エピローグ 君とは生きられない

 彼女への思いは日増しに強くなった。自覚してからは特に。キャンパスですれ違った時に見せる笑顔や、並んで歩くときに見える横顔、ほっそりとした小さな手に透き通るように長いまつげ。高校時代から変わらないショートボブは彼女の快活な一面をよく表しているように思う。そして、控えめに主張する胸部と程よく肉ぢた太ももが、刺激的でとても眩しい。その全てに興奮し、高揚する。最後は若干変態っぽいというか、フェチが混じっている気がするが、気にしないでおこう。好きな人の身体に性的興奮を覚える。それの何がいけないというのか。それに別に誰のものでもいいというわけではない。彼女のものだから興奮するのだ。そこのところを履き違えないでもらいたい。誰に言っているのだろう。自分にか。


 台所にケチャップライスの香りが充満し始めたころ、回想からもどってきて我に返った。回想の途中で冷静になり切れず、脱線して邪な思考がよぎるのはいつものことだ。センチな思いというやつに長く浸れない自分に苦笑してしまう。子供らしい子供じゃなかったから、大人らしい大人にもなれていないのだろうと思う。

 彼女への片思いとは、もう随分長いこと連れ添っている。そのくせ自分がうまく扱いきれず、若干持て余しているというか、暴走させてしまっていることは重々承知している。拗らせてしまったなと少し反省。

でも、彼女にこの思いを伝えることはやはり出来ない。

 だって彼女は……


 ピーンポーン


 そう考えたところでインターホンが鳴った。時間的にも彼女だろう。キッチンの火を止め、玄関へと向かう。今回の相手は確か大学に入って二、三か月で付き合い始めて、それからずっと続いていたので一年以上の関係だ。高校時代は半年未満の交際ばっかりだったことを考えればかなりの長期間交際なわけだが、はてさてどの程度落ち込んでいるのやら。そんなことを考えながらドアノブに手をかけ、そしてドアを開けると


 「会いたかったよおおおおおおおーーー」


 目の前の彼女がとたん抱きついてきた。ガバッという勢いだ。ガバッという。思わず抱きしめて受け止める。そうすると自然彼女のぬくもりに全身で触れるわけで、ドキドキしてしまう。心臓が跳ね上がって、体温が上昇していく。耳にまで血液が勢いよく流れ込んでくるのを自覚する。

 まずい、このままではかなりまずい。小さいながらも彼女にも当然おっぱいがある。そしてこの体勢ではその柔らかさが確実に伝わってくる。というか、おっぱいの感触よりむしろブラジャーの感触に興奮させられる。こんな固い布切れに欲情させられるとは悲しきかな。

 「ちょっ、ちょっ!離れて離れて!」

 彼女の背中をポンポンと叩きながらホールドからの解放を求める。本格的にこのクリンチはやばい。こちらのペースが完全に乱される。おそらく彼女との間に拳一個分のスペースはあるが、好きな相手に強烈なボディブローをかますほど阿保ではない。

 「やーだーよー!甘えたいよー、寂しいよー、辛いよー」

 こちらの要望を完全に無視し、彼女は全力で甘え続けてきた。まあ、確かに彼女は慰めてもらいにきたのだし、了承した身としてはこのぐらい受け入れてしかるべきなのだろうが、不意打ちに対応できるほどの器はない。半人前で申し訳ないが、出来ないものは出来ないのだ。最も彼女はこちらの気持ちには気づいていないので、多分純粋に幼馴染に甘えているだけなのだろうか。

 「ほらっ、ほらっ!もうチキンライスは出来てるから。あとオムレツ焼くだけだから。早く中に入っちゃって」

 そう言うと、彼女はようやく離れてくれた。助かる。これ以上くっつかれたら流石に平静は装えない。彼女を中に迎えながらようやくドアを閉める。幸いご近所さんには特に見られなかった。助かる。

 テーブルの椅子を引き、彼女を座らせてからキッチンへと向かう。フライパンにバターをひいてから卵を割り、オムレツの準備をする。今日こそ頑張ろうと思ったが既に心は荒波だ。敗北の予感を味わいつつ、深呼吸して気持ちを落ち着ける。

 「はぁー、私ってそんなに魅力ないのかな…。それとも、魅力を上回るほどの欠点があるのかな…」

 卵をかき混ぜていると、彼女がそんな風にぼやく。さっき熱烈なハイテンションハグをかましてきたからあまり落ち込んでいないのかと思ったが、どうやらやはり精神的にきているらしい。声に悲しみが滲みまくっていた。

やっぱり素直だなと場に似つかわしくない感慨めいたものを覚える。

 「私、彼のことが好きだった。たぶん今まで付き合った人の中で一番。こういうのは比べることじゃないのかもしれないけど、それでも彼のことが一番好きだったんだと思う」

 落ち込む彼女の言葉の中に含まれた「好き」の二文字に手が、脳が、心が震えた。こんなものは何度も味わったはずなのに、いつまでたっても慣れはしない。

だから、オムレツも上達しない。

 卵を充分熱したフライパンに投入し、半熟状態を作るように菜箸でかき混ぜる。見た目が良くはないスクランブルエッグ擬きがフライパンの中で広がる。後はこれを上手く端に寄せ、天地を変えて形を整えるだけ。ただ、それだけだ。

 「へぇー、そんなにだったんだ」

 震えず言葉を返せたのだろうか。分からない。自分の声すら今は遠い。水の中で発した言葉のようにボコボコといういらない付属音に聴覚が支配される。

 ただ、今日もまたオムレツを作るのは失敗した。上手く裏返せなかったそれは、グチャグチャで不格好な半生の部分をいくらか晒し、テレビに出る見目麗しいオムレツとはいささか以上に異なるものとなった。綺麗じゃない部分が上手く隠しきれていない半月型の物体を遠い目で見つめる。一瞬心が冷え込むのを感じたが、すぐに気持ちを切り替えてオムレツを取り繕い、皿に持っておいたチキンライスの上にのせる。

 結局今日も勝てなかったか。既に何度も味わった敗北の味を噛み締める。広がる苦さはどうにも上手く飲み下せなさそうだった。



 「うーん、美味しい!やっぱり美味しいよこれ!」

 口一杯にオムライスを頬張った彼女は笑顔でそう言った。オーバーなリアクションとその笑顔に若干嘘の色、誤魔化しの気配があるのがすぐに分かる。結局バレバレな彼女に愛しさを感じるのは愛故だろうか。

 「すごいよ、これだけ作れたらモテモテだね。料理できる人はモテるもんね」

 彼女は手放しで称賛を投下してくるが、嬉しいかと聞かれればそうでもない。なにせ彼女に作るためにオムライスは上達したのだ。それ以外に作れる料理も大抵は彼女の好物。思わず、君以外のために作る料理にいみはないよ、などと恥ずかしいキザっぽい台詞を考える。

 でも今更羞恥は湧いてこない。こんなものは何度も考えていることだ。嫌なことにはなかなか慣れないが、色鮮やかなドキドキは味わえば時間と共に少しずつ風化していく。恥ずかしい台詞は跳弾性を失った心にぶつかって、あえなく壊れてしまった。

 「ありがと、それで今回は何が駄目だったの?」

 適当に礼を言いながら、彼女の話に話題を持っていく。覚悟は決めてある。惚気話もどんとこいだ。というか、むしろこのまま彼女から話始めさせる方が怖い。どんな爆弾が不意に投げ込まれるか分かったものじゃない。

 「えっと。今回はね、知っていると思うけど……」

 彼女はスプーンを一度止め、そしてポツポツと成り行きを話始めた。相手との出会い、どこに惹かれたのか、どんなデートをしてきたのか、彼女はつっかえながらも話していく。それに対しては必要以上に言葉を返さないでおく。上手く返せる自信もないし、何より彼女に必要なのは思い出、すでに思い出と呼ぶべきものとなった記憶の数々を話しながら整理する時間だ。慰めや同情の言葉じゃない。それをよく知っているから、あえて相槌にとどめる。

 「それでね、その時彼が私に……」

 楽しかった頃の話に宿る喜びが、寂しかった時期を話すときに滲む悲しみが、言葉に隠れきれない彼女の感情が垣間見えるたびに、視線は自然下を向く。

 一年.その間に彼女が累積してきた出来事。

 その数々に、知らない彼女の世界の存在を否応なく思い知らされる。そのことに不快感を覚える自分にまた、憤りと醜さを感じた。なんてわがままなんだろう。

 「それで今日呼ばれて…『別れよう』って、『合わなかったんだよ』って…」

 いよいよ別れ話に入った彼女の目に宿る雫が胸を塞ぐ。渦巻いた感情が言葉という形を求めて奔流する。

 誰だ。彼女を泣かせ、悲しませ、苦しませるのは一体誰だ。

 知った答えを尚も問うのは解答が欲しいからじゃない。きっと、問うことで自分の弱さから目を背けているのだ。ただの現実逃避にほかならない。

 伝えたかった。君が好きだよと。

 言いたかった。絶対に泣かせないと。

 話したかった。そばにいるよと。

 でも思いは思いのまま、口から出ずに胸に残る。だって彼女が涙を拭きながら、笑ってこう言うのだから。

 「こういう時、持つべきものは素直に何でも話せる幼馴染だね」って、冗談めかしてそう言うのだから。

 彼女にとってはただの幼馴染。困ったときに助けてくれる一番の親友。頼りになる腐れ縁の相手。

 求めているのは思いを自由に吐き出せる場所で、求められているのはいつまでも変わらずにいることだ。

 そうだと知っているから気持ちは伝えられない。きっと、この気持ちを伝えても彼女は迷惑だろう。なにせ今まで性対象とすら見ていなかった相手からの突然の告白である。確実に戸惑うし、下手すれば禍根を残しかねない。そうすればもうこうして話すこともないのかもしれない。

 それは嫌だった。近くて遠いこの距離を失うことは、届かない気持ちを抱え続けることの数十倍は嫌だった。そして何より、そんな私情で彼女の憩いの場を壊してしまうのが嫌だった。

 彼女とは付き合えない。当然結婚もできない。いつまでもこうして話すことはできるけど、困ったときに肩を貸してあげることはできるけど、それでも特別な意味で隣に立つことは決してできない。出来ないものは出来ないのだ。

 「貴方に気がないんでしょ。だから、一緒にいることはできても、一緒に生きることはできない」

 そんな風に話した女友達の言葉をふと思い出した。ずいぶん上手い言葉遊びだと、聞いた時は苦笑した。その子は目を赤く腫らしていた。気持ちに応えられないと告げたあの時の苦さ、心苦しさもあってよく覚えている。

 「一生一緒に生きられない人のそばにいることに、一体何の意味があるの」

 そんな詰問もされた。意地悪というか、性悪だと分かっていても曖昧に微笑むことしかできなかった。答えなんて持ち合わせてはいないのだから。

 「ありがと。ちょっと落ち着いた。っていうか、少し頭回るようになった」

 話すことで元カレへの思いを手放せたのか、彼女はいくらか吹っ切れたような顔をしていた。けれど所々に散りばめられた悲しみの残滓が、全回復ではないことを雄弁に語っている。

 これはもう少しかかりそうだなと考え、どこかに遊びに行くための計画を頭の中で立てる。某ネズミの国のようなテーマパークよりは、ウィンドウショッピングを楽しめる場所の方がいいだろう。衝動買いしすぎない程度で楽しめるデパートや百貨店、複合ショッピングセンターをいくつかリストアップする。

 腕組みしながらそんな風に彼女慰め計画を立案していると、彼女がこちらを下から覗き込んできた。上目遣いがどこか蠱惑的で、あどけなさを残したオトナの魅力にとりつかれそうになる。

 「優しさに甘えっぱなしだし、実際いつも私の悩みを聞いてくれるのは助かるけどさ、ゆうちゃんも困ったときは私に相談していいんだよ」

 どうやら彼女はポージングからこちらも何か悩みごとを抱えていると判断したらしく、そして心配してくれたらしい。気持ちは大変嬉しいが、馬鹿正直に、君を癒す方法を探している、なんて言えるわけがなく答えに詰まる。

 「別に……、特に困ってることとかないよ。勉強に関しても、私生活に関しても…」

 ちょっとつっけんどんに返してしまうが、これでも結構努力したので許してほしい。視線を横にそらしながら、続く質問を避ける。

 この返答は予想していたのか、彼女は目の前で苦笑いしていた。それから、

 「困ってない、ってことはないでしょ。ゆうちゃん今まで誰とも付き合ったことないんだし。少なくとも、色恋沙汰に関してはアドバイス欲しいんじゃない」

 そう続けてきた。図星だった。昔はそもそもそういったことに興味がなかったし、思春期に入ってからは彼女一筋だったわけだから、確かに恋の話題が表立って人生で語られることは今までなかった。個人的には結構色々あるんだけどなあ。

 「告白とか、沢山されてるんじゃないの。ゆうちゃん家庭的なんだからモテるでしょ。何で一つもオーケーしないの?」

 これもまた図星だった。例の女友達も含めて、確かに告白自体は何度かされた経験がある。でも全部お断りさせてもらっている。当然本人の前でその理由を言うことは出来ない。

 だから、誤魔化すためにまた突っぱねるような返しをしてしまう。ひねくれ者はいつまでもひねくれ者のままだ。大概変わらない。

 「別に…、告白されてもそんなに嬉しくなかったし、相手のことそんなに好きだったわけでもなかったから」

 本当のことは言わなかったが、嘘も言わなかった。現状維持のため、今の関係性を変えないために言葉を紡いだ。そして、多分これはは間違えてない選択だ。

  どうやら返した答えは彼女にはいささか納得いかないようだったが、一応は理解してくれたらしい。でもからかうような口調でこんなことを言ってくる。

 「まあ、ゆうちゃんはしっかりしてるし、私の心配なんていらないかもだけど。でも、墓場まで処女持ってかないように気を付けてよね」と

 ハハハと私は乾いた笑いで返した。持っていきたくはないけど、この実らない片思いに魅入られている限り、忠告は聞き入れられそうもない。

 彼女も冗談のつもりで言ったのだろう、すぐにあははと笑った。二人して向かい合いながら笑う。私の笑顔は若干引きつっていたかもしれないが、それでも笑った。笑って、笑って、笑って、笑った。

 彼女に笑っていてほしいから、笑った。

 笑いながら、また女友達の言葉を思い出した。あの言葉遊びがあまりに的確な表現で、それが面白くてまた笑う。



 ああ、本当に

 彼女を近くで見守ることは出来るけど

 彼女を笑顔にすることできるけど

 彼女の涙を止められるけど

 彼女の傍にいつまでもいれるけど


 

 私は彼女のパートナーにはなれない。相棒とかバディとか、そういった関係性にはなれるけど、絶対にパートナーにはなれない。



 私では、彼女と共に生きられない。

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君とは生きられない 宮蛍 @ff15

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