第1話中編 こうして物語は終わり、後悔は残っていく
病室の前、俺は深く、深呼吸をしてドアをノックする。
「失礼しまーす」
そう言いながら俺は朱里の病室に入っていく。そこにはいつも通りベッドで寝ている朱里の姿があった。
「智樹~、今日は遅かったじゃない!来ないかと思ったよ!」
朱里はいつも通り。今までと何一つ変わらない怒った時の顔をしていた。
「おいおい、遅いって言ったっていつもより五分ぐらいしか遅れてねーだろ」
俺も、いつも通りに話す。
「大体、俺が来ないわけないだろ?何があっても毎日来てんだから。皆勤賞目指してんだよ?学校じゃできなかったけど」
「そうだね、でも熱がある時ぐらいは休んでもいいと思うんだけどね。学校休んでてもいつも来るし」
バカ言ってもらっちゃ困る。学校なんかよりこっちのほうが大事なのだから。
「何言ってんだよ、学校休んでもお前の見舞いに来るに決まってんだろ?学校行くよりも大切なんだから」
「なんで?」
「なんでって、俺が来ないとお前が寂しがんだろ?それに……」
「それに……?」
今日が会える最後だしという言葉が出そうになるのをとっさに飲み込む。その言葉を言ってしまえばこのいつもが壊れてしまうからだ。
「それに、俺が寂しいだろ。お前に毎日会えないと」
俺の言葉を聞いて朱里はとても嬉しそうな顔をした。
「へえ~、智樹も寂しいんだ」
「なんだよ、悪いかよ!」
やばい、すごく恥ずかしい……。でもまあ、朱里がうれしそうな顔をしてくれるのならいいか。
「ただ、私と一緒の気持ちなんだなあ~、と思っただけだよ」
そう言った朱里は満面の笑みを浮かべていた。
不覚にも見とれてしまう。
だって、その顔は俺が心の底から大切にしている少女の今まで見た顔で一番かわいらしかったからだ。
「じゃなきゃ、毎日来るかよ……」
俺は我に返ると恥ずかしく思いそっけなく答える。朱里のいった私もという言葉に何かを言いたい気持ちはあったが、恥ずかしさが勝ってしまい、何も言えなかった。我ながら情けないが恥ずかしいものは恥ずかしい。
「そうだよね~」
朱里は変わらず同じ顔だ。この空気を換えるために何か意地悪を言ってやろうと思ったが、朱里のかわいい顔を見ていると何も思い浮かばなかったので無難に話を変えることにした。
「朱里ってよくすっげー恥ずかしいこと平気でいうよな」
拗ねたように俺は朱里に問いかける。
「そうかなー?私そんなに恥ずかしいこと言ってる?」
「ああ、よく言ってる」
どうやら彼女は無自覚で言っているようだ。天然というものは恐ろしい。
「あ~、でもたしかに智樹は私と話してると顔が真っ赤になること多かった気がするね。なら私たくさん言ってるのかも」
「え!?そんなに俺顔赤くしてた!?」
まじか……、たしかに顔を赤くすることはあったかもしれないが、多かったのか……、自覚なかった。それにしっかりとばれていたのか。というか、なんかすごく墓穴を掘った気がする。
動揺している俺の姿を見て朱里は心底おかしそうに笑う。
「まあ、おあいこだからいじゃん」
「は?おあいこ?何のことだ?」
俺は訳が分からずに首をかしげる。そんな俺を横目に見つつ朱里は話を続ける。
「すっげー恥ずかしいこと言うこと」
「え?俺朱里に恥ずかしいこと言ったことある?」
「いっぱいあるよ?覚えてないの?自覚無いの?」
うん、覚えてないね、自覚ないね。まじか、俺恥ずかしいこと朱里に言っていたのか……、超恥ずかしいな。
「俺どんなこと言ってた?」
「ついさっき言ったこともだいぶ恥ずかしいことだと思うんだけど?」
「あー……、確かにあれは恥ずかしいことにはいるな……」
確かに、先ほどの発言は思い返すとなかなかに恥ずかしい言葉だ。
「ほかに何言ったか聞きたい?結構覚えてるよ?」
「いい!いらないから!」
俺は慌てて朱里を止める。自分の恥ずかしいセリフ集とか聞きたくない。
「やっぱり面白いね、智樹は」
「俺は全く面白くないし、面白いつもりもないんだがな」
「いやいや、面白いよ?」
「へいへい、そうですか」
俺はもう何を言っても無駄だと悟りあきらめることにした。というか、さっきの話を蒸し返されたくもないし……。
そんな俺の姿を見て朱里は「ほら、やっぱり面白い」と言って笑っていた。
そう笑う彼女の膝に桜の花びらが一枚舞い落ちてきた。
「あ、桜のはなびらだ!」
花びらを手に取ると彼女は嬉しそうにはしゃぐ。その姿をみることがしばらくできなくなるのだと思うと少し悲しく思えてしまう。
「今年もきれいに咲いてるもんな、桜」
そう言って窓の外を見る。この病院の前は桜の名所で窓一面に桜がきれいに咲き誇っているのが見える。
その桜を見ながら、彼女はうらやましそうにつぶやく。
「もっと近くで見ることができたら、きっときれいなんだろうね。私はこの花びらでしか、あの桜に触れることができない」
「何言ってんだよ。よくなったら、一緒に見に行けばいいだろ?桜なんて毎年咲いてんだから、一緒に見に行ってやるよ」
そういう俺を見て、彼女ははかなげに笑う。
「そうだね、智樹の言う通りだ。だから、約束ね。絶対、私と桜をみよーね」
「ああ、約束だ。俺はお前との約束は絶対に破んないからな」
「そうだったね」
そう言ってお互いに笑う。そうやって笑っていると今日で終わりなのだということが強く実感させられるような気がして無理やりに話題を変える。
「そうだ、朱里。返すの遅れたけど、これ」
俺はそう言って朱里に借りていた本を返す。
朱里は一瞬その本を見て固まったが、それを受け取ると頬をふくらました。かわいい……。
「あっ……。貸してたこと忘れてた……。読むのほんと遅いよね、智樹って」
「いやいや、普通にお前が貸してくれる本が難しいんだよ」
俺の言っていることは間違ってはいないはずだ。朱里の貸してくれる本はどれも小学生には難しく、読むのに時間がかかる。
今回朱里が俺に貸してくれた本は『チボー家の人々』だ。難しい漢字がとても多いし、言い回しも普段言わないもばかりだ。
「言い訳しないの!」
朱里はそう言って俺をにらんでくる。
「そんなこと言っても本当に難しいぞ?それ」
俺はそう言って朱里の手元にある『チボー家の人々』を指さした。
「そんなに難しいかなあ……、この本」
朱里は自分の手元にある『チボー家の人々』に目を落とし、不思議そうに呟いた。
「小学生がすらすら読める内容じゃないと思うぞ?なんでそんな難しい本読めんだよ」
「そんなの智樹が来てないときは本読むくらいしかないからだよ」
「いや、にしてもそんな昔の本ばっかじゃなくてもよくないか?」
朱里が俺に進めてくる本のほとんどは古い本ばっかりだった。
「え~、昔の本ばっかりじゃないよ。新しい本も貸したりしてるでしょ?ただ昔の本のほうが私が好きなだけだよ」
「まあ、たしかに面白いな」
「でしょでしょ!面白いでしょ!」
朱里は身を乗り出し話に食いついてきた。こうなってしまうと朱里は止まらない。俺は朱里の話に相槌を打ちながら朱里の楽しそうな顔を眺める。
これで最後。もう朱里とは毎日会うことはできない。もしかするともう会えないのかもしれない。そんな不安さえ感じてしまう。
俺はそのことをなるべく考えないようにする。だって、朱里との最後になるかもしれない時間なのだから。お互い、このことには触れないが、頭では分かっていることだ。だから、大切にしたい……このひと時を。
何か特別なことなどはいらないのだ。普段通り会って話す。それが五年間も続けてきた俺たちの日常を終わらせる最後にはふさわしい。だから互いに普段通りに接する。
ふとそんなことを考えていると朱里に聞こえない小さな声が漏れてしまう。
「お前にあえてほんとによかったよ……」
そう強く思いながら俺の意識は遠のいていった。
それは、見たくない現実から逃げるように、目をそむけるように。今のこの日常が永遠に続くのだと安心し切ったように。
私、市原朱里は大好きな男の子、智樹と病室で大好きな本の話をしていた。
「私はやっぱり銀河鉄道の夜が一番―って、智樹!ちゃんと聞いてる?」
「ちゃんと……、きいて……るよ」
私が話しているのに智樹は眠たそうにうとうととしていた。それも仕方ないのかもしれない。智樹は私の手術が終わって面会が許されるまでの間ずっと私の病室の前でただ面会終了時間までいて、私が早く良くなるように祈っていてくれたのを知っている。きっと、疲れがたまっているのだと思う。
「ほんと、智樹って不器用というか、バカというか……」
「なんの……ことだよ?」
なお、智樹は眠そうに答える。
最後に日だっていうのに、だらしがないなあ……。でも、ちょうどいい。
「智樹、これで最後になるかのしれないから、聞いてもいい?」
「おう……」
その言葉を聞くと私は智樹をしっかりと見つめた。しかし、そこで一度開いた口を閉じる。
正直、私の中で聞いていいものかを再度考えてしまったのだ。私はこれを智樹と会う最後の機会にしようと思っている。その理由は簡単だ。私のこの生に対する未練を断ち切るためだ。
死ぬのは怖い。それは生物として与えられた当然の本能である。それを克服することができるのが人間の強い理性であると思う。そして私がその恐怖を乗り越えるためには、未練を断ち切るしかないと考えているのだ。
そして、私がこの智樹と会えない数週間の間に決意を固め、この死の恐怖を乗り越えたのだ。ならば、私はこれ以上智樹と接しないほうがいいのだと思う。
しかし、最後まで私にこびりつく未練は私の理性と覚悟を鈍らせる。最後だから、これが最後だから智樹と会いたい。そう私をそそのかすのだ。そして、今度は墓場まで持っていこうと決めていたはずの質問をしようとしているのだ。実に情けない。
私の中の未練という名の悪魔が甘言をささやき、私はその甘言にいとも簡単にそそのかされてしまう。
「私と出会えてよかった?私なんかのために時間を無駄に使っちゃってよかった?後悔してない?」
これは、私がずっと思っていたこと。ずっと、後ろめたく思っていたこと。そして、言ってしまったらきっと後悔するのであろう言葉。
智樹は優しいから、私を一番に考えてくれるし、大切にしてくれる。でも、私のせいで智樹を不幸にしているのではないのかって思う時がある。私にかまけているせいで智樹の大切な時間を無駄にしているのではないかといつも思ってしまう。
だから、最後に聞きたかった。寝ぼけていて、本音を口に出しそうな今だから、普段は恥ずかしくて絶対に聞けないけど、きっとこの会話を覚えていないと思うから、聞けること。そして優しい彼だから聞いてはいけなかった言葉。
「そんなことか……」
智樹はとうとう耐え切れなくなったのか、私のベッドに倒れこみ、私を安心させるような顔で話しはじめる。
「そんなの出会えてよかったに決まってるし、時間を無駄にしたなんて思ってない。だって、俺は朱里と話している時間がかけがえのない大切な時間だったからだ。誰でもいいわけじゃない、朱里との時間じゃないとダメなんだよ。だから、後悔なんてするはずないだろ?」
今にも眠りそうだけど、智樹ははっきりとそう言った。
私はその言葉を聞くだけで満足だ。満足するべきなのだ。しかし、悪魔は歯止めがきかない。欲望のままに、忠実に追い求めてしまう。
「ほんとに?私より学校の友達と遊ぶほうが楽しいんじゃない?私のところに来るのは仕方なくじゃないの?」
「何言ってんだ?いったろ?お前といる時間が大切なんだ。学校いる時も家いる時も、飯食ってる時も、何やってても朱里のことを考えてる。重いかもしれないけど、それくらいお前のことが大切なんだよ」
私の視界にうつる智樹の顔が歪んでいった。
私は大好きな智樹が私のことをこんなにも思っていてくれたことがうれしくて、うれしくて涙を止められないでいた。
そして、私の中の覚悟は音を立てることなく、あっさりと崩れ去っていく。こびりついていたはずの未練はいつの間にかその覚悟の瓦礫を覆いつくし、見えないように隠していた。
「ありがとう……智樹、本当に、ありがとう……!」
私は本当に幸せ者だとおもう。私みたいなお荷物をこんなに大切にしてもらえて。
十分幸せなのに、さらに欲が出てきてしまう。摩擦のなくなったこの欲望は止めることができない。
どうしても、聞いておきたい言葉がある。お互い、気持ちは通じていても、ちゃんと口にしてもらいたい言葉、言ってもらいたい言葉がある。
私は袖で涙をぬぐい智樹に問いかける。
「最後の質問」
「な……に?」
智樹はもう眠っているのかと疑いたくなるような声で答えた。
「私は、智樹のことが大好きだよ。もちろん男の子としてね。智樹は、私のこと、どう思ってるの?」
これが、智樹から直接聞きたい言葉。聞いてしまえばきっと私は後悔するのであろう言葉。残り少ない一生を縛りつける言葉。
その凶器のような言葉を、智樹はゆっくりとだが、答えてくれる。
「そんなの……俺も……同じだよ。俺も……朱里の事が……」
そこで言葉が途切れる。途切れるといっても大した時間じゃない。でも、その先に待っている一番聞きたい言葉がなかなか顔を出してくれないのに待ちきれないでいるだけだ。
そして、智樹は続きの言葉を口に出す。
「大好きだ。朱里なしでは生きられないぐらい、朱里のことが……大好きだよ……」
そういうと、智樹は眠りについた。
私は、止まらない涙で智樹の髪をぬらしながら智樹の頭を抱きしめて何度もお礼を言った。
これからするのであろう苦労と、味わうのであろう苦痛。そのすべてを無視して喜べる言葉。そして、この世に強烈なほどに残してしまうであろう未練。
そのすべてを対価としてもこの言葉には足りない。
「ありがとう、本当にありがとう……!でも、やっぱり、聞きたくなかったな……」
その幸せを感じているとき、私はふと考えてしまった。私のいなくなった智樹のことを。私以上に想ってくれている彼のことだ。私との関係がこのままずるずると続き、さらに一層彼の中で私が積もっていけば、その先どうなるかを。
私の命はそう長くない。これから先、いつ死んでしまうのかなんてわからない。すぐ死ぬかもしれないし、あと何十年も生きるのかもしれない。そんな爆弾を抱え続けた私に彼はきっとずっと付き添って歩いてくれるだろう。それはうれしいことだ。
だが、いずれ彼よりもだいぶ早く私は死んでしまう。それは確定した未来。うぬぼれかもしれないが、私を失った彼はきっと、ひどく傷を受けるだろう。
私は彼にとって呪いのような存在でしかないのだ。ならば、私のすることは一つしかない。私は覚悟を覆い隠す未練を取り払い、再建する。愛する彼のためならば私は頑張れるはずだ。
彼が持ってきた、『チボー家の人々』を見る。この小説を彼がこの最後の日に持て来た時、運命のように感じてしまった。この小説のこんな一文がある。
「『命を懸けて君のものになる』か……。私には、そんな選択をとることはできない。だから、私はこの命を君のために捨てるよ」
そうつぶやいて、私は用意していた手紙の最後に、一文を書き加える。
「命を懸けて、君のために死ぬ」と。
そう、私は自分を殺せる恋をした。
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