得、したくないんだよ!」
わかっているくせに自分では答えを言わない。そのつらい言葉を自分ではなく、朱里に押し付ける。そんな卑怯な自分をかき消すように、俺の支離滅裂に叫ぶ。その叫びに返ってきたのは朱里の泣いている声だった。
「邪魔なんかじゃ……ないよ?」
その言葉はきっと朱里の本心。
「楽しく……なかったわけないよ!」
その言葉は朱里の心からの叫び。
「楽しかったに決まってる!!」
その言葉は、震えていて、鼻のすする音が混ざっていて……。本当は連絡を取ったり、会いに来てほしいのだとわかる。
自分は本当に最低だと思う。これで朱里のなかの答えが変わるのではないのかと、期待してしまう自分がいることを自覚し、辟易する。
だが、それでも、自覚しようがその期待が現実のものになってほしいという気持ちは変わらない。最低だろうが関係ない。
「なら―……」
それなら、きっと帰ってくる答えは――……
「でも、それじゃ私がダメになる……!」
しかし、その言葉はついさっき聞いた言葉。
そういった朱里の声音は懇願するようで、俺を突き放すような感情が含まれているような気がした。
そして、泣きながら朱里はこの言葉を俺に告げた理由を話しはじめた。
「病室で智樹と最後に話した時、智樹は私を今までにないくらい幸せにしてくれた」
俺は黙って、朱里の話を聞く。
「なのに―……。私は欲深い女だから。未練を残しっちゃった」
そう言った朱里の声は呆れたような声だった。
「だから、せっかくできた覚悟がなくなっちゃった。一年前はもういつ死んでもいいやって、智樹のくれた楽しい思い出だけで十分だって、そう思ってたのに……」
何かをこらえているような苦しい声。
「智樹とこうして話すたびに私はもっと生きたいって、もっと智樹といたいって、もっと、智樹からたくさんのものをもらいたいっておもっちゃう……!!」
その声は、今までせき止めていたものがすべて流れでいるようだった。
「そして、怖くなかった死も、怖くて、怖くて仕方なくなっちゃった」
そこで一呼吸置き、朱里は明るい声で言い放つ。
「そして、何より智樹が私のことを大切にしすぎると、私が死んだときにダメになっちゃうでしょ?それが、一番怖いんだよ?」
「朱里……」
ここで、朱里を励ましてやれば、死を否定してやれば、俺はダメになんかならないっていえばよかったのだ。
でも、俺にはそれができなかった。情けないことに……。そのことがどれだけ無責任で、朱里を苦しめるかわかっているから。そして、俺がダメにならない自信がなかったからだ。
「ほんとは、町を出るときになにもかもおいてくるつもりだった!後悔も未練も全部!でも、智樹のくれた最後の言葉で、私の覚悟が全部なくなっちゃったの。捨てた、置いていったつもりでも、実際は全然そんなことなかった!何も、おいていけなくなった……」
その言葉はしりすぼみに小さくなっていき、最後のほうは聞こえないくらい小さい。彼女のあふれる気持ちを抑えるためだろう。
「今も、手紙を書いた今でも、私は、捨てきれていない。心のどこかで、智樹が電話をかけてくれるって信じてた……」
俺は、何も言えない。言葉にできない。
「だから今、捨てるの。全部―……」
そういうと朱里は深く深呼吸をして、寂しさを押し殺し、明るい声でいう。
「智樹、もうお別れ。いつ死ぬかわからない私にかかわるだけ損だよ?お互いダメになっちゃうから……」
「バイバイ、智樹―……、桜見る約束、守れなくてごめんね」
その最後の別れの声だけ、とてもすがすがしい声に聞こえた。
「なんだよ……それ……」
俺は通話の切れた受話器に向かって呟く。その声に朱里は言葉を返してくれない。当り前だ、もう、通話は切れているのだから。そんな当たり前のことを確認しただけなのに自然と涙がこぼれてきた。
泣いちゃだめだ、泣いちゃ……だめだ……。
朱里のほうが、俺なんかよりずっと、ずっとつらいのだから。俺に泣くなんて行為は許されない。我慢をするべきだ。
なのに、俺の体はいうことを聞いてくれない。我慢しなくてはと思うほど、涙は次から次にこぼれてくる。
「くそっ!くそっ!止まれよ!止まってくれよ!」
俺はいうことを聞いてくれない自分の涙に、情けない自分自身にいら立ちをぶつける。
なんで俺は朱里にずっと一緒にいてやるって、ずっと幸せにしてやるって、俺は後悔なんかしない、ダメになんてならない、朱里とずっといたいって、なんでそう言えなかったんだ……!
朱里はそんな言葉がほしかったはずなのに……。
ただ俺が朱里の不安を、朱里の恐怖を消してやるくらい、いつ死んでもいいと思えるぐらい幸せにしてやればよかっただけなのに……。
俺にはそれが言えなかった。できなかった。
自分にそれだけの力がなかったからだ。
結局、俺は朱里のことを選んでやれなかった。俺の中で、朱里をなくしてしまうことが怖くて、怖くて仕方なかったのだ。俺は、自分を選んでしまたんだ……。
遠ければ、分からなければ、傷は浅くて済む。
「ごめん……。本当に……ごめん……、朱里……!!」
俺はただその場に崩れ落ち、受話器を握りしめながら声を絞り出す。声が震えて、鼻水が出て、うまく発音できなくても、朱里に俺の声が届いてなくても俺は謝り続ける。
「俺が無力で……まだまだ餓鬼で……朱里を幸せにできなくて……ダメにしちゃって……ごめん……!選べなくって、ごめん!!」
こんなことをしても意味がないのはわかっている。でも、こうしないと俺は致命的に壊れてしまう気がした―……。
「結局、朱里に覚悟させるきっかけになった言葉ってなんだったんだろうな……」
朱里との最後の会話でいまだによくわかっていない部分だ。もし、俺がその言葉を知っていたらと考えると、今にも覚えていない自分を殴りたくなる。
俺の記憶にはあの日、特に変わったことなんて言ってなかったような気がする。
「その言葉がわかってたら変わったのかもしれないのかな……」
そんな考えを巡らせてみるが、過去を変えることはできないので無駄なことだ。必要だったのはあの時だったのだから……。
だから今でも昔のことを思い出してどうしてこうなっただとか、ああしておけばよかったとか考えてしまう。
だから俺は後悔しまくって、悩みまくって、未練たらたらでこうやって生きている。心残りなんて考えたらいくらでも出てくる。
「結局、最後まで朱里に『好きだ』って言えなかったなあ……」
俺の多すぎる心残りの中で一番大きい心残り。
今でも言いたくて、言いたくて仕方のない言葉。
俺の、一生消えないであろう、後悔だ。
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